第22話 厳島神社 【アラカン社長の徒然草vol.30】

 広島県南西部、瀬戸内海に浮かぶ30平方キロの厳島(いつくしま)。ここにある厳島神社はユネスコの世界遺産の認定を受けています。遺産としての価値もさることながら、満潮時に海上に浮かぶその壮麗な姿はこの世のものとは思えない別世界に誘ってくれます。
 厳島神社に祀るのは、その名称でもあるイチキシマ姫を筆頭に、タキリ姫(同社では田心姫と表記)、タキツ姫の宗像(むなかた)三女神です。宗像三神は航海の安全を司る神で、その本(もと)は福岡県宗像市沖津宮のタキリ姫、中津宮のイチキシマ姫、辺津宮のタキツ姫です。
 参拝を終えて西の回廊を出ると、目の前に「亀居山」と書かれた額が掛かる山門。それをくぐれば弁財天を祀る大願寺です。明治初頭の廃仏毀釈以前は神仏習合が普通でしたから江戸時代までの参拝者は三女神ではなく、弁天さんを拝んでいたことに思いが至りました。江戸時代の様子を知りたくて、調べてみました。

1.大願寺秘仏

 「この寺の秘仏厳島弁財天は弘法大師空海の作と伝えられ、日本三弁財天の一つ。弁財天は現世利益の女神様で、神仏習合の時代は嚴島神社の主神・市杵島姫命が理財の女神として崇められるようになり、仏教の弁財天と同一視されていました。神仏分離令によって嚴島神社から遷されたこの厳島弁財天をはじめ、宮島に現存する仏像の中で最も古いとされる木造薬師如来像(重要文化財)、千畳閣の本尊だった木造釈迦如来坐像(重要文化財)、その両脇を守っていた阿難尊者像と迦葉尊者像(ともに重要文化財)、五重塔の本尊だった三尊像、多宝塔の本尊だった薬師如来像、護摩堂の本尊だった如意輪観世音菩薩などを収蔵しています。」(宮島観光公式サイトより)

 秘仏の弁財天像は、廃仏毀釈まで厳島神社に祀られていました。江戸時代の浮世絵を見ますと、「厳島神社」ではなく、「厳島弁財天」、或いは「宮島弁財天」と書かれています。参拝に訪れた人びとは、現在の厳島神社の本殿で、あたかも仏教寺院のように弁財天像を拝んでいたのです。

2.大願寺本尊

 「開基は不明ですが、建仁年間(1201年〜1203年)の僧了海が再興したと伝えられる真言宗の古刹です。明治の神仏分離令までは嚴島神社の普請奉行として寺院の修理・造営を一手に担い、千畳閣、五重塔、多宝塔などから形成される厳島伽藍の中心をなしていました。」(宮島観光公式サイトより)

 大願寺が「厳島伽藍の中心」であれば、参拝者は「大願寺参り」の一環として弁財天像を拝んだことになります。大願寺の本尊は龍神です。龍神は水、或いは海と関係が深く、航海の三女神を介して弁財天とのつながりを感じますが、真言宗の寺院としては腑に落ちません。
 調べて見ますと西広島タイムス2006年4月7日に、「宮島の大願寺140年ぶり護摩堂再建」の記事をみつけました。「先代住職の発願以来、四半世紀かけ、明治初頭の神仏分離令で損失した『護摩堂』を約百四十年ぶりに再建し、中には新たに不動明王像を建立し祭った。」
 先に引用しましたが、廃仏毀釈以前に護摩堂(ごまどう)に祀られていたのは如意輪観音(にょいりんかんのん)です。護摩堂の主仏としては物足りません。そこで、真言宗の救済の象徴・大日如来(だいにちにょらい)の化身である不動明王像を新たに作ったのでしょう。大願寺では護摩堂の再建を悲願とすると同時に、真言宗らしさを備えることも悲願としていたようです。

3.大聖院

 「日本全国に、アオシマという地名は二十ぐらいあると思います。いえ、もっとあるかもしれませんが、青島、淡島、大島、ぜんぶ語源的に同じで、魂が宿る所とか、あるいは光が差してくる所とか、魂が還っていく所という意味合いを持っているんです」(「霊の発見」五木寛之著、対話者鎌田東二より)

 日本では古代より陸地の目の前にある島を祀る習慣があります。厳島もその一つであったはずです。弥山(みせん)頂上付近には数多くの巨石があり、人の手が加えられたと思われる物も少なくありません。宮島は瀬戸内海交通の要衝でもあり弘法大師空海の注目するところとなったのでしょう。厳島で最初の仏教寺院が建てられます。
 「正式な呼び名は多喜山水精寺大聖院。霊峰・弥山の麓にある真言宗御室派の大本山で、明治の神仏分離令までは十二坊の末寺を有し、嚴島神社の別当職として祭祀を司ってきた宮島の総本坊です。寺伝によれば、大同元年(806年)に弘法大師空海が三鬼大権現を勧請し弥山を開基して以来1200年の歴史をもち、弥山山頂の霊火堂や三鬼堂、求聞持堂などの管理にも携わってきました。」(宮島観光公式サイトより)
 空海がもたらした真言宗は密教です。水精寺の信仰は、それまで宮島にあったアオシマ信仰、山岳信仰、巨石信仰、航海の安全を司る神の信仰などの上に真言密教が乗り、混じり合う形で生み出されたもののようです。それを象徴するのが三鬼大権現(さんきだいごんげん)という他にない神です。創建以来1200年、耐えることなく火がともされ続けているという霊火堂も多様で神秘的な信仰の象徴と理解できます。
 先に見た大願寺は、真言宗らしさを持ちませんでした。それは水精寺が統括する宮島の信仰の一部、航海の女神を祀る部分に特化して役割を分担した存在であったからでしょう。

4.平清盛

 平家は平安時代末期、朝廷の実権を握ります。平家の力の源は、日宋貿易による収益です。宋は石炭火力の利用が普及し、磁器、金属の生産が飛躍的に伸び、史上空前の物質に恵まれた時代を迎えていました。平家は日宋貿易を独占しました。清盛は現在の神戸港の一部にあたる大輪田泊を整備し、後にはその山の手の福原に遷都します。
 航海の安全は平家にとって最大の関心事でした。高野山の高僧の勧めもあり、航海の安全を司る宗像三女神を祀る神殿を厳島に建設しました。豪華な経典「平家納経」も寄進しました。1168(仁安3)年ごろのことです。この時の寝殿造りの様式が今日まで厳島神社本殿に受け継がれています。平清盛は厳島神社の神格を圧倒的に高めました。

5.建物の系譜

 厳島神社には五重塔があります。元は仏塔ですが、廃仏毀釈の折に仏像は大願寺に移されました。この塔は1407(応永14)年に建てられたとしています。足利幕府が全盛期を迎える時期で、その6年前から日明貿易が始まっています。足利幕府にとっても貿易は大きな収益源で、航海の安全は重要です。五重塔は足利義満の命によって建てられたものと考えられます。現在の厳島神社の主たる建物の中で最も優美で、かつ古いものです。
 毛利元就は厳島宮を厚く信仰し、1571(元亀2)年、大改修と増築を行いました。現在に残る本殿、反橋(そりばし)はこの時に建てられたものです。平舞台はじめ今日残る基本的な形はこの時に作られました。元就は、大内氏が握っていた日明貿易の利権を引き継ごうと考えていたはずです。

 天下を統一した豊臣秀吉は1587(天正15)年、宮を見下ろす丘の上に大伽藍の建設を命じます。秀吉の野望は明国征服にまでふくらんでいました。大船団を朝鮮半島に派遣するのですから、航海の安全祈願は欠かせません。大きさで度肝を抜き、権力を誇示しようと考えたのでしょう、信濃善光寺に匹敵する規模です。当然のことながら現在の厳島神社の建物の中で最も大きく荘厳です。建築に時間がかかり、秀吉は完成目前に病死します。朝鮮出兵も失敗に終わります。
 未完成のまま暫く放置されていたらしく、柱や梁には江戸時代の落書きが残ります。やがて釈迦如来像などが安置され仏殿として使われていましたが、明治元年の廃仏毀釈の折に仏像は大願寺に移され、今日は厳島神社末社豊国神社。その巨大さから、通称「千畳閣」(せんじょうかく)。神道には相容れない建物として、五重塔と共に「付け足し」の扱いを受けているように感じました。

第22話終わり

写真1:大願寺山門
写真2:大願寺弁財天
写真3:厳島神社東回廊
写真4:厳島神社五重塔
写真5:厳島神社千畳閣

2012年2月
  中谷酒造(株)代表取締役  中谷正人