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天津の成り立ち <後編>【中国日記vol.144】

5.天津の街

天津外国語学院(1925年、仏カトリック教会が開校した工商学院の主楼) 明の永楽2(1404)年、小直沽に城壁で囲まれた街が整備されました。天津城(「城」は街の意味)です。明は海禁策をとりましたので海上輸送が停滞しました。代わりに大運河を整備して国内物流を賄いました。清の時代にも二度にわたって海禁が行われましたので、大運河から少し離れる大直沽は発展と停滞を繰り返したことでしょう。アヘン戦争以後、外国租界が二つの港街の間を埋めるようにでき、二十世紀初期には西の天津城から東の大直沽まで一体化した今の天津の街になりました。

6.天后祭祀の終焉

天津政協倶楽部(元ドイツ倶楽部) 新中国の成立まで東西の天后宮は街の祭祀の中心として維持され、市民は天后を親しみを込めて「娘娘(ニャンニャン)」と呼びました。1950年に大直沽の天后宮が破壊され、1967年の文化大革命で天津城の天后宮も破壊されました。形の上でも祭祀の中心がなくなり、二つに分かれて発展した街の成り立ちが忘れられて行きます。1985年に後者のみ、しかも観光資源として再建されました。

7.発掘

解放橋(かつて万国橋と呼ばれ仏露租界を結んだ。1927年開通) 1998年から翌年にかけて大直沽の天后宮跡の発掘が行われました。すると元代の遺物、明代と清代の天妃宮(天后宮)遺跡が出てきたのです。

 新聞報道を見て、ほとんどの天津市民は驚きました。それまで天津郊外の一地域と考えていた大直沽は独自に天妃宮を持つ、天津城とは別の港町だったのです。更に、元代には大直沽が先に発展し天妃宮も先に建てられたことが解ってきました。

8.天津人の誇り

 天津人は発掘を機に歴史に目覚めました。金代から北京の発展と共にその経済圏の中心港として天津が発展したこと、港湾の重要性から九カ国の外国租界が設けられたこと、その為にガス灯、新聞、電車などがいち早く導入された先進的な国際都市であったことが広く認識されるようになりました。

 オリンピックを控え、海河に沿って道路、公園も整備され美しい街に生まれ変わりつつあります。旧英国租界の五大道など毎晩ライトアップされて、観光客の目を楽しませてくれます。かつて侵略を受けた負の遺産と考えられていた租界時代の建物は、今や天津人の誇りです。

この号終わり

写真上:天津外国語学院(1925年、仏カトリック教会が開校した工商学院の主楼)
写真中:天津政協倶楽部(元ドイツ倶楽部)
写真下:解放橋(かつて万国橋と呼ばれ仏露租界を結んだ。1927年開通)