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河川と内陸輸送【中国日記vol.146】

 今日、陸上の物資輸送といえばトラック、それに鉄道が主役です。しかし鉄道輸送が始まるのは19世紀。トラック輸送に至っては20世紀に過ぎません。それ以前は河川、湖沼、或いは運河を船で輸送していました。世界中の内陸の都市は乾燥地帯を除いて全てが水路に面しています。

 現代人は今の情況に慣れ過ぎて、かつての街道を物流ルートと勘違いしがちです。例えば江戸時代に整備された東海道。人と情報は行き来しましたが、物流は樽廻船や菱垣廻船など海上輸送で行われたのです。舗装道路のない時代、荷車で運べる量と距離は知れていました。人が背負って運べる量に至っては微々たるものです。今回は、中国古代の戦における軍隊の移動を例に考察してみましょう。

1.えん陵(えんりょう。えん=焉+おおざと)の戦い

熊川宿  時は紀元前576年。当時は周王朝が衰え、周辺の群雄による主導権争いが黄河中流域(現在の河南省)で繰り広げられました。

 晋(しん)は現在の山西省を拠点とした北の大国で黄河北岸までが勢力範囲です。一方楚(そ)は揚子江(長江)中流域を中心とする南の大国です。その間に小国の鄭(てい)が挟まれています。

 晋は黄河を渡って鄭国内に浸入しました。鄭は南の楚に救援を要請、楚は鄭を救うべく北へ軍を進めます。戦場はえん陵です。先ずは宮城谷昌光著「子産」の一節から。

 「楚軍は首都の郢(えい)を発ってふつうの行軍をおこなうと、鄭の国境に到着するのに四十日以上がかかる。この場合、楚軍はふつうより速い行軍であるが、それでも五月中に出発して六月末にようやくえん陵に近づきつつあった。一方、晋軍は鄭の首都を無視し、急速にえん陵に近づいた。えん陵の位置は、鄭の首都(新鄭)の東南百余里というところで、一日の行軍が一舎(三十里)であるのが常識のこの時代では、鄭軍は首都をでて4日でえん陵に着いたことになる。」

 この当時の1里は500m。鄭が4日で行軍した百里は50kmです。

 一方の楚軍、一舎(三十里)が15kmですから40日行程は600kmです。兵士は武器や鎧など重い装備を背負っています。食糧は牛馬に荷車を引かせたでしょうが一雨降れば道はぬかるみます。15kmのペースを40日間維持できたのでしょうか。

関係略図

2.鯖街道(さばかいどう)

丸子船(琵琶湖博物館にて)  一般に小浜から若狭街道を熊川宿まで荷車、そこから行商人が京都まで徒歩で塩鯖を運んだと言います。鯖は腐りやすいので夜明け前に小浜を出て夕方に京都に着いたと言う人もいます。

 小浜港から熊川宿までは北川沿いに18km。そこから朽木村まで峠越えの山道を15km。朽木村から京都出町柳(でまちやなぎ)まで安曇川(あどがわ)流域から高野川(たかのがわ)流域に峠を越える45kmです。道のりだけで78km。大衆魚の鯖を運んで行商口銭を稼ぐには一尾でも多く運びたいところですが、一尾2kgとしてたったの5尾で長距離背負って歩ける限度の10kg。熊川宿から朽木村までの15kmは、峠越えですから既に一日行程の限界です。「鯖街道」は現代人の感覚が生んだ幻です。

 江戸時代、琵琶湖の湖上輸送は日本海側の物資を京、大坂に届ける最短ルートとして現代人の想像を絶するほど盛んでした。鯖だけを別ルートで運んだと考える必要はありません。小浜から熊川宿までは北川を川船で。荷車に積み替えて峠越えの後、小舟に積み替えて石田川を琵琶湖岸の今津まで運び、今津から丸子船と呼ばれた大型船で大津、そして川船で瀬田川を下り伏見に運んだことでしょう。

3.現実的な考察

八達嶺の長城(北京北方) さてえん陵の戦いに戻ります。楚(そ)の拠点とする揚子江流域と黄河流域の境は、伏牛(ふくぎゅう)山脈の分水嶺です。伏牛山脈の尾根には楚の長城が築かれ、軍隊が配備されていました。この長城は立派なもので2000年の河南省南陽市の調査では幅は基部で3m、上部は2.2m、高さは4mと確認されています。ここへの兵員と物資輸送は揚子江の支流である漢水の水運が使われたことは言うまでもありません。

 この長城から戦場まで直線で僅か百km。百kmと言えば、一日15kmの行軍で7日です。但し、その間には汝水(じょすい)と頴水(えいすい)が流れていますので二度の渡河が必要です。河川が物流の主役の時代ですから渡河の船も容易に調達できたはずです。 一方の晋(しん)は船で黄河を下り、聖なる山・嵩山(すうざん)が見えるところで黄河南岸に上陸したはずです。嵩山の麓まで35km、そこから戦場まで百kmの行軍でした。

4.2008年5月29日の時事通信ニュース

 「中国四川省の大地震で北川県北方の唐家山にできた「せき止め湖」で29日、降雨のため決壊防止作業が停滞、物資の輸送も一時ストップした。午後には回復したが、今後数日、比較的強い雨が続く見通しで、重機が燃料不足を来す恐れもある。軍当局は付近に待機した部隊1000人に計10トンのディーゼル油を背負わせ、徒歩で現地へ出発させた。」

 1000人に10トンということは、一人10kg。人が山を越えて物を運べる量は昔も今も変わりありません。

この号終わり

写真上:熊川宿
写真中:丸子船(琵琶湖博物館にて)
写真下:八達嶺の長城(北京北方)