第25話 物部氏と石上神宮 【アラカン社長の徒然草vol.33】

石上布留神社絵図(石上神宮絵葉書より)  石上神宮(いそのかみじんぐう)は、奈良県天理市街の東側、布留(ふる)山の麓にあります。
 同社の公式ホームページによりますと、「当神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきました。」とあります。
 私は先月号、第24話「物部氏と百済」にて、物部氏は5世紀の応神天皇に始まる「天皇家」であることを論証しました。とするならば、石上神宮は物部氏という一豪族の神社ではなく、国家的な祭祀の場所であった可能性が高まります。日本書紀に「神宮」と記されたのは伊勢と石上の二社のみです。今回はこの謎に迫ってみましょう。

1.天武天皇

 伊勢神宮は、斎宮(さいぐう)の発掘調査から天武天皇の時代に創建されたことが明らかです。「神宮」という共通の称号から考えれば、石上神宮も天武天皇が創建したと考えられそうです。
 天武とはどのような人物だったのでしょう。天武は百済・物部系統の天智天皇の死後、672年の壬申の乱に勝利して天皇に即位します。天武は生年が日本書紀に記されず、しかも「天智の弟」でありながら天智の娘を次々と妻にしますので、日本書紀の記述に作為があることは明らかで、その血筋は謎に包まれています。ただ、親新羅外交を展開することから辰韓・蘇我系統に近いと推定されます。
 天武は、天皇を中心とした中央集権国家建設に邁進します。初めて国号に「日本」を使用し、新羅や唐の都にならって恒久的な碁盤目状の道路に区切られた大首都・新益京(あらましのみやこ。通称藤原京)の建設を始めました。飛鳥浄御原律令を制定しました。初めて「天皇」の称号を用い、八色の姓制度による新たな身分秩序を確立して皇族の地位を高めました。そして歴史書の編纂に着手したのです。

2.歴史書の編纂

 720年に完成する日本書紀では天武天皇10(681)年に帝紀、上古の諸事を記録させたと記されています。又、712年に完成する古事記序文には天武天皇が帝紀・旧辞をまとめて真実を後世に伝えさせるべく編纂事業をさせ、それを稗田阿礼(ひえだのあれ)に記憶させたとあります。
 和銅4(711)年9月、元明天皇は太安万侶(おおのやすまろ)に命じて稗田阿礼の記憶を書面にするよう命じ、翌年1月に古事記が献上されたとしています。膨大な内容が、たった4ヶ月で書き上げられたのです。それは、古事記作成にあたって、天武天皇の時代にまとめられた内容には、一切手を加えていないという主張に他なりません。
 天武天皇の死後、キングメーカーとして日本の政治を牛耳った藤原不比等(ふじわらふひと)は、古事記と日本書紀編纂によって「万世一系の天皇の血筋」を偽装し天皇の権威を高め、自己の権力基盤を強固なものにしたことを私は繰り返し述べてきました。上記、日本書紀と古事記の記事は、先ず天武天皇が編纂した基になる歴史書が既にあったこと、それに不比等が自己の都合の良いように手を加えたことを浮かび上がらせます。
 先に述べた大首都・新益京(藤原京)の建設も、不比等が擁立した持統天皇の業績にしたことが発掘調査の結果判明しています。

3.天武の歴史書

 天武は歴史書の編纂を行いました。それは物部・百済系と蘇我・辰韓系の血みどろの争いを乗り越え、中央集権国家建設を目指した天武にとっては王朝の正統性を主張し、権威を向上させる必要に迫られてのことに違いありません。それならば、天武もその編纂させた歴史書の中で、自身につながる「万世一系の天皇の血筋」を主張したはずです。
 太陽神ニギハヤヒを信仰する登美(とみ)ナガスネヒコの一族(いわゆる出雲族)、それを滅ぼした神武と崇神天皇、5世紀の応神天皇に始まる物部王朝、6世紀の継体天皇に始まる蘇我王朝、いわゆる「大化の改新」、そして壬申の乱を経て天武天皇に到るまで、一貫した「天皇家」の虚構を作り上げたのは藤原不比等の独創ではなく、天武天皇と考えられそうです。

4.石上に祀ったもの

 歴代天皇が継承する「三種の神器」(さんしゅのじんぎ)は、曲玉(まがたま)、鏡、剣の三宝を指します。しかし、日本書紀が書かれた時点では「二種の神器」でした。日本書紀の即位の記事において神器に触れているのは継体天皇と宣化天皇、持統天皇の三者だけであり、しかも継承されるのは鏡と剣でしかないのです。
 天武が考えた神器は鏡と剣の二種類でした。天武は、万世一系の王、即ち「天皇」の血筋を歴史書によって創造しました。二種の神器とは、その歴代の王が連綿と継承してきた血筋の象徴として考案されたものです。実際には王朝は交代しており、現実に継承されてきた二種の神器というものはあり得ません。それを安置し祀る神殿を造ることによって神器の実在を虚構し、視覚的に人々に「万世一系」を納得させることを考えついたはずです。それが「神宮」と呼ばれる二つの施設だったのでしょう。
 伊勢には鏡を太陽神として祀りました。祭祀を行う役所、斎宮も建設しました。石上には剣を祀りました。石上にも斎宮があったという言い伝えが残っています。「神宮」という名称自体、斎宮があったことを暗示しています。

5.神剣の所在

摂社出雲建雄神社 古事記、日本書紀によれば、皇位を象徴する神器、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)は、神話時代にスサノオが退治したヤマタノオロチの尾から取り出したアメノムラクモノツルギのことです。
 日本書紀には天智天皇7(668)年、「新羅僧道行が盗んで新羅に持ち帰ろうとしたが、船が難破し戻った」とあります。草薙の剣はどこに祀られていたかは書かれていません。
 熱田神宮では、熱田神宮から持ち出されたものが宮中に戻され、朱鳥元(686)年、天武天皇崩御前の病気を機に熱田に戻されたとします。しかし、その当時は熱田は「神宮」ではありません。皇位を象徴する剣を安置し祭祀する特別な場所とは考えられません。
 一方、石上神宮の摂社、出雲建雄神社(いずもたけおじんじゃ)に書かれた由緒では、「出雲建雄神は草薙の神剣の御霊に坐す。今を去ること千三百余年前、天武天皇朱鳥元年、布留川上日の谷に瑞雲立ち上る中、神剣光を放ちて現れ、『今、此の地に天降り、諸の氏人を守らん』と宣り給い、即ちに鎮座し給う。」とあります。即ち、天武天皇治世の末年に石上での祭祀が始まったということになります。

6.二種類の神剣

出雲建雄神社拝殿(内山永久寺から移築。国宝) 天武天皇の時代、神話時代から連綿と続く皇位の象徴として草薙の剣が祀り始められたことを述べました。ところが、これを祀る出雲建雄神社は摂社です。石上神宮の主祭神は布都御魂(フツミタマ)という別の剣に宿る神です。これはどうしたことでしょう。
 日本書紀によりますと、フツミタマ剣は、神話時代に経津主(フツヌシ)と武甕槌(タケミカヅチ)が葦原中国(あしはらなかつくに。出雲、そして日本を暗示)の征服に用いた剣で、初代神武天皇が熊野山中で窮地を脱する時に使われました。
 即ち、皇位の象徴としての神剣が二種類存在したのです。
 平安時代、927年にまとめられた延喜式神名帳には、伊勢、鹿島、香取の三社のみが神宮で、石上が抜け落ちています。鹿島神宮にはタケミカヅチ神が祀られ、フツミタマ剣を神宝としています。香取神宮にはフツヌシ神を祀ります。フツヌシの「フツ」は剣名と共通ですから、これら二社が石上に代わってフツミタマを祀る存在になったことを示しています。
 もう一つの草薙の剣は、前述のように熱田神宮が神宝として安置したとしており、石上の存在意義が低下したことが解ります。

7.藤原不比等の概念

重要文化財・鉄楯(石上神宮絵葉書より) 第23話「物部氏と善光寺」で論証しましたが、善光寺はもとより鹿島神宮、香取神宮、諏訪大社など主要な神社、祭祀の施設は藤原不比等の時代に建てられました。この点から見れば、天武が石上に祀った剣、及び祭祀の概念は、不比等が構想したものと必ずしも一致しておらず、不比等が石上の地位を他に求めたことに気付かされます。
 ここで注目したいのは日本書紀の次の記事です。天武天皇3(674)年、天武は忍壁(おさかべ)皇子を石上神社に派遣し、膏油で神宝を磨かせ、諸家の宝物を皆その子孫に返還させます。これが事実なら、天武が即位した時点で、既に石上神宮の基になるものが存在していたことになります。これを仮に石上社(いそのかみしゃ)としましょう。
 石上社には「諸家の宝物」が納められていました。即ち、「万世一系の天皇の血筋」の存在を視覚的に訴える役割を担った社としては純粋性に欠けることになります。天武天皇が、「諸家の宝物」を放り出して「石上神宮」に改造したとしても旧来の印象が残り、十分な機能を果たせないことを不比等は怖れたのではないでしょうか。

8.物部氏と石上社(いそのかみしゃ)

 冒頭に引用した石上神宮のホームページには「武門の棟梁たる物部氏の総氏神」とあります。石上社は物部氏とどう結びつくのでしょう。
 石上神宮は、太陽神ニギハヤヒが地上にもたらした十種神宝(とくさのかんだから)に宿る神霊を布留御魂(ふるみたま)として祀っています。神名の布留(ふる)は最初に述べたように石上神宮のある山の名称でもあります。石上神宮は、ニギハヤヒの子・宇摩志麻治(ウマシマジ)を「当神宮祭主(さいしゅ)物部氏の祖b」としているのです。
 太陽神ニギハヤヒを信仰したのは登美ナガスネヒコの一族(いわゆる出雲族)です。奈良盆地に3世紀初頭に入り、3世紀の後半に九州から東征した初代天皇・神武、そして崇神天皇に滅ぼされます。出雲族は、古事記と日本書紀が描く神話時代から歴史時代の始まりにかけての主役です。
 一方、物部氏は5世紀の倭王です。出雲系統、神武・崇神系統に続く三代目の王朝です。物部氏が初代王朝の神ニギハヤヒの子・ウマシマジを自らの祖先神とした理由は一つ。それは天武天皇や藤原不比等同様、王統の一本化により王権の正統性を高め、権力基盤を強化し、王権の永続性を狙ったからに違いありません。
 即ち、被征服者の歴史を自身の歴史に組み込んで王権を強化する方法は、天武天皇や藤原不比等に先だって、5世紀の「天皇」であった物部氏が考え出したものだったのです。中国では王朝の交代を天の声による「革命」として肯定しますので、際立った対照をなす考え方が日本に始まったと言えます。

9.石上社の原風景

 過去二代の王朝が拠点とした奈良盆地を見下ろす位置が選ばれました。石上神宮境内から5世紀に造られたとみられる巨大な須恵器の甕が発掘されています。物部氏は石上社を建設し、十種神宝など出雲族の王権の象徴、4世紀の王権を象徴する剣、それに鉄盾(重要文化財)、百済王から贈られた七支刀(国宝)などを納めました。先に引用した日本書紀天武天皇3(674)年の記事からすれば、もっと多くの神宝を収納していたのかもしれません。「物部氏の武器庫であった」という伝承はここから来ているのでしょう。それを674年に整理したとしても、最も重要なものは現代に到るまで収蔵し続けたのです。
 最後に石上(いそのかみ)の語源です。盆地から見て石上社の背後から昇る太陽の象徴がニギハヤヒ神。神がその日の終わりに沈む地、西30キロの海辺に航海神を祀る社(やしろ。後の住吉大社)を設けました。「いそのかみ」とは「磯の上」。海辺の社の上手(かみて)を意味したのでしょう。
 航海神を祀る社の南側には王墓が造られていきました。世界最大の大仙陵古墳、最初の王墓と考えられる上石津ミサンザイ古墳など、その規模に5世紀の王権の強大さをしのぶことができます。

第25話終わり

写真1:石上布留神社絵図(石上神宮絵葉書より)
写真2:摂社出雲建雄神社
写真3:出雲建雄神社拝殿(内山永久寺から移築。国宝)
写真4:重要文化財・鉄楯(石上神宮絵葉書より)

2012年5月
  中谷酒造(株)代表取締役  中谷正人