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酒米の田植え【酒蔵便りvol.19】

<酒蔵の様子>
 梅雨の前の夏を思わせるまぶしい日射し、梅雨前線が近づいてきました。
ここ大和郡山各地では田植えの季節が始まりました。
6月7日、委託農家さんの田んぼでは山田錦の田植えが始まりました。
苗は、1ヶ月余りで15センチほどに伸び、根もしっかり成長しています。
 13日には中谷酒造管理田で田植えを行う予定です。
出雲大社本殿 田植え直後の山田錦

写真左 分解して洗浄を終えた放冷機
写真右 田植え直後の山田錦(鈴村文夫氏管理田)


<今月のテーマ> 出雲大社 中編
5.本殿の規模
出雲大社本殿 7世紀来、「宮(みや)」にふさわしい立派な本殿が建てられ、それが受け継がれました。何度か立て替えを行いましたが、大きな建物ですからお金がかかります。鎌倉幕府が衰えを見せ始める弘安5(1282)年以降の約三百三十年は、以前より縮小した規模で維持されていました。戦国武将の尼子氏や毛利氏が造営にあたっています。
 江戸時代を迎えて豊臣秀頼、そして江戸幕府というスポンサーが付き、大きな規模に復帰します。現存のものは1744(延享元)年に建てられたもので、高さは約24メートルです。これは「大社造り」という建築様式で、国宝に指定されています。

6.高層伝説
出雲大社拝殿 平安中期の源為憲の著作と言われる「口遊(くちずさみ)」の中で、出雲大社(「雲太」)、東大寺大仏殿(「和二」)、京の大極殿(「京三」)の三つを立派な建物の代表として挙げています。これを高さの順に並べたとみて、15丈(45メートル)の大仏殿よりも本殿が高かったとする説があります。
 2000年に行われた発掘調査で三本束ねた巨大な掘っ立て柱の根本が発掘された時には、やはり東大寺を超える16丈(48メートル)の高さがあったのではないかと大変話題になりました。発掘が進んで遺跡が鎌倉時代前期のものであることや、その平面規模が現在とそれほど変わらないことは明らかになりましたが、結論は出ていません。
 規模が縮小した時期に本来の規模に戻したいという願望が高層伝説を生んだのでしょうか。或いは日本海沿岸で縄文時代から続く巨木を使った高層建築の伝統が脈々と受け継がれていたのでしょうか。何れにせよ世襲された国造を中心に出雲の人々の気持ちを一つにまとめ、出雲人の誇りとして大きな社殿が維持されてきたことは素晴らしいことです。

7.神仏習合と分離
 ほとんどの神社同様、出雲でも神仏習合が行われるようになりました。鎌倉時代から神前読経が始まり、本殿も仏教寺院のように朱に塗られました。戦国時代には三重の仏塔や大日如来を祀る御堂が建てられました。
 仏教は複数の教典を持ち、時代や伝播した国や地域に応じて信仰の内容が変化してきました。八百万(やおよろず)の神を持つ日本という風土に適応する上で神仏習合は避けられないことでした。「神道」という仏教に対峙する概念が確立したのは明治の国家神道の時代であり、それまでは各地のそれぞれの神と仏は仲良く暮らしていたのです。
 江戸時代、造営費用を拠出してもらう為には日本という国にとって特別な歴史と意味を持つ神社であることを幕府に納得させなければなりません。その為には、記紀に書かれた神代(かみよ)のことから説き起こします。仏教伝来以前ですから、仏は居ないはずです。仏を排除する動きが生じました。寛文7(1667)年の造営では、仏教に関係する建物は除かれ、本殿も白木造りになりました。日本最初の神仏分離の動きと言ってよいでしょう。 

中編終わり

写真上 出雲大社本殿
写真下 出雲大社拝殿