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甑(こしき)倒し【酒蔵便りvol.17】

<酒蔵の様子>
 4月5日、今シーズン最後の米を蒸す作業を行いました。四段仕込に使います。残るもろみは3つのタンク、13日に全てのもろみを搾り終えます。
米を蒸す道具を甑(こしき)と言います。昔は直径が1メートル以上もある大釜の上に甑を載せ、そこに米を入れて蒸していました。現在は、ボイラーで作られた蒸気を清蒸器(せいじょうき)と呼ばれる二次蒸気発生器を通して清浄な蒸気を甑に直接吹き込みます。
酒造りが終わりますと、甑を外します。これを甑倒しと呼びます。そのシーズンの仕込み作業が終わるので、酒蔵の酒造りに携わる全員が参加して慰労の宴席を設けます。やれやれ、という訳です。
その後、仕込まれた全てのもろみを搾り終えると「皆造(かいぞう)」。酒造りが皆終わったということで又慰労の宴席を開きます。日本中の酒蔵で続いてきた伝統です。冬の間、ずっと忙しかっただけに一つの区切りとして酌み交わす酒の味は格別です。

<今月のテーマ>斎宮(さいぐう)
斎宮 斎宮 伊勢神宮外宮(げぐう)に祀られている豊受(とようけ)神は、内宮(ないぐう)に祀られる太陽神・天照大神に奉仕する神ですが、酒造りに深い関わりを持つことはVOL.6(2005年4月)にてご紹介しました。今回は、伊勢神宮の起源と信仰について、斎宮を通して考えてみましょう。

 伊勢神宮から北西に約15キロ、国史跡に指定されている斎宮跡があります。斎宮とは、天皇に代わって伊勢神宮に仕えた斎王の宮殿です。斎王は未婚の皇女の中から選ばれました。1970年に始まった発掘調査の結果、天武天皇の世、西暦673年に選ばれた大来皇女(おおくのひめみこ)が実在する最初の斎王と考えられています。
斎宮は、奈良時代の終わりには東西2キロ、南北0.7キロの規模を持つに至りました。近鉄山田線の斎宮駅一帯から東に広がる広大な区画です。12メートル幅の道路で碁盤目状に整然と区画され、都の建物に匹敵する立派な建物もあり、多くの役人が居住する一つの街を形成していました。平安時代の末期からは手入れも行き届かず、斎王の派遣も滞ることがありましたが、鎌倉時代が終わる西暦1333年まで660年もの間、斎宮制度は維持されました。

 天武の時代の後、藤原不比等が編纂した古事記と日本書紀(以下、記紀)によりますと伊勢神宮は、垂仁(すいにん)天皇が天照大神を大和から伊勢に移したのが始まりとしています。垂仁は4世紀前半の人です。その伊勢神宮創建から斎宮の設置に至るまでの約350年間については、記紀に記述があるものの実在は確かではありません。創建が何時であったにせよ、天武天皇が斎宮を始めたのは唐突な感じを受けます。

 発掘の結果、意外な事実が浮かび上がってきました。斎宮には瓦(かわら)が使われていなかったのです。桧皮葺(ひはだぶき)あるいは茅葺(かやぶき)であったのでしょう、瓦が出土しないのです。
瓦は仏教伝来と共に寺院建築の為に使用が始まったものです。当時既に法隆寺をはじめ日本中に多くの仏教寺院があり瓦は普及していました。都の建物にも瓦は使われていました。斎宮では意識的に瓦の使用を避けたことがうかがわれます。

 天智天皇とその子の弘文天皇までは親百済政権でした。西暦660年に唐と新羅の連合軍が百済を滅ぼします。日本(倭)は、百済復興を目指して朝鮮半島に出兵しますが663年に白村江で大敗し、百済復興の夢は潰えます。
672年、壬申の乱で弘文天皇を倒して即位した天武天皇は親百済ではありませんでした。百済は仏教王国でしたから日本の政権内部でも仏教を重んじていました。親百済政権を倒して即位した天武は、一線を画す為に仏教を重んじる訳には行きません。それよりも自身の正統性を明確に打ち出す必要がありました。それが太陽神・天照大神を最初に宮中に祀った崇神(すじん)天皇、伊勢に移した垂仁天皇、そして祭祀を続ける自身に至る王権継承の明確化だったのでしょう。これが伊勢神宮を整備し、斎宮制度を始めた理由と推測されます。

参宮街道 奇妙なことですが、明治になるまで歴代の天皇は誰一人伊勢に参っていません。天皇が参ったのは神仏が習合した熊野であったり、平安京の守護神として祀った石清水八幡であったのです。天武天皇が斎宮制度を確立して以来、一貫して伊勢は信仰の対象ではなかったことがうかがえます。ただ祭祀の形(かたち)、即ち儀式があったのです。形は室町、戦国、江戸の各時代を受け継がれ、天照大神は偉大な神として武士や庶民にも受け入れられていきます。

長谷川邸 江戸時代、伊勢参りは娯楽としての要素を濃厚にはらみながら庶民の間に流行し、参宮街道が形作られました。斎宮跡からその街道を北西に向かうと、10キロほどで松阪の城下町に入ります。松阪は綿織物や和紙を江戸に積み出して栄え、三井や小津、長谷川といった大商人が生まれました。小津家の次男として生まれた本居宣長は記紀の研究を行い、国学を大成しました。「万世一系の天皇による統治」を打ち出し、明治の国家神道確立の礎となりました。死後70年にして明治天皇による始めての伊勢神宮参拝が行われ、伊勢神宮が皇室の最も重要な祭祀の場になることはもとより、自身が「本居宣長の宮」に学問の神様として祀られることになろうとは思いもよらなかったに違いありません。

斎宮、終わり

写真上 斎宮跡
写真中 参宮街道
写真下 長谷川邸