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盛夏【酒蔵便りvol.10】

strong><酒蔵の様子>

山田錦の稲(7月31日撮影) 酒蔵の中は、土壁のおかげで外気の影響を受けにくく、ひんやりとしています。タンクに貯蔵された原酒は、気温につれて徐々に温度が上がり熟成していきます。
 さて、酒造好適米「山田錦」の稲の成長報告です。
6月14日の田植えから二ヶ月弱が過ぎました。稲の丈は高いもので70センチです。苗は一本ずつ植えたのですが、平均して8本くらいにまで株が分かれて葉が茂っています。太陽の光をいっぱいに吸って葉の色は濃い緑です。隣の食用米は早稲ですので間もなく穂が出ます。それに比べれば高さで15センチほど負けていますが、山田錦は背が高いので、穂が出る8月末には追いつきます。順調に生育しています。


<今月のテーマ>

大神神社(おおみわじんじゃ)

 奈良盆地の東、山裾から突き出すようなゆるやかな円錐形の山があります。三輪山(みわやま)です。緑に覆われた山の西麓に神社はあります。通称「三輪神社」、地元では「みわのおおがみさん」と呼んで親しまれています。
 「酒造りの神様」として有名ですが、古来、山自体を御神体(ごしんたい)とする自然信仰の起源から「日本最古の神社」とも呼ばれています。今回と次回の二回に分けて紹介致しましょう。

<前編>
1.歴史書の記述
三輪山登り口 奈良時代初期に編纂された古事記と日本書紀(記紀)には、崇神(すじん)天皇が、夢に現れた大物主(おおものぬし)の神意に従って、この神を三輪山に祀った経緯が書かれており、これが大神神社の起源とされています。
 崇神天皇は3世紀末から4世紀初頭の人ですから、神社の起源も4世紀初頭ということになりそうです。ところが戦後の考古学の進歩や中国、朝鮮半島の歴史調査から、神官に指名された大田田根子(おおたたねこ)も、祭器を作った物部(もののべ)氏も、5世紀に大和にやって来たらしいことが判明してきました。ですから創建は4世紀ではあり得ません。この他にも記紀にはおかしなところが多くあり、それは作為的になされたものと推測されています。

2.記紀の背景
 事実と異なる歴史を記述した理由を知るには、記紀が編纂された時代背景を知る必要があります。
 壬申の乱(672年)に勝利した天武天皇は、中央集権国家の建設を急ぎます。当時国政の最高実力者であった藤原不比等は、歴史書の編纂を通して政権の正統性を強化することにしました。そこで、少なくとも3回あったと考えられる王統の断絶を無視して、初代神武天皇から現天皇に繋がる「万世一系」の天皇による統治として歴史を「創造」したようなのです。

3.創建前夜
三輪神社拝殿 不比等が歴史を創造した当時、三輪山麓には既に三つの信仰の名残りがあったはずです。 一つは、紀元4世紀よりも前のことですが、「葦原中国(あしはらなかつくに)」の人々が三輪山を拝んだ場所です。それがどこであったのかは特定はできませんが、三輪神社の北隣の狭井(さい)神社境内の登山口は意味ありげです。聖なる山への登山という発想は、通常あり得ません。特別な人と場合に限定されるはずだからです。
 二つめは、「葦原中国」を滅ぼした崇神(すじん)天皇一族が信じた太陽を拝む場所です。狭井神社の北にある桧原(ひばら)神社をそれと考える学者が多いようです。桧原神社には社殿はなく、鳥居が立つだけの原初的な信仰の形を残しています。
 三つめは、5世紀に崇神一族を滅ぼした応神(おうじん)天皇一族の聖なる井戸「磐井(いわい)」です。雄略天皇即位前の王位継承の争いで御馬(みま)皇子が「この水を王者だけは飲むことができない」と呪って死んだ三輪の「磐井」とは、狭井神社の泉ではないかと私は考えています。

4.神社創建
 三輪神社の創建が4世紀ではないとして、いつ頃と考えられるでしょう。実に歴史を創造した不比等の時代に、主な神社が次々と整備されていったと考えるのが自然です。不比等は、自ら創った神話と歴史を生きたものにする為に、神や滅ぼされた王を「偉大なる祖先」として祀る「形」としての神社を必要としたに違いありません。
 「一貫して」国の中心である大和には神話時代から神が居たはずです。「葦原中国」の人々は三輪山を聖なる山としていましたから、「大物主」を創造して祀ることにしました。これが今に続く三輪神社の始まりです。

次号に続く

写真上 山田錦の稲(7月31日撮影)
写真中 三輪山登り口
写真下 三輪神社拝殿