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秋の訪れ【酒蔵便りvol.22】

<酒蔵の様子>
出穂後一週間 8月末、中谷酒造管理田の山田錦は穂を出し始め、9月3日にはほぼ出そろいました。
それから約1週間、穂は真っ直ぐに天を指しています。「穂水(ほみず)」と言って、穂が出た後は水田に水を張ります。夏の間、ほとんど自然の降水以外に水をやりませんでしたので、根は水を求めて深く広く張っています。この根が力強く、水と共に栄養を穂に運んでくれます。
1ヶ月後、穂は頭を垂れ、収穫時期を迎えます。

写真:出穂後一週間


<今月のテーマ>
お待たせしました。今月から三回に分けて、宇佐八幡をご紹介します。前編では八幡神の素性に迫ってみましょう。

宇佐八幡 <前編>  創建と八幡神
1.藤原王権
 686年、天武天皇崩御。天武の死後、実質上藤原不比等が政権を担います。
 不比等は天武の歴史創造の仕事を引継ぎ、後に古事記と日本書紀(以下、記紀と略)にまとめられる歴史書の完成を目指します。又、天武の后を持統天皇として即位させ、しかも自宅に住まわせて自由に操るのです。
 天武は唐の都長安に倣った碁盤目状の壮大な新都建設を開始しましたが、不比等はこの新都建設も引き継ぎます。この都は、新益京(あらましのみやこ)と呼ばれますが、記紀の中では藤原京と記しました。不比等は都に自分の姓を冠することまでできるようになっていたのです。正に、藤原王権と言えるでしょう。
 不比等は694年に藤原京に遷都させますが、その後間もなく平城京への遷都を決断します。遣唐使は、690年に武則天が唐を乗っ取り、国名を周に改名して洛陽に遷都したことを報告しています。その事績に倣ったのかもしれませんし、或いは他の豪族の反発があったのかもしれません。710年に平城京遷都が実現します。

2.歴史創造
 不比等は、孫(聖武)を天皇にすべく準備し、その間に藤原王権に都合の良い歴史を創造して行きます。712年に古事記が完成、720年に日本書紀が完成します。
 不比等は創造した歴史を形あるものにする為に、神社を建築して行きます。特に二つの神社が重要です。
 神武東征により滅ぼされた3世紀までの支配者である「出雲族」の信仰を祀る大神神社(おおみわじんじゃ)と神武東征以後崇神から始まる4世紀の王の信仰を祀る大和神社(おおやまとじんじゃ)です。何れも7世紀末、藤原京遷都の少し前の創建と考えられます。
 大神神社の神官の一族の大神氏が宇佐八幡創建準備の為に派遣され、地元の辛島氏と共に神官を担います。又、大和神社の神官と同族の宇佐氏も神官に加わります。
 不比等は日本書紀完成の年に亡くなりますが、死後4年にして聖武天皇が実現します。

3.宇佐八幡創建
宇佐神宮上宮(内側に本殿) 聖武即位の翌725年に宇佐八幡は創建されます。それは朝廷にとって、応神に始まる5世紀の王の実在を示す「形」としての神社が必要と考えられたからに違いありません。5世紀の王達の都が置かれた河内ではなく九州の宇佐が選ばれたのは、応神が東征を開始する前の重要な拠点であり、又東征の出発港に近かったからと考えられます。
 宇佐に社殿が完成した時には八幡神を祀りました。八幡神とは何か、それを話せる人は既に居ません。後世に書かれたものの中に当初から応神を祀ったとするものもありますが、少なくとも現代のように応神天皇そのものを指していたとは思えません。5世紀の王達が信じた神であったはずです。

4.秦氏と八幡
 「八幡(やはた)」の「はた」は、機織りの最新技術を伝えた秦氏に通じるように思われます。神官の大神氏と辛島氏は何れも秦氏でした。八幡神は本来、秦氏の神だったのでしょう。
 秦氏は、五胡十六国時代の前秦(後にも秦ができるので、区別するために「前」の字を付ける)に属した人々です。前秦は371年に華北を統一し、高句麗と新羅を朝貢国にしていました。更に中国統一を目指し383年に東晋と戦いますが破れ、間もなく滅びます。滅亡後、華北北部に居た人々は朝鮮半島南部や九州北部、やがて西日本各地に移住して行きます。丁度、5世紀の応神天皇の東征の頃です。
 秦氏は機織りのみならず、金属加工、治水、土木、建築、商業、窯業、醸造、その他多くの分野で高度な技術と知識、それに文化を日本にもたらしました。
 更に「はた」は「旗」のことであり、「八」は数が多いことを示すように思われます。現在各地の八幡神社に見られるように多くの白い幟旗(のぼりばた)を立てて祀っていたことでしょう。中国では旗を立てる習慣が盛んで、城壁や戦の時に旗を立てるのは三国志など中国の時代劇でお馴染みですね。

5.八幡神の正体
宇佐神宮鳥居と上宮の門 秦氏の信仰には、中原(黄河中流域)の神、例えば伏儀と女禍(ふくぎ、じょか。中国古代の伝説上の帝王。上半身は人、下半身は蛇)、前方後円墳から出土する三角縁神獣鏡にも刻まれている西王母や東王父などの古来中国に受け継がれた神が含まれていたと思われます。更にその中核には道教があったはずです。この頃中国では道教が盛んでした。秦氏が日本に移住を始めた5世紀には、北魏の寇謙之が仏教に倣って宗教としての道教を確立しています。
 道教には、老荘思想、神仙信仰、陰陽道、風水、易、占い、呪術が含まれていました。又、道教の根底には不老不死の実現があり、病気の平癒祈願や医術も含まれていました。神社建築にあたっては風水(方位や地相の吉凶を占う学問)の知識が生かされています。古い神社に共通して前に川、後ろに山という立地が確認できます。
 今となっては八幡神が何であったかは確定できませんが、中国伝来の最新の知識と知恵をもたらし、最も権威ある占いを行う神であったことは間違いないでしょう。これ以降、奈良時代から平安時代にかけて、朝廷の重大事は八幡神の占いの結果である託宣をもって決めることになります。占いは亀甲を焼いて行ったことが記録に残っています。

6.姫神
 宇佐八幡建設の数年後、姫神(ひめがみ。「比売神」に同じ)を祀るようになって、地元の海部(かいふ。航海を行う人々)出身の宇佐氏が神官に加わったものと思われます。大和神社(おおやまとじんじゃ)の神官は、宇佐氏と同じく豊後の海部出身です。記紀によれば、応神の百年前の神武東征の航海を指揮したことになっています。同族です。
 大和神社は、大国霊(おおくにたま)を祀ります。この神は、4世紀に崇神が大和に入って政権を打ち立てた時に、天照大神と共に宮廷に祀られていたと言います。それを桜井の西北の地に移したのです。この神の実態は不明ですが、遣唐使航海の安全を祈っており、それにつれて神階が高くなり平安時代には正一位を与えられています。崇神天皇など4世紀の王達の信仰を祀ったものと思われますが、少なくとも航海の安全を護る神の要素が大きかったはずです。太平洋戦争末期に沖縄へ特攻に向かった戦艦大和にも分祀されました。
 大国霊の性別は不明ですが、姫神の方は女神です。祀り始めた頃の姫神の実態もよく解りませんが、航海の安全を守る神の要素が強かったものと推測されます。

中編へ続く

写真:宇佐神宮上宮(内側に本殿)
写真:宇佐神宮鳥居と上宮の門