第6話 良かれと思ったはずが【アラカン社長の徒然草vol.8】

 19世紀は「科学の世紀」と呼ばれます。この時代、科学は技術と結びついて「科学技術」になり、科学への期待と信頼は、信仰とも言えるレベルにまで高まり、人々の心の中に浸透していきました。

  この背景には産業革命があります。18世紀末に英国で起きた産業革命は、欧州大陸と米国に伝わり、急速に発展しながら極東の日本にまで広がりをみせます。蒸気機関の普及は繊維産業の機械化と高度化を進め、石炭火力による製鉄は鉄製品の安価かつ大量供給を可能にしました。やがて蒸気機関は交通革命をもたらしました。蒸気船は鋼鉄製になり水上輸送能力を飛躍的に高め、鉄道は河川や運河に代わって陸上輸送の主役に躍り出ました。内燃機関が急速な進歩を遂げ、動力として活用され始めました。電力の利用も始まり、加速度的に工業化社会が広がって行きました。

1.第一次世界大戦

  大量に生み出された工業製品は物質に恵まれた生活をもたらしました。繊維製品、その他日用品は安価になりました。鉄道、自転車、自動車といった新しい移動手段が生まれ活動範囲が広がりました。船舶の大型化によって各地の物資が安価に入手できるようになりました。化学の進歩で多くの医薬品が生み出され、生物学の進歩と共に医療が格段に進歩しました。人々は科学は万能と信じました。科学の進歩の先には明るい未来、豊かな生活が待っているはずでした。

59式戦車(天津古文化街)  1914年、第一次世界大戦が勃発します。1903年にライト兄弟が初飛行に成功して10年余りで航空機が急激な進歩を遂げ、爆撃機、戦闘機が投入されました。100隻を超えるドイツ潜水艦が大西洋で輸送船を沈め連合国の補給路を絶ちます。機関銃が瞬く間に何百人という兵士をなぎ倒します。毒ガスが用いられ、ガスマスクが地上戦の兵士の必需品となります。大砲が巨大化し、大量殺戮を可能とします。戦線は膠着し、塹壕戦となります。時には一回の突撃で何千人も倒れ、一日の総攻撃で十万もの兵士が死傷しました。こんな戦いが4年間も続き、結局900万人以上の兵士が大戦中に死亡しました。塹壕戦に決着をつけたのが新兵器の戦車というのも皮肉です。

2.共産主義

  急激な工業化社会の進展は一時的に貧富の差を拡大させました。それを目の当たりにしたカール・マルクスは、資本主義社会の高度化の後には共産主義社会が到来するという思想を打ち出しました。共産主義は、生産から富の分配に至るまで経済活動を社会科学の力で計画的に行う計画経済社会を実現しようとするものです。

  経済は、人の欲望の集積の上に成り立つものです。果たして人の心を科学の力で管理できるのでしょうか。その答えを我々は20世紀後半に起きた共産主義の破綻を通して知っています。ただ、その当時の人々は「科学技術によって何事も成し遂げることができる」と信じていたのです。

毛沢東像(瀋陽中山広場)  共産主義は、貧富の差のない平和で安定した社会の実現を目指したはずです。しかし農業計画の失敗から数千万人の餓死者を出したり、庶民を巻き込んだ権力闘争で何百万人もの死者と社会秩序の破壊をもたらしもしました。庶民は言論の自由どころか思想の自由も奪われ、隣保組織で相互監視され、秘密警察による取り締まりを怖れる日々でした。支配階級の中でも陰惨な権力闘争が頻発し、「粛正」が行われました。共産主義の犠牲者は8千万から1億人(「共産主義黒書」1997年刊)とされます。これは二つの世界大戦犠牲者を超える数字です。経済は低迷し、結局実現できたのは平等に貧困を享受させることでした。

  1972年の日中国交回復を受けて、中国では日本を紹介するテレビ番組が放送されました。映像の中の標準的な日本の農家にはカラーテレビがあり、自家用車も農業用の軽トラックもあります。中国人は、「資本主義国家の農民は資本家に搾取されて貧困のどん底にあえいでいる」と教えられて来ましたので、その映像が真実とは信じられませんでした。

3.禁酒法

居酒屋(北京)  1920年、米国で施行された禁酒法は、酒類の製造、販売、輸送を禁じました。

  「酒は百薬の長」。適度の飲酒は心身の疲労を取り、食欲を刺激し、血流を良くして健康増進に役立ちます。おまけに飲み過ぎない限りは翌日に残らず、依存性も高くはありません。ところが過度の飲酒は体を壊し、アルコール依存症を生み家庭を破壊するといった弊害をもたらします。

  法制定の背景には急増したアイルランド系やドイツ系の貧しい移民に対する排他意識、差別意識がありました。最初に移民してきたプロテスタント系の人々は飲酒に対してあまり寛容ではなかったところへ、社会の底辺を支えるこれらの新来者は日々の疲れを飲酒で癒す習慣があり、時には飲み過ぎて騒ぎを起こしたのです。飲んだくれて家庭を壊す夫に対する妻の声も反映されました。

  法に賛成した人々は、それが社会にとって良いことと信じていました。科学的に分析しても人類はアルコール飲料なしに生活できます。しかし飲酒による心の癒しは見過ごされました。人は酒を必要とするのです。結果は皆さんご存じの通りです。法をくぐって酒の供給が続き、それらを行う犯罪組織の肥大化を招きました。ギャングのボス、アル・カポネは今日でも映画やドラマに登場します。

  予想もしなかった弊害の大きさに禁酒法は1933年に廃止されます。この間に急増する甘味清涼飲料の販売は、後の肥満人口の増加を生む遠因になります。甘味料の増産には製造を止めたビール工場の糖化装置が寄与したと言います。米国市場を失ったアイルランドのウィスキー産業が壊滅的な打撃を受けるという副産物もありました。

4.たばこ規制

  喫煙は健康を害するとして、欧米諸国はたばこの規制を主導しています。この流れは、日本にも及んで来ました。確かに吸い過ぎは体に良くないかもしれませんが、喫煙は最も手軽な心の休養です。禁煙を全ての人に強制するのではなく、分煙を進めれば足りるはずです。

  たばこ税を昨2009年に50%も上げた香港の例を見る限り、密輸品の増大、偽物の横行といった禁酒法下の米国のような情況が生まれています。密輸品や偽物は安価ですので喫煙率は持ち直しています。

  今年、日本でもたばこ税は4割上がり、標準的な20本入りたばこは300円から500円になります。更に極端に上げる議論があるようですが、慎重な検討が必要です。喫煙の害を強調すればするほど、違法薬物との心理的格差は縮まって行きます。極端な値上げは、合成麻薬や大麻、覚醒剤など身近に手に入る禁止薬物と価格が近づくことを意味します。現在日本は急速に薬物汚染が進んでいます。日本の違法薬物検挙者の6割は喫煙率の低い20才代以下です。気になることに香港では昨年来、薬物汚染の広がり、低年齢化が大きな問題になっています。

  たばこの煙の成分を科学的に分析すれば発癌物質を検出しますが、「たばこの煙」という複合物として見れば、発癌との関係は立証されていません。統計を取って特定の疾病と喫煙の関係を見つけ出し喫煙の害を主張するのも結構ですが、喫煙が心に与える安らぎを前提としなければ結論ありきの粗探しになってしまいます。人の心を科学でねじ伏せることはできません。

5.人類の驕り

  科学の進歩は、人類に多大な恩恵を与えてくれます。ただ科学を進歩させるのも人なら、使うのも人であることを忘れてはなりません。武器の進歩がもたらす優越性と戦争抑止効果は長続きしません。計画経済は社会全体に悲惨な結果を招きます。酒やたばこの禁止はアングラ経済を活性化させ、予想もしなかった弊害をもたらします。科学によって人の心を管理できると考えるのは人類の驕り以外の何物でもありません。

  最後に、科学万能の時代の人類の驕りの実例をもう一つ挙げましょう。

  「第一次大戦以降、海外に積み上げられた膨大な債権は利子となって、国内に還元されていた。しかもアメリカ国内では、自動車革命がおこっていた。(中略)自動車はまたたく間に、一家に一台、二台の必需品となっていった。自動車の普及は高速道路網の建設ラッシュを生み、国内需要をさらに増大させた。加えて、自動車は人々の行動半径を飛躍的に広げた。その結果、レジャーの範囲は広がり、サラリーマンの通勤圏も広がっていった。大都市郊外につぎつぎと住宅が建設され、住宅ブームが訪れた。住宅ブームは、また電気製品の普及にもつながった。冷蔵庫、掃除機、そしてマスメディアのラジオも、つぎつぎと普及していった。(中略)一九二八年(昭和三)夏、大統領選挙にのぞんだハーバード・フーバーは、アメリカの空前の繁栄について演説し、次のように豪語した。「われわれアメリカ人は、貧困を打倒する最後の勝利に近づきつつある。これはかつてどの国も経験しなかったことだ。(以下略)」」(「金融小国ニッポンの悲劇」NHK取材班編)

  「貧困を打倒する最後の勝利」は訪れず、翌1929年、ウォール街の大暴落で大恐慌に突入します。

終わり

写真上:59式戦車(天津古文化街)
写真中:毛沢東像(瀋陽中山広場)
写真下:居酒屋(北京)

2010年3月
中谷酒造(株)代表取締役  中谷正人