第10話 幕末と英国と龍馬 <起編>「脱藩」
【アラカン社長の徒然草vol.13】

龍馬銅像(坂本龍馬記念館) 坂本龍馬がブームです。戦後、龍馬が有名になった端緒は、司馬遼太郎が書いた小説「竜馬がゆく」です。1962年からサンケイ新聞夕刊に連載され、評判になりました。「竜馬」は幕末に実在した「坂本龍馬」を題材に、司馬氏が創作した人物です。

 司馬氏の「竜馬」には下敷きがありました。それは、明治37年(1904)2月6日と7日、皇后の夢枕に龍馬が立ったという「皇后の奇夢」事件をきっかけとする龍馬ブームで作られたものです。事件当時、土佐出身者は政府の要職に就く者が少なく、不満がありました。ただ宮内省では高位を占める土佐出身者が多く、トップの宮内大臣も土佐出身の田中光顕でした。そこで、日露戦争中の不安を利用して、マスコミを使って竜馬を偉人に仕立て上げ、土佐出身者を盛り立てようとしたと見られています。
 「京都東山霊山のかれの墓のそばに大きな碑ができたのもこの奇夢が喧伝されたあとだし、大正期に入って伝記が多く刊行され、映画や芝居のなかに登場しはじめたりしたのも、夢枕の一件で当時のマスコミにとりあげられたおかげだともいえる。」(「竜馬がゆく」あとがき五)。桂浜に竜馬の銅像ができるのもこの時期のことです。

桂浜 さて、実際の坂本龍馬はどうであったのか。折からの龍馬ブームで書店には龍馬本がずらりと並びます。ほとんどが司馬遼太郎の「竜馬」に沿ったものです。真実に迫るには司馬氏の虚構から離れたものでなければなりません。その中から加治将一著「龍馬の黒幕 副題:明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン」を選びました。

 加治氏は同著の中で、政治情況が激変する幕末、各藩は情報収集に力を入れ、隠密には下級武士が選ばれたこと、そこに英国が加わり各藩の間諜を取り込んでいったこと、英国は、武器の供給や海軍による威嚇、諜報活動によって明治新政府の原画を描き、それを実現したこと、こういった同時代の背景を綿密に追っています。私はこれら加治氏の調査の結果と主張を参考に、私の切り口で整理し、龍馬像をまとめました。長文の為、<起編>「脱藩」、<承編>薩長同盟、<転編>いろは丸事件、<結編>暗殺の4回に分けてお届けします。

龍馬の生まれたまち記念館 加治氏はその副題が示すようにフリーメーソンを絡めて論じておられますが、私はそれについてコメントできる知識がありませんので、それにはできる限り触れていません。亀山社中が設立されてからの私の龍馬像は加治氏のものとは異なりますし、私が考える暗殺の理由は誰もが到達し得なかった新しい見解です。しかし、下級武士による諜報活動や英国が幕末に果たした役割、暗殺時の現場考証については、加治氏の見解は斬新であり、大筋で賛同するものです。同氏に敬意を表し、同氏の描いた世界を読者に知ってもらう為、同著の引用を多用しました。本文中の文章の引用は、特段断らない限り加治氏の同著からのものです。

1.司馬遼太郎

  今年、2010年は司馬遼太郎の没後14年。今の十代や二十代の方々に加えて三十代の方々にもあまり馴染みがないかもしれませんが、司馬氏は戦後文壇に登場し、約三十年にわたって一世を風靡した歴史作家で、一目も二目も置かれる偉大な存在でした。司馬氏の書く小説は丁寧な下調べを行い、多くの資料を基に緻密に内容を組み立てる為、読者はしばしば小説に書かれたことと歴史上の事実を混同し、或いは事実であると錯覚し、更に真実と信じてしまう人も多かったのです。
  司馬氏は小説の内容を歴史上の真実と信じ込ませる巧みな技法も用いました。例えばあとがきに、当時の事件を書き加えて、「この小説は史伝要素がつよいため、補遺という意味で、このあとがきの欄をしかるべく転用した。」(「竜馬がゆく」あとがき三)と書くのです。歴史として書き残しておくべき事実をあとがきに加えておく、と取れます。読者は、小説に書かれた事は事実の集積であり、小説は概ね真実であると感じてしまうのです。

 私は昭和34年の生まれですが、司馬氏は私の小学生の頃からNHKの歴史番組、対談番組にも頻繁に登場しておられました。その頃のNHKは今では想像もつかない程ステイタスが高く、司馬氏の対談相手も首相始めノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士など社会的に一流の人も含まれていましたので、一層司馬氏の価値を高めました。番組の中で、司馬氏は膨大な資料を頭の中で整理して、噛み砕いた知識として披露し、それが全国に放送されるといった情況が30年も続きました。やがてほとんどの日本人は司馬氏の言うことを真実と信じ、小説に書かれた事を歴史的事実と錯覚してしまったのです。まるで日本中が魔術にかかったかのようでした。

 「竜馬がゆく」について言えば、竜馬は薩長連合の立役者、大政奉還の立案者、反幕志士のなかで唯一の非戦論者、船中八策で新政府の輪郭を作り、新政府案と人事の立案まで「竜馬ひとりがやった」、海運と貿易をおこし竜馬だけが世界貿易に生きる夢を持っていた、というとんでもない内容なのですが、小説の「竜馬」と歴史上の実態たる「龍馬」が混同され、文部省検定教科書や参考書の中に「竜馬」が「坂本龍馬」として記述されると共に、写真まで載るようになっていきました。極端に言えば、司馬氏が「新幹線が海を進んだ」とか、「豚が空を飛んでいた、そんな時代である」と書けば、「そんなこともあったのか」と誰もが信じる、そんな時代だったのです。司馬氏存命中は、「歴史は司馬に聞け」といった風潮が社会に満ちていました。

NHKドラマ「坂の上の雲」ポスター 司馬氏没後、徐々に魔術が解け、ようやく多様な歴史研究者の声が反映されるようになりました。NHKで同氏の代表作「坂の上の雲」をテレビドラマ化するにあたって、小説通りに描いたのでは多くの人がそれを歴史事実として誤認する可能性が指摘され、それでは社会に対する影響が大きすぎるということで脚本の見直しが行われたとも伝わってきています。数年を経て、ようやく一部が今年2010年に放送されました。制作に携わる人々がそこまで気を遣うほどその影響力は大きなものだったのです。

坂の上の雲ミュージアム(松山市) 単に素晴らしい歴史小説を書く作家であれば、歴史とは切り離してその作品の価値だけを論じられます。しかしその作家の主張を毎週、或いは毎月、日本唯一の公共放送が全国に流せば、その作品の意味が変わってくるのです。当時のNHKにはその認識があったのでしょうか。今回の「坂の上の雲」騒動は、公共放送の社会に対する責任の大きさを再認識する良い機会かもしれません。ただ今日、その影響力の低下は読者の皆様の知る通りです。

2.龍馬就職

  龍馬は「脱藩」したと言います。先ずはこれを考えてみましょう。
  龍馬が生きた時代の二百五十年昔に遡ります。1600年、天下分け目の関ヶ原の合戦。土佐を治めていた長宗我部盛親が西軍に味方して戦い、敗れて改易され、山内一豊が土佐藩主になりました。既に豊臣秀吉が実施した刀狩りで兵農分離が実施されていましたので、一旦武士の道を選んだ者は、武士として領主に雇傭される以外に就業の機会はありません。当時の常識では領主改易後の配下の武士団は、新しい領主によって再雇傭されるべきところ、山内一豊は長宗我部の武士団を用いませんでした。山内一豊の土佐藩主就任は小藩から大藩への大抜擢でした。統治に必要な官僚たる武士が不足したにもかかわらず、地元の武士を採用しない措置を採ったのです。土佐の在地武士は失業。農民に格下げされました。ただ、引き続き苗字帯刀だけは許されたのです。そのような人々を下士と言います。

 龍馬の生まれた坂本家は、元は在郷商人、或いは商人でした。士農工商の身分社会では、苗字帯刀が許される身分は憧れでした。幸い坂本家は経済的に豊かでしたので下士の身分を買ったのです。坂本家は藩から俸禄をもらう、いわゆる「藩士」ではありません。「藩士」でないものが「脱藩」できるのでしょうか。就職もしていない者が、退職できないのと同様、先ずは藩に雇われる必要があります。

 ペリーが浦賀に来航する三ヶ月前の嘉永6年(1853)3月(旧暦)に龍馬は江戸に出発します。土佐藩家老福岡家の「御用日記」に剣術習得願いが受理されて千葉道場に派遣されたことになっています。これが土佐藩による雇傭なのです。
  当時は、幕末。社会情勢が急激に変化していく時期にあたります。藩は、情報を得ることに大きな力を割き始めました。

3.龍馬の仕事 

  「スパイに選ばれるのは決まって最下層の俄か侍たちだ。(中略)これには理由がある。前にも述べたが、彼らの命はゴミだ。敵に捕まった場合は、切り捨てられる。」
  「危ないことはゴミのような下級侍に迂回させ、藩におよぶリスクを軽くするのだ。だからどの藩でも、スパイは下級武士がその任にあずかる。」
  「五年間もかかって、もらった免状はようやく初等科の、それも薙刀(なぎなた)だったということからも、剣道に打ち込んでいたという姿はない。」

 実は、龍馬は佐久間象山塾に入っています。「すでに中岡慎太郎はじめ二十名近い土佐藩士と、他藩の土肥大作(丸亀)、高杉晋作(長州)、久坂玄瑞(長州)など、選りすぐりの諜報部員がたむろっており、吉田松陰、勝海舟、河井継之助など、進取の気性に富む秀才たちも出入りしていた。」のです。そこでは、西洋砲術の習得と江戸の情報収集が各藩によってなされていたのです。
  「土佐に帰ったのが1858年秋。それから二年間の龍馬の足取りはよくつかめない。二年間の空白。24、25歳にあたるのだが、今のところ、どこでなにをしていたかは霧の中だ。」

4.龍馬脱藩と勝海舟

  安政7年(1860)、咸臨丸で勝海舟らの遣欧使節が出発し、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されます。土佐藩内は公武合体派と勤王派が二分し、藩主・山内豊範は藩の旗色を決めかねていました。藩の情報収集に力が入ります。そして文久2年(1862)3月(旧暦)、龍馬は「脱藩」します。

 龍馬は、少なくとも五年間は土佐藩の密偵として働きました。「土佐藩士」としての顔ができています。藩としては、幕府から追求された場合に累が藩に及ぶのを防ぐ為に、藩との繋がりが切れたように装う必要がありました。それが龍馬の「脱藩」なのです。龍馬の決意などでは決してありませんし、あり得ません。
  因みに「藩士」や「脱藩」という言葉は司馬氏の創作です。例えば土佐藩に雇傭されている武士ならば、「土佐山内家家臣」。龍馬は「国脱(くにぬけ)」したのです。司馬氏は、竜馬英雄化の一環としてことさらこの件を大きく取り上げる為に、新しい言葉を必要としたようです。小説の竜馬はともかく実際の龍馬は、この時以後「土佐山内家家臣」とは名乗らなくなった、ということです。もし積極的な「国脱」であったとすれば、それは吉田東洋暗殺との関わりを考えざるを得ません。

 龍馬はアメリカから帰国した勝海舟に近づき、文久3年(1863)10月(旧暦)に勝が神戸に開いた海軍塾の塾頭になります。
  「勝は、幕府の諜報畑を歩いてきた人物である。それも根っからの対外国諜報筋だ。ある日、プロとしての勝の目に、土佐藩の隠密、龍馬のなみなみならぬ素質が飛び込んできたのである。勝は電光石火のごとく龍馬を取り込む。つまり龍馬はこの時点で、土佐藩の密偵でありながら幕府の隠密、すなわち二重スパイ、ダブルエージェントに身を投じたのである。」
  元治元年(1864)2月(旧暦)勝海舟と坂本龍馬が幕府の命で長崎に行きます。勝はこの時軍艦奉行並という役職で神戸海軍操練所の開所準備中です。龍馬は長崎に40日も滞在します。加治氏はこの時に英国国策会社の代理商グラバーとの接点ができたと推測しています。

 龍馬が書いた手紙で現存するのは128通。内、姉の乙女宛は12通。「飛脚料は江戸−大坂間で、だいたい七両から銀三分である。料金の違いは配達日数。」「四国は海を渡るので一通平均四両くらいか。しめて四八両(480万円)。そんな大金を、姉への手紙に使うわけはない。」
  加治氏は、乙女を情報の中継基地として利用しており、本信に付随させて姉への手紙を添えていたと推測しています。

第10話終わり

写真1:龍馬銅像(坂本龍馬記念館)
写真2:桂浜
写真3:龍馬の生まれたまち記念館
写真4:NHKドラマ「坂の上の雲」ポスター
写真5:坂の上の雲ミュージアム(松山市)

2010年8月
中谷酒造(株)代表取締役  中谷正人