« 酒米の稲刈り【酒蔵便りvol.47】 | メイン | 酒造りの始まり【酒蔵便りvol.48】 »

何年遅れ【中国日記vol.149】

 日本は明治維新後、先に産業革命を成し遂げた英米仏に追いつけ追い越せと努力してきました。50年後の大正時代には世界の強国の仲間入り。戦後の高度経済成長を経て、「ジャパンアズNO.1」などと言われて有頂天になっていた時代もありましたが、今もって欧米をやや見上げる視点を持ちがちです。

 米国の流行は10年後に日本にやってくるので、新ビジネスのヒントを米国でつかんで日本にいち早く導入するのが成功の早道などといった具合に、日本は10年遅れの米国と言われてきました。

 日本人に限らず人は自分たちより進んだ社会のことは気になるものです。中国人も日本に何年遅れているかを非常に気にかけています。

1.表の顔と実情

 北京オリンピックを機に初めて中国を訪れた人は、真っさらの北京空港新ターミナルに降り立ち、市中心部に林立するガラス張りの高層ビル群を見て、先進国日本と変わらない印象を持ったと聞きます。幅広い道路をクルマが埋め、地下鉄が走り、日本とさして変わらない服装の人々が歩き、ケータイ電話を使用しています。ホテルではインターネット回線が引かれ、衛星放送で世界中の番組が見られ、日本と同様に情報に接することができます。

 一方、牛乳のメラミン混入事件。メーカーは、遅くとも昨年暮れには消費者からの苦情で問題の重大性は認識していたはずなのに、改善するどころかそのまま放置。行政への報告も遅れ、地方政府も中央への報告は先延ばし。それを知った中央政府もオリンピック期間中の発表を先送り。何という人命軽視、何という民度の低さでしょう。おまけに最初に問題になった一社のみならず、業界全体でメラミン混入を放置してきたというのですからあきれてしまいます。被害の拡大防止よりも企業の利益、役人の保身、国家の面子を重視する姿勢に消費者である市民の反発が高まっています。

2.初めての高度成長

大連の街を現役で走る戦前の日本製路面電車車両(2001年撮影) 「中国は日本に何年遅れているか?」という問いに対して、私はずっと戦後の日本を参考にしてきました。家電製品、クルマ、ケータイ、パソコンなど、どちらかと言うと物の普及、物質的な豊かさを基に考えてきたのです。

 ところが今回のメラミン牛乳事件を機に、個人的な利益が人命と釣り合うような未熟な考え方、民度の低さを思い知らされ、精神的な成熟度でとらえ直す必要を感じました。それには近代社会を特徴づける産業革命の進展に伴う人々の意識の変化を理解しなければなりません。

 産業革命は工場で働く大量の労働者を生み出します。通勤の為の都市交通が発達し、郊外が都市に組み込まれて行きます。都市は巨大化・高密度化し、金融や商業も盛んになります。工業製品の普及により物質に恵まれた生活が始まります。やがて職場と時間に管理された生活が従来の地域や血族の関係を薄め、マスコミの発達が市民大衆層の形成を促し、個々人の自立が促進され権利意識を高めて行きます。

 中華人民共和国成立から間もなく60年、改革開放経済が始まって30年。中国では産業革命後、史上初めての高度経済成長期を迎えているのです。とすれば日本が初めて高度経済成長期を迎えた大正時代こそ、その比較対象になるはずです。

3.大正期

1914(大正3)年、越前電鉄開業時に建てられた永平寺口駅舎 明治時代に始まった日本の産業革命は発展の速度を上げ、1914年に第一次世界大戦が勃発すると戦場になった欧州に代わって工業製品の供給国として一気に世界有数の経済規模の国家になりました。

 その時代を象徴するものとして鉄道が挙げられます。現在運行されている地上を走る鉄道のほとんどは明治から昭和初期に敷かれたものです。物資は水運から鉄道輸送に切り替わり、人の移動も鉄道になりました。日本一の大都会大阪のみならず、東京や各地方都市には路面電車網が張り巡らされました。都市と郊外、或いは都市と都市が鉄道で結ばれ駅の周辺では住宅開発が進みました。

1930(昭和5)年、一畑電鉄大社線開業時に建てられた出雲大社前駅舎  中谷酒造本家のある大和郡山にも1890(明治23)年に大阪鉄道(現JR大和路線)が敷かれ、湊町(現JR難波)を結びました。上本町と奈良を結ぶ近鉄電車も1914(大正3)年に開通、西大寺と郡山間も6年後に運転開始。私の祖父は、そのまた祖父に手を引かれて列車もしくは電車に乗って大阪に遊びに行っていたそうです。歌舞伎見物に相撲観戦。映画館、劇場、博物館に動物園。時々開催される博覧会、それに百貨店など都市には娯楽が満ちていました。

 人々は電車で通勤し、流行の服を着、街の食堂で時には洋食を食べ、毎日配達される新聞で情報を得、或いはラジオを聞き、雑誌を読みました。電気も引かれ夜が明るくなり、電話の普及も始まりました。現代とあまり変わらない物質生活が始まり、人々の意識が変化して行ったのです。このように日本の産業革命開始から大正時代に至る30年の変化は、中国の改革開放経済開始から現在に至る30年の変化に対応するように思えます。

4.種は尽きねど

 昨年のウナギ産地偽装事件や毒入り餃子事件以来、日本の食品スーパーマーケットでは中国産品が影を潜めています。鰻は9割が海外で養殖され、蒲焼きに加工して輸入されたものですから、軒並みスーパーに「国産」が並ぶ状況はあり得ません。加工鰻を扱うほとんどの業者に何れ司直の手が入るはずです。同様にタケノコの水煮も突然日本産に切り替わりましたが、中国産を国産と偽装していた一部のメーカーは摘発を受けました。

 中国が日本に何年遅れているかといった議論とは別に、人を騙しても儲けようという考えが時代と場所を越えて普遍であることを思い知らされますが、ただ一つ信じたいのは、日本では最初の高度経済成長から90年経ち、人の生命に実害を及ぼすほどの偽装がない程度には民度が上がっていると言うことです。

この号終わり

写真上:大連の街を現役で走る戦前の日本製路面電車車両(2001年撮影)
写真中:1914(大正3)年、越前電鉄開業時に建てられた永平寺口駅舎
写真下:1930(昭和5)年、一畑電鉄大社線開業時に建てられた出雲大社前駅舎