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マカオと日本の銀【中国日記vol.137】

 マカオは、大航海時代をリードしたポルトガルによって建設され、80年間猛烈に発展し、その後衰退して化石のように現代に残った街です。当時、その繁栄は世界の注目を集めたものでした。

 1999年、マカオは中国に返還されました。返還後も50年間はポルトガル統治時代のシステムが続くことになり、賭博産業も残りました。おかげで高度経済成長とバブル経済がない混ぜになった中国のバブリーなお金持ちが、時には公金にまで手を付けてカジノにやってきます。VIPルーム完備、元手を切らしても信用状態に応じて軍資金を融通してくれます。その取り立てを中国国内で行うシステムまで完備しています。マカオは中国経済の成長に合わせて世界一の賭博都市に成長し、再び注目を集めています。

1.ポルトガルの登場

新馬路とカジノ 1498年、バスコ・ダ・ガマの乗るポルトガル船がインド西海岸のカリカットに入港します。ヨーロッパの船が初めてインドに到達したのです。ヨーロッパは中国の磁器や絹、インドの綿布、南洋の香辛料など他地域の産物はイスラム商人を通して入手していましたが、直接買い付けることが可能になったのです。

 ポルトガル船は更に東に向かい、1513年には中国の広東に到達します。明王朝は海禁令を出して民間の貿易は認めず、朝貢貿易に限る国家独占体制をとっていました。ポルトガル船は広東から揚子江にかけての沿岸で密貿易を始めました。

2.後期倭寇の時代

 1523年、とんでもない事件が起きます。日明間の正規貿易を行う日本の遣明船が寧波港で乱闘事件を起こし、勘合貿易が滞ったのです。それをきっかけに私貿易が盛んになりました。中国船が主で、琉球船や日本船も混じっていました。取引で問題が起きると武力で片を付けることもありましたし、海賊行為を働く者も出ました。「寇」と呼ばれる所以です。

 ポルトガル商人達は東方の物資をヨーロッパに運んで巨万の富を得ますが、ずっと気に掛かっていたことがありました。「東方見聞録」に書かれた日本のことです。日本からは金ならぬ銀が大量に中国に輸出されてきます。これを見逃す手はありません。戦国時代を迎えた日本は、石見をはじめ各地で銀鉱山の開発が進み、そこに中国から伝わった新しい製法が導入され、1530年頃から銀生産が飛躍的に伸びて行きました。

3.「黄金の国ジパング」

セナド広場 1550年、最初のポルトガル船が平戸に来航します。中国の絹、後には絹布を売って銀を対価に受け取る商売が開始されます。

 日本では銀の産出量が急伸した為、相対的に金の価値が上がります。そこでポルトガル商人は日本で得た銀を中国で絹と金に換えて日本に持ち込みました。こうして絹の販売と金銀交換差益で二重の利益を上げることができました。おまけに絹を降ろしてできた船倉スペースに日本人を詰め込み、世界各地に奴隷として出荷する商売も大きな利益をもたらしました。正に日本は「黄金の国」だったのです。

4.マカオの獲得

 日本との貿易で巨額の利益があがりますので、仕入れ先の中国に拠点を確保する必要があります。選ばれた地がマカオです。1557年、居住権を獲得します。貿易のライバルである倭寇の討伐が地元役人に評価された結果とも言いますが、面白い話もあります。

 龍涎香という非常に貴重な香料の供給元がポルトガル商人であった為、安定供給の見返りだったというのです。龍涎香は宮廷の必需品で、これを切らすと役人は責任を問われます。中国では産出地が解りません。実は、抹香鯨(マッコウクジラ)の腸内の異物が固まったもので、本当に貴重なものでした。因みに「抹香」とは仏事の焼香に使われるお香のことですが、これと龍涎香の香りが似ていると言います。

5.キリスト教と貿易の不可分

セントポール天主堂跡 最初のポルトガル船が平戸を訪れる一年前にイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが日本に送り込まれました。

 貿易とキリスト教の布教は表裏一体でした。交易や武器の供給と引き替えに布教許可を求めましたので、利益欲しさに九州の戦国大名は次々と改宗しました。宣教師達も活動費を賄う為と称して貿易を行い巨額の利益を上げています。当然のこととしてマカオは、布教の拠点になりました。今も多く残るキリスト教会はその名残りです。

6.発展と終焉

 1567年、明は海禁令を緩和。自由貿易時代に入り「倭寇」が終息に向かう一方、新規参入の中国船が増えました。1580年には本国がスペインに併合されますが、従前通り交易は続きました。徳川家康が朱印船貿易を本格化して日本船が直接交易に携わり始めますが、ポルトガル船の交易額は増えていきます。ピーク時には世界生産の4割を占めたとされる日本銀は日本の貿易規模を年々拡大させていたのです。

 儲かるとなればライバルも更に増えます。1608年、朱印船の乗組員がマカオで数十人も殺され、その報復で翌年ポルトガル船が長崎港で沈められます。交易が止まった3年間にオランダが日本貿易の太いパイプを確立します。更にイギリスも参入してきます。

 オランダは日本航路を確保する為1621年に台湾を占領し、更にマカオを攻撃しますがポルトガルは守り抜きました。これら障害にもかかわらずポルトガルの交易額はオランダを凌いで増えていきます。その最も繁栄を極めた1639年、第五次鎖国令で終わりを告げます。キリスト教布教が植民地化の領土野心と一体であることを徳川幕府に見抜かれたからに他なりません。

7.転落

 日本との交易を絶たれた翌年、スペインから再独立しますがポルトガルは収益の柱を失っています。オランダとの抗争でマカオと東ティモール以外の東南アジア拠点を失いました。主要植民地ブラジルの砂糖産業も価格競争力のあるカリブ産に押されて衰退。その後本国の工業化も進まず、再びポルトガルに栄光の時代が訪れることはありませんでした。

この号終わり

写真上:新馬路とカジノ
写真中:セナド広場
写真下:セントポール天主堂跡
*写真は「大勝軒ラーメン」(深せん市番ぐう区市橋環城中路)の中田徹様にご提供いただきました。