第26話 気比大神と名前の交換と 【アラカン社長の徒然草vol.34】

気比神宮 福井県敦賀市の中心に気比(けひ)神宮があります。創建は8世紀初頭。古事記、日本書紀を編纂していた時期です。この頃、古事記、日本書紀に書かれた「歴史」を裏付けるものとして各地に神社が建設されて行きますので、その一環として北陸のこの地になくてはならない神を祀ったものと思われます。
 日本海側は朝鮮半島との往来が盛んでした。敦賀は、南に向かってゆるやかな峠を越せば琵琶湖に入りますので、湖水交通と宇治川、木津川を経て大和に到る物資流通の重要拠点でもありました。
 出雲大社には出雲の王であり神でもあった大国主が祀られているように、この地にもかつての王を神として祀る施設が従来からあったのかもしれません。気比神宮に祭られる神の名はイザサワケです。

1.地名の由来

 敦賀の地名は朝鮮半島からこの地にやってきたツヌガアラシトという人名から来ているとされ、敦賀駅前にはその像が建てられています。日本書紀の垂仁天皇2年の注記にツヌガアラシトのことが書かれています。
 この人物、幾つかの名で呼ばれていたようで、日本書紀には次の名が挙がっています。任那人ソナカシチ。加羅国の王子ツヌガアラシト、別名ウシキアリシチカンキ。
 岩波文庫「日本書紀」(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注)の解説をまとめると以下になります。

 A:ソ ・ナカ・   シチ
 B:ウシ・キ ・アリ・シチ・カンキ
 C:ツヌガ  ・アラ・シト

 まず、A。朝鮮語で「ソ」は「牛」、「ナカ」は「来る」。Bの「ウシ・キ」と同じ意味です。「牛が来る」という情況はこの日本書紀の注記に、ツヌガアラシトが農村に連れて来た牛の代わりに白玉を得て、それが美しい女性に変わって妻にする記述があり、それとの関連でかろうじて理解できます。
 BとCの「アリ」と「アラ」は同じ単語で、「知る」、「開く」の意味。
 A、B、C共通の「シト」(シチ)は尊敬を著す語。因みに継体天皇23年の条に見える加羅王も「アラシト」です。
 Bの最後の「カンキ」は小国の王号。
 Cの「ツヌガ」は新羅や加羅の最高官位。
 以上をまとめると、「アリ」(アラ)を「開明」と訳せば、Aは牛来王。Bは牛来開明王。Cは開明王を意味することが解ります。但し、Cは「ツヌガ」という官位、即ち王の家臣であることを示す言葉が付いていますので、倭、即ち日本への従属関係を示唆しています。

2.名前の交換

大塚古墳(滋賀県高島市田中) 日本書紀の応神天皇の条、最初の注記には次の記述があります。応神天皇の在位は4世紀末から5世紀初期と考えられますので、ツヌガアラシトが笥飯浦(けひのうら)に上陸してから数十年から百年近く後のことです。
 「一に云はく、初め天皇、太子と為りて、越国に行して、角鹿(つぬが)の笥飯(けひ)大神を拝祭(おが)みたてまつりたまふ。時に大神と太子と、名を相易へたまふ。故、大神を号(なづ)けて、去来紗別(イザサワケ)神と曰す。太子をば誉田別(ホムタワケ)尊(みこと)と名(なづ)くといふ。然らば大神の本の名を誉田別神、太子の元の名をば去来紗別尊と謂(もう)すべし。然れども見ゆる所無くして、未だ詳(つまびらか)ならず。」
 即ち、応神天皇の元の名はイザサワケであったが、気比大神の名と交換してホムタワケになったという説があるが、良く解らないとしているのです。
 日本書紀が編纂されるのは8世紀初期ですから、三百年経過する内に記録が散逸したのでしょうか。

3.ホムタワケ

大塚古墳(継体天皇父墓とみられる)説明 気比(けひ)の神は、天皇にとって敬うべき存在でした。その証拠に、「大神」としていますし、「拝祭」したと書かれています。一方で、神と名を交換したとしています。これは友だち関係、対等の関係を示唆します。日本書紀の編纂者が仮にこれを荒唐無稽なことと考えたなら、このような説を注記するはずはありません。明確な意図の基にわざわざ書いたと考えなければなりません。
 その理由は何か。それはホムタワケという名称の意味にあります。ここで第24話「物部氏と百済」を思い出して下さい。該当する部分は次の通りです。
 「5世紀に始まる物部王朝は応神天皇、即ちホムタワケに始まります。「ワケ」は5世紀の天皇に共通するもので、王を意味します。応神天皇は百済経由で秦氏の移住を受け入れました。「ホムタ」が秦氏の「ハタ」に対応するとすれば、「ホムタワケ」は「秦王」を意味します。中国を初めて統一した秦の始皇帝にあやかった称号かもしれません。」

4.交換の意味

白髭神社(滋賀県高島市鵜川) 高句麗の好太王碑に書かれているように倭は朝鮮半島の百済、新羅を屈服させました。日本書紀に書かれた神功皇后は架空の人物のようですから、5世紀に始まる王朝の最初の王、応神天皇の治績として良いでしょう。応神天皇は朝鮮半島南部・辰韓(シンカン)と呼ばれた地に居た秦氏を引き連れ、九州から近畿に入り、新しい王朝を開きました。応神天皇こそ偉大な王、中国の初代皇帝にあやかった「秦王」を名乗るにふさわしい王です。
 ところが敦賀には「秦王」を名乗る者が既にいたのです。彼らも朝鮮半島南部から移住してきた秦氏だったからです。彼らは新羅建国に伴って辰韓(シンカン)を追われ、日本海を渡って直接敦賀にやってきていたのです。先のツヌガアラシトの記述はそんな人々を率いた王を意味していたのでしょう。
 応神はツヌガに行き、秦王と名乗るべきは自分であることを納得させ、代わりに偉大な王である自分の名を名乗らせることで相手の面子も立て、この地方を統治下に置いたのでしょう。これが名前交換の意味に違いありません。

5.編集者の気遣い

 ではなぜ日本書紀の編者は「良く解らない」と書いたのでしょう。
 気比神宮のある敦賀は海の港として朝鮮半島との交易に至便です。日本海沿海航路の港としても良い位置を占めています。緩やかな峠をはさんで琵琶湖に繋がり、日本海側の産物を畿内へ運ぶ重要拠点です。しかし平野が乏しく、強大な王権ができる場所ではありません。気比大神を祭る人々の主たる領土は近くの広大な平野、福井平野にあったはずです。
 再びここで第24話「物部氏と百済」を引用します。
 「旧事本紀巻十 国造本記によれば蘇我氏の若長足尼(わかながのすくね)が三国の坂中井(福井県坂井市丸岡町)に置かれた役所で国造(くにのみやつこ)をしていました。日本書紀によるとこの坂中井に継体は住んでおり、請われて507年、樟葉宮(くずはのみや。大阪府枚方市)で天皇に即位します。継体の出身地は高島郷(滋賀県高島市)です。」
 気比大神側の本拠地は、九頭竜川沿いに水田の広がる福井平野の坂井市でした。5世紀を通して滋賀県高島市の平野にも植民し力をつけていきました。継体天皇の父の墓はここにあります。やがて応神天皇に始まる物部王朝が衰えた6世紀初に、これと交代することになります。継体天皇に始まる蘇我王朝です。今まで語源が不明だった滋賀(シガ)と蘇我(ソガ)は何れも秦氏の母国・辰韓(シンカン)から来ていると私は考えています。
 継体天皇の血は現在の皇族に受け継がれています。物部の血も受け継がれています。一方がもう一方に屈服したことを明確にしたくなかった、そんな配慮が行間から伝わってきます。

第26話終わり

写真1:気比神宮
写真2:大塚古墳(滋賀県高島市田中)
写真3:大塚古墳(継体天皇父墓とみられる)説明
写真4:白髭神社(滋賀県高島市鵜川)

2012年6月
  中谷酒造(株)代表取締役  中谷正人