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月代(さかやき)を剃る【中国日記vol.155】

月代(さかやき)を剃る

 最近テレビ番組では時代劇がめっきり減ってしまいました。製作コストがかさむのだそうですが、時代劇ファンにとっては残念な限りです。故松下幸之助氏は熱烈な水戸黄門ファンだったとか。お陰様でパナソニックの広告で今も続いているのは有り難いことです。

 時代劇と言えば役者は月代(さかやき)を剃って髷(まげ)を結った、いわゆる丁髷(ちょんまげ)頭です。世界を見渡しても珍しく、現代人の目から見て妙な髪型ですが、当時はそれがカッコ良かったのです。

 江戸時代に庶民に拡がったこの髪型は、元は武士特有のものでした。その発生は平安時代、それも日本独自のものと言いますが、夢のある見方もできそうです。

1.平安時代の記録

平安貴族の装束(三重県多気郡明和町 斎宮歴史博物館) 現存する記録の初出は、「玉葉」九条兼実日記。安元2年(1176)7月8日の記述で、平時忠が月代(さかやき)を剃っていたことがわかります。これを以て、この頃に始まったとするのは飛躍があります。

 月代を剃ることは、天皇や他の貴族の間では行われていないようです。注目すべきは、平氏は武士の棟梁として担がれる一族であるということです。この時、時忠は検非違使別当。即ち、武士を統括する地位にありました。武士、とりわけその上位者においては月代を剃り、髪を束ねる髪型が地位を象徴する特有のスタイルとして既に定着していたと考えるのが素直です。

2.北東アジアの習俗

 前頭部を剃り、髪を束ねるという共通点に着目すると、中国の弁髪というものに行き当たります。弁髪は満州族の習慣で、束ねた髪を後ろに垂らす点に特徴があります。満州族が中国を征服して建てた清王朝が、民族を問わず強制した為、1911年に清が滅ぶまで中国人男性に共通した髪型でした。今日でも中華料理店や中華食材のキャラクターに使われるほどこの髪型は我々に中国人のイメージとして定着しています。あたかも丁髷が日本人のイメージとして欧米人に定着しているが如しです。

 実は、月代を剃る習慣は、中国大陸北東部に住むツングース系民族に一般的なもので、金を建てた女真族(後の満州族)や元を建てたモンゴル族も行っていました。その起源は更に遡れます。

3.伝来の可能性

 5世紀、大阪府堺市を中心とした地域に超巨大前方後円墳群が現れます。中国南朝の宋の記録から言えば倭の五王の時代の始まり、日本書紀の天皇名を使うなら応神(おうじん)天皇による新たな王朝の始まりです。それまで日本になかった馬具と鉄製武具と武器が埋葬されますので、有力者は馬に乗り、軍団は強い戦闘力を持っていたことが解ります。応神は、朝鮮半島から大量の帰化人を受け入れました。

 その帰化人は秦(はた)氏と呼ばれ、394年に滅んだ前秦の末裔と考えられています。時は五胡十六国時代、北方から異民族が中国になだれ込み混乱を極めた時期です。ツングース系民族が秦氏に混じっていた可能性は大いにあることで、その戦闘能力を買われて応神の軍団の一部を構成していた可能性は否定できません。

4.武士団

 応神に始まる王朝は百年で終わりを告げます。6世紀、越の国西部(現在の福井県)からやってきた王が新しい政権を建てました。継体(けいたい)天皇です。この継体の血筋が現天皇家に繋がります。

 継体が政権を握って程ない西暦535年、ジャワ島とスマトラ島の間で大規模な火山噴火が起こりました。火山灰が北半球に広がり、急激な気温低下が始まります。中国では、589年に隋が中国全土を統一するまで混乱が続きます。継体政権は、武力に秀でた旧勢力との妥協の上に危機を乗り越え、そして旧勢力は武士団として生き延びることができたと考える余地はあります。

5.武士の世と混血

明治5年から継体天皇を祀る三国神社(福井県坂井市。写真は随身門) 平安時代が終わりに近づき、貴族の世から武士の世に移り変わります。武士の棟梁の象徴であった月代(さかやき)を剃り、髷(まげ)を結う髪型は、鎌倉から室町時代にかけて下級武士にまで拡がりました。武士は支配階級になり、武士の髪型は庶民の憧れになりました。

 下克上の戦国時代には農村も武装し、その長は武士の一部を構成するに至ります。足軽と呼ばれた下級武士に応募し、出世するものも現れます。そして武士と庶民の混血が進みました。

 やがて天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が刀狩りを行いました。刀狩りは、農民から武器を取り上げると同時に、武士と土地との繋がりを断ち切る政策です。禄で雇われる武士になるか、刀を捨てて土地に残るかの選択を迫られました。土地に残った武士は農村の有力者や在郷商人になりました。

 そして江戸時代を迎えました。武士と農民を血筋で区別する心理的な垣根が下がっていますので、庶民の間にも武士を真似て丁髷を結う習慣が広まりました。

6.武士の消滅と終焉

馬頭琴を弾く現代のモンゴル族青年(内蒙古自治区ウランホト市) 明治維新で武士が支配する体制が崩れました。明治4年(1871)にいわゆる断髪令が出され、丁髷を落とす人が増えました。軍人の髪型はプロシャ式に短く刈り込んだものに決められました。武士が消滅し、欧米の文化や習慣に先進性を見る風潮の中、もはや丁髷は格好の良いものではなくなりました。

 それから40年、満州族の清王朝が倒れ、強制されていた弁髪も終焉を迎えます。モンゴル族も習慣をやめました。北東アジアに広く行われた月代を剃る習慣が消え、現在は日本の大相撲力士の髷にかすかな痕跡を留めるに過ぎません。

この号終わり

写真上:平安貴族の装束(三重県多気郡明和町 斎宮歴史博物館)
写真中:明治5年から継体天皇を祀る三国神社(福井県坂井市。写真は随身門)
写真下:馬頭琴を弾く現代のモンゴル族青年(内蒙古自治区ウランホト市)