第28話 日本海から大和への物流 <前編> 【アラカン社長の徒然草vol.36】

 「木幡村でヤカワエ媛と出会っている。木幡は強田とも書き、古代の巨椋湖へそそぐ宇治川の河口に近く、北東への陸路をとると逢坂山をこえ近江に至る古北陸道の要衝であった。(中略)ヤカワエ媛がお酒の相手をした。そのあと、よく知られた歌をホムタ別がよんだ。
 この蟹や いづくの蟹 百(もも)伝う 角鹿(つぬが)の蟹(以下略)
 この最初の部分は、まるで今日の居酒屋のやりとりである。大阪弁でいえば、『このカニは、どこのカニや。わざわざ角鹿から手にいれたんか』というようにぼくには読める。」(森浩一著「記紀の考古学」第12章 応神天皇と日向の髪長媛より)

 応神(おうじん)天皇は5世紀に近畿地方に入り、新たな王朝を始めました。応神天皇は、京都府宇治市あたりで日本海の越前ガニを食べることができました。このカニはどのようなルートで運ばれて来たのでしょう。今回と次回の二回にわたって日本海から大和、今の奈良県に至る物流ルートを追ってみましょう。

1.敦賀から畿内への最短ルート

 トラックや鉄道のなかった時代、物資は船で運ばれました。トラック輸送に慣れた現代人の感覚では、街道を荷車で運んだように考えがちですが、全くの錯覚。荷車は主として平坦地、しかも近距離だけの輸送手段でした。それに水運と水運の間の、船で運べない区間のみ荷車が利用されました。
 敦賀は日本海側で最も琵琶湖に近い港です。日本海側の物資を畿内に運ぶには日本海を関門海峡まで西に運び、そこから瀬戸内海を東に運ぶルートもありましたが、航海日数が多く掛かります。敦賀から琵琶湖に至るわずかな道のりを陸路で運ぶことにより琵琶湖の水運を利用するルートも盛んに利用されてきました。

2.敦賀から疋田へ

疋田舟川の碑 敦賀から琵琶湖畔の塩津もしくは大浦への距離は、約22キロ。敦賀から南へ向かうなだらかな坂を登り、峠を越えなければなりません。峠の少し手前に疋田という集落があります。敦賀から疋田までは約7キロです。
 この7キロは笙の川沿いで、勾配が緩やかな登り道です。たかが7キロ、されど7キロ。この間に運河を建設すれば輸送がどれだけ楽になることでしょう。運河建設は悲願でした。平安時代末期、平重盛も計画したといいますが実現には到りません。
 江戸時代の文化13年(1816)、敦賀・疋田間の運河が完成します。「疋田船川」です。輸送効率が圧倒的に向上しますが、残念なことに天保4年(1833)に使用されなくなります。陸上輸送を担ってきた馬借屋との対立が原因でした。
 安政4年(1857)、再び運河の利用が始まります。これは、嘉永6年(1853)にペリーが来航し、その後も日本近海に外国船が頻繁に出没した為、日本海の西廻航路に頼ることを避ける為でした。例えば加賀藩米は、前年1500俵にすぎなかったものが11万俵になりました。慶応2年(1866)、集中豪雨により運河が破壊され、それ以後使われなくなりました。

3.疋田から琵琶湖

大川(塩津小学校前) 疋田からは大川沿いに塩津に下る東側のルートと大浦川沿いに大浦に下る西側のルートに分岐しました。疋田から3キロほどの緩やかな勾配を超えれば下り道。疋田から琵琶湖畔の塩津港もしくは大浦港まで15キロほどです。
 明治17年(1884)、柳ヶ瀬トンネルが開通し、敦賀と長浜が一本の鉄道で結ばれ、これ以降鉄道輸送が主流になります。鉄道は疋田の手前で東に向かい、柳ヶ瀬山の北側を通ってトンネルで峠を越え、南に下って塩津の南隣の長浜に至るルートでした。
丸子船(西浅井町塩津「道の駅塩津海道あぢかまの里」) 昭和32年(1957)、伝統の陸路である疋田から塩津を結ぶルートに沿って鉄道が敷かれ、それが今の北陸本線になりました。柳ヶ瀬トンネルは自動車道として今も利用されています。

4.運ばれた物

琵琶湖地図(「北淡海・丸子船の館」パンフレットより) 古くは応神天皇がカニを召し上がったように海産物、その多くは乾物にしたり、塩蔵にしたでしょうが、そういった日本海側の産物が畿内へ運ばれました。
 「近世・江戸時代には、北国諸藩から京都・大阪に年貢米、ニシン・海藻、紅花などが運ばれ、京都・大阪からは北国諸藩へ陶器や漆器・反物・着物などが運ばれました。」(「北淡海・丸子船の館」パンフレットより)
 これを見ると西廻航路で海路を畿内まで行く北前船と競合したことが解ります。短い距離とは云え陸路を運ぶことで積み替えなどコストは多く掛かっても早く畿内に運ぶことで、勘定は合ったのでしょう。
 疋田町の元公民館の建物脇にある展示説明文では「上り荷のうち最も多いものは米であった。」、「下り荷のうち最も多いものは茶であった。特に美濃茶」とあります。美濃茶は関ヶ原から峠を越えて天の川の水運で米原へ。米原から湖水交通で塩津、もしくは大浦に運ばれたことでしょう。

5.琵琶湖の湖水交通

丸子舟(西浅井町大浦「北淡海・丸子船の館」) 江戸時代、湖水交通に使われたのが丸子船です。
 「丸子船は、二つ割りにした丸太を胴の両側に付けた琵琶湖独特の船です。古く万葉の時代より北陸と都を結ぶ交通・物流の要衝として栄えたため最盛期の江戸時代には約1400隻が湖上を往来していました。ここに展示されている丸子船は百石船(米俵250俵を積載可能)で、全長17メートル。現存する丸子船のうちの1隻という貴重なものです。」(「北淡海・丸子船の館」パンフレットより)
湖上交通の守り神・白髭神社から見る湖水 物資輸送が鉄道に切り替わってからも琵琶湖周辺各地を結ぶ湖上交通は盛んに利用されました。トラック輸送が普及する戦後まで丸子船は現役で活躍していました。昭和30年代に花嫁を運ぶ丸子船の写真が展示されていたのは印象的でした。

第28話<前編>終わり

写真1:疋田舟川の碑
写真2:大川(塩津小学校前)
写真3:丸子船(西浅井町塩津「道の駅塩津海道あぢかまの里」)
写真4:琵琶湖地図(「北淡海・丸子船の館」パンフレットより)
写真5:丸子舟(西浅井町大浦「北淡海・丸子船の館」)
写真6:湖上交通の守り神・白髭神社から見る湖水

2012年8月
  中谷酒造(株)代表取締役  中谷正人