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梅雨の晴れ間【酒蔵便りvol.9】

<酒蔵の様子>

山田錦の苗(7月8日撮影) 酒造好適米「山田錦」の苗の成長報告です。
6月14日に田植えを行いました。10センチ程に育った苗を一本ずつ植えました。苗と苗の間隔も通常の食用米の二倍ですから、田植え直後はどこに植えたかわからない程、ショボイ状態でした。田植えから4週間、苗は平均して30センチにまで成長しました。
 田植え後暫くは雨が少なく心配しましたが、今月は梅雨前線が活発で、苗も嬉しそうです。梅雨が明けると太陽の光を一杯吸収して、株が分かれて葉が茂り始めます。


<今月のテーマ> *後編* 熊野の廃仏毀釈

8.廃仏毀釈
 明治元年、廃仏毀釈の嵐が日本中で吹き荒れます。「神」の復活、そして国家神道の始まりです。奈良の興福寺でさえも全僧侶が春日大社の神官に転籍になり、五重塔が売りに出されました。日本中で仏教寺院が破壊されました。
 熊野本宮では、熊野信仰の原点である阿弥陀如来が消えました。もとは川の合流点の大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる中洲にありましたが、明治22年の水害の後、現在の地に移転しましたので、仏教の痕跡は何一つ残っていません。現在、本宮大社では日本各地に五千以上の熊野神社があることを誇りますが、その多くは廃仏毀釈で寺を潰して神社を建てた時、阿弥陀如来を祀っていた縁で熊野権現を選択したに過ぎないと私は推測しています。
 中谷酒造のある番条町でも、光明寺という立派な寺を潰して熊野神社が建てられました。光明寺の阿弥陀仏は、町内の阿弥陀院に運ばれ難を逃れました。
 那智では1590年に豊臣秀吉が建てた如意輪堂の破壊を免れました。廃仏毀釈の嵐が収まった明治7年に青岸渡寺と改名し、天台宗の寺として復活しました。これは南紀唯一の重要文化財です。この寺院建築や観音像を通して、かろうじて往時の熊野信仰のイメージを垣間見ることができます。

9.神社として
熊野本宮大社 現在、那智大社として拝んでいる神社建築は幕末の嘉永年間と言いますからペリー来航の頃、将軍家茂の時代に建てられたものです。丁度、中谷酒造の創業期にあたります。
 速玉大社は明治時代に火災にあったこともあり新たに造られました。
三社の神社建築で最も古いのが本宮です。第一殿から第四殿は江戸後期、1802年に建てられました。明治維新前のこの時期に建てられた理由として、紀州藩に仕えた本居宣長の国学の影響を私は考えています。少なくともこれが建てられるまでは本宮も天台宗の寺院として運営されていました。熊野三社が今のように神社としての形を整える原型は、この本宮から始まったようです。
 第一殿から第三殿は熊野三社の主神がそれぞれ祀られています。第四殿に天照大神が祀られているのは、国学の影響でしょうか、或いは崇神天皇が社(やしろ)を建てた時からのものでしょうか。本宮大社のシンボルは神武を山中で導いたヤタガラス、即ち古来中国で太陽の象徴とされてきた三本足の烏です。天照大神は他の二社にも準主神の扱いで祀られています。

10.世界遺産考
 本宮大社も速玉大社も戦前そのままに、昭和15年を紀元二千六百年としてその歴史を数えています。崇神天皇が大和王権を確立するのは4世紀ですから、「二千年前」というのはいただけません。因みに伊勢神宮では、雄略天皇(5世紀末)を「千五百年前」と新しい歴史の成果に基づいて書いています。
 又、本宮大社ではヤタガラスの詳細な説明がありますが、中国の影響を書くのを敢えて避けているようです。私が質問したところ「日本独自のもので中国とは関係がない」と主張していました。三本足が偶然共通するとは考えにくいところです。
 世界遺産であるからには、世界の人々が納得できるものでなければなりません。今更、国家神道でもありますまい。「二千六百年」でも「万世一系」でもないことは小学生でも知っています。それよりも、本宮大社では常陸宮殿下がかつて愛用されたヨットが野晒しで、朽ちるにまかされていました。日本人として、恥ずかしい思いがしました。

(熊野信仰について、終わり)

写真上:山田錦の苗(7月8日撮影)
写真下:熊野本宮大社