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素麺の来た道 <前編>小麦の伝来と普及【中国日記vol.117】

 福建省福州市の日本料理店で、主食に素麺(そうめん)を薦めていただきました。出てきたものは、非常に細く歯ごたえもあり、最高級のものです。
 「これ、上物(じょうもの)でしょう。良い物、使っておられますね」と私。
 「褒めていただくと嬉しいです。これはここのものですよ。素麺は福州から日本に伝わったんです。私は産地まで手延べの物を買いに行っています。」とご主人。
 「そうやったんですか!」

1.三輪素麺
大神神社境内から大鳥居と桜井の街を見る 三輪(みわ)とは大神神社(おおみわじんじゃ)のある奈良県桜井市を意味します。奈良盆地東部、宇陀に連なる山を目の前にして、冬の底冷えは格別です。この乾燥した冷気が素麺作りに適しています。農家の冬の副業として昔から素麺作りが盛んでした。
 江戸時代、庶民の大日如来信仰が娯楽を兼ねた伊勢参りになり、大坂から長谷寺経由で伊勢に向かう旅人の宿場として桜井は栄えました。明治の廃仏毀釈の前ですから、大神神社というより大三輪寺(大御輪寺)でしたが、これも栄えました。三輪素麺は、伊勢参りの興隆と共に全国にその名を広めました。

2.小麦の伝来
 三輪の素麺業界では、奈良時代に大神神社の宮司の次男が小麦の栽培を始め、それを原料に乾麺を製造したのが素麺の起源としています。
 奈良時代は、大和国が日本の中心でしたから小麦の種が伝わり、栽培を始めたということを否定はできませんが、「日本最古の神社」といった大神神社の宣伝と結びつく点では今ひとつ信憑性に欠けます。
 素麺に限らず、メンを作るには小麦粉が必要です。小麦は粉にして食べる以外の方法は例外と考えられますから、小麦の伝来と臼の伝来は一式で考えるべきでしょうし、その粉でどういう食品を作るかも併せて伝わったと考えるのが常識的です。中国の黄河文明は麦の文化ですから、大陸と日本列島の交流を考えると遣唐使の時代以前から小麦栽培とメンは日本に伝わっていたことでしょう。それが一般に広まるのは、平安時代に弘法大師空海が饂飩(うどん)を伝えたことが契機になったようです。

3.空海の辿った道
 空海は、平安時代の延暦23(804)年夏に遣唐使船に乗り明州(今の浙江省寧波市)の港を目指しますが、南に流されて福建の海岸に漂着します。一行は福州に送られ、都長安に向かう許可が出るまでの1ヶ月を福州で過ごします。この間空海は、開元寺や涌泉寺を訪れています。その年の暮れに長安に入り、わずか半年で密教の本山・青龍寺で秘伝を習得、翌延暦25年3月に長安を発ち、明州から遣唐使船で帰国します。

4.饂飩を知る
 空海は、中国で饂飩を食べました。この饂飩が今日の「うどん」とは異なったものであったという議論もありますが、何れにせよ小麦粉を練って作った食品です。原料の小麦は、秋に種を播き、初夏に収穫します。水田稲作地帯では、稲の裏作として栽培している事実を知って空海は驚いたことでしょう。同じ土地から米に加えて麦も穫れるのですから。
 福州は、航海を得意とする越の人々の拠点として栄えた街です。越は戦国時代に「中原の覇者」となった強国で、紀元前から麦麹を使う米の酒、今で言う紹興酒の醸造を行い、その販売で栄えていました。福州のあたりには、裏作での小麦栽培や小麦を食べる文化が入っていたようです。空海の通ったルートから見れば、越の本来の拠点に近い明州でも同じことが言えます。

5.二毛作の普及
 中国の宋の時代、石炭火力の使用が始まり、鉄が大量に生産されました。それが日本に輸入され、鉄製農具に加工され耕作効率が上がり、農業革命が始まります。麦の二毛作は、鎌倉から室町時代にかけて一気に普及します。うどんを食べる習慣も広まったことでしょう。私は関東地方の煮込うどん「ほうとう」を頭に浮かべています。
 いよいよ素麺を受け入れる素地が整いました。

前編終わり

写真:大神神社境内から大鳥居と桜井の街を見る