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中谷酒造創業時の謎【酒蔵便りvol.40】

<酒蔵の様子>

粕の踏み込み作業 清酒造りは間もなく最後のもろみを搾ります。今シーズンは焼酎作りも始めましたので、その後は4月一杯焼酎作りに専念します。

 気温が上がるにつれ搾ったばかりの白い酒粕の需要は減ります。新しく搾ってできた酒粕は奈良漬け用に熟成させる為、タンクに入れて空気の隙間を無くすよう上から踏み込みます。

踏み込みが終わったタンク 粕は、それ自体が含む麹の糖化酵素で徐々に糖化され、柔らかくなって行きます。初夏の土用の頃に出荷できるようになりますので、奈良漬け用の粕を「土用粕」と言います。

 焼酎は、製品化に向けて名称の決定、瓶の選択、ラベルデザインなどを進めています。来月にはご案内できるはずです。お楽しみに!

写真上:粕の踏み込み作業
写真下:踏み込みが終わったタンク

<今月のテーマ>

 中谷家4代目当主正大(まさひろ)の残した記録によれば中谷家は、嘉永6年に「菅田村仁兵衛」から酒を造る権利である酒造株を譲り受け創業しました。菅田村は、中谷酒造のある番条町から下つ道(しもつみち)を南に3キロのところです。

 下つ道とは、藤原京と平城京朱雀大路を結ぶために奈良時代に建設された南北一直線の道路で、現在もかなりの部分が道路として使用されています。

 さて今年2月のある日、酒の粕を買いに来られた方の接客に出た私が中谷家の初代の父が大阪相撲で活躍した相撲取りで、その実家が雑穀商であったことなどを話しましたところ、「私のところも昔から商売をしていたんです」とおっしゃいました。

 菅田と名乗られるこの方のお話を伺うと、江戸時代は周辺で収穫された棉花を大阪に出荷する商いをしていたとのこと。自宅は菅田村(天理市二階堂南菅田町)。おまけにご先祖の太兵衛は嘉永年間に売掛金の貸し倒れに会い、仕入れ代金を払えず農民から訴えられたとのこと。

 「太」は毛筆で書くと「た」です。「仁」と似ているではありませんか。脳裏にひらめくものがありました。現在菅田家には記録が残されておらず他に資料はないし、ご本人も含め何回か養子を迎えているので当時のことは解らないとのことでしたが、ご厚意でご自宅を拝見させていただくことになりました。

 江戸時代に建てられた屋敷は天井も高く、中谷家を凌駕しています。屏風や襖は江戸時代の立派なものです。

 屋敷の裏手に井戸。井戸の回りに敷いていた1平米くらいの石を庭の飛び石に使っていますが、その数約30枚。造り酒屋の洗い場として充分な面積です。

 井戸に続いて米蔵が二棟、更に敷地の端には昔は大きな蔵があったとのこと。酒蔵が建っていたとしても不自然ではない位置、そして広さです。又、隣地には幾つもの蔵があり明治時代は油屋をやっていたとのことです。

 天理市史資料編西川家文書で太兵衛は嘉永4年11月に農民17名から連名で村役人に訴えられたことがわかります。私は、菅田家は在郷の豪商で棉花商、搾油と油販売、酒造業などを営んでおり、その代金支払いの為に酒造株を売却したと推測します。中谷家初代は嘉永5年に買い受け、翌年に創業したとすれば時期は合います。

 中谷家は、創業から間もなく柳沢藩御用商人になり、苗字帯刀を許されています。酒造株と共に商権も引き継いだのでしょう。中谷家から大和川の支流の佐保川の船着き場まで百メートル。川船で酒を大坂市場に出荷していたと推測されます。それならば菅田家も佐保川に近くなければなりませが、やはり約百メートルで小舟が往来した水路があり、佐保川は至近です。酒のみならず棉花もこの水路を利用して運んだことでしょう。

 天理市史などに記録されている嘉永の文書に「仁兵衛」はありません。菅田さんに御願いして聞き取り調査をしていただきましたが、「仁兵衛」はみつかっていません。

 私は、中谷に酒造株を譲って下さったのは「太兵衛」ではないかと推測しますが、確定はできませんでした。しかし、創業期の謎解きのスリルを味わいながら江戸時代の在郷商人の様子を知ることができましたし、菅田さんと知り合えたことはとりわけ大きな収穫になりました。菅田さん、有り難うございました。

2008年3月
中谷酒造(株)代表取締役  中谷正人