第30話 煎り酒 【アラカン社長の徒然草vol.39】

 いり酒は、かつお節と梅干しを古酒で煎じた調味料であり、室町時代から江戸時代中期まで主に刺身や膾などに使用されていた。その後、しょうゆの普及とともにいり酒の利用は減少していったことが、江戸時の料理本を用いた研究等によって示されている。(中略)
 『翻刻江戸時代料理集成』、『日本料理秘伝集成』などに収載されている江戸期料理本76冊において、いり酒の料理別出現総数は、しょうゆが2808であるのに対し、1166であった。
(醸造協会誌第107巻第8号「江戸期の調味料『いり酒』の再現と嗜好特製」岸田恵津・富永しのぶ)

1.忘れられた存在

 上記引用文は、江戸時代のレシピに従って研究者が再現を試みた報告書の冒頭部分です。
 読者の皆様の中で「煎り酒」と言われてピンと来る方はほとんどおられないでしょう。しかし、煎り酒は江戸時代の日本人にとってごく当たり前の調味料で、その後は醤油の普及に伴い取って代わられ、今では限られた料理店でわずかに用いられるだけになりました。
 ネット上で調べてみますと、完全な再現ではないものの「煎り酒」は市販されています。

2.レシピ

煎り酒材料 煎り酒は、古酒に鰹節と梅干しを加えて煮詰め、濾したものです。その配合割合ですが、上記研究では『料理物語』に基づいて古酒一升、梅干し10個、鰹節5合とします。
 再現にあたっては古酒450ml、梅干し3個、鰹節7.5gとしています。これを古酒一升(1800ml)あたりにすれば、梅干し12個、鰹節30gですから、梅干しは少し多め。鰹節は、削った後のカサ(体積)で見当をつけたものでしょう。
 出来上がったものは「しょうゆに比べて色が薄く、香りは弱いと、味ではうま味と酸味は強いが塩味は弱いと評価された」、「官能評価は必ずしも高くなかった。特に刺身に対して低く、白身魚の刺身に合うという事前の予想に反する結果」でした。

3.梅干しの塩

煮詰める 「塩味が弱い」。私はこの報告を読んで、すぐに頭に浮かんだのが梅干しの塩分のことです。この研究に使われた梅干しの塩分が低すぎたのではないか、ということです。市販の梅干しは近年の「減塩」ブームの影響で塩抜きをしています。我が家では自宅で梅干しを作りますが、塩抜きはしません。塩は飽和状態で、表面に塩粒が白く浮いてくるほどです。自家製の梅干しを使って検証することにしました。

4.古酒の選択

冷ます 検証に使う梅干しは決まりました。次は古酒です。
 弊社で入浴用清酒「大和の酒風呂」(300ml、900ml瓶詰)http://www.sake-asaka.co.jp/products/index.html#10)として製品化されているものを用いました。この酒は、入浴用とは言うものの飲める純米清酒で、日本国政府の定める酒税を納めています。
 原料米は江戸時代同様、通常食べる白米と同じ「精米歩合90%」。現代のような米の表面を削って芯だけにする特殊な精米機がなかった江戸時代は、胚芽と表皮だけをこそぎ落とす簡単な精米で酒を造っていました。それが「精米歩合90%」の米です。
 この入浴用清酒では美肌に役立つアミノ酸を多く生成する為に、敢えて江戸時代同様の高い発酵温度で醸造しています。
 このような清酒は雑味が多く、今日の基準では美味しいとは言えませんが、江戸時代の酒の再現としては、かなり近いものになっています。もう一つ江戸時代の酒との違いは、酸が少ないことです。酢を補えば良いでしょう。
 入浴用清酒は、飲用に比べて出荷ペースが遅く、熟成して琥珀色をしています。瓶詰め前に活性炭素を用いた濾過を行っていませんので、この点でも「江戸時代の古酒」に近いものになっています。

5.香り

濾してできあがり 古酒を300mlに米酢を小匙一杯。それに梅干し2個をほぐして入れ、鰹節を6g。量が半分を切るまで煮詰めて濾しました。できあがり。
 煎り酒は、カラメルのような深く甘い香りがします。この香りの元は古酒から出るもので、煎り酒を特徴付ける風味のようです。知り合いの料理人が教えてくれたのですが、煎り酒を作る時は生米を煎って少し焦がし、それを加えてから煮詰めることでカラメル状の風味を付けるそうです。現代の料理店では充分に熟した古酒が手に入らないのでそのような操作を加えているのでしょう。

6.味

いさきを燗酒と共に 先ずは白身魚。イサキの造りは豪勢に厚切り。浸けて食べますと濃いダシに少し塩と酢が入ったようなあっさりした和風ドレッシング風。イサキに脂が乗っているせいか、厚切りのせいか、味が滲みず、ちょっと塩気が不足して物足りません。醤油を少し足してやると丁度良い感じです。江戸時代には醤油と酢を用いた「早煎り酒」というのもあったそうです。単に塩を足すだけでも良さそうです。
 次はヒラメの薄造り。ヒラメを口に入れると鼻にカラメル状の香りが心地よく抜けて行きます。薄造りのおかげで煎り酒がうまく白身に絡まり、非常に上品な、ちょっと高級料亭の一品にありそうな嬉しい味です。白身自体の甘味も引き立ち、適度な塩分と酸が加わり、大変良い相性です。今まで魚介類の刺身は、醤油の味に染めて食べていたことを痛感させられました。
 そして和え物に挑戦。ブナシメジをサラダ油控えめにしてフライパンで一分間煎り、火を止めて余熱でしんなりとさせます。小鉢に移して上から煎り酒をタップリとかければ出来上がり。まだ暖かいのでカラメル状の香りが心地よく立ち昇ります。口に入れると、これまた大変上品な味わい。シメジの本来の味が前面に立ち、煎り酒がそれを引き立てていることが解ります。

7.なます

 ふと「羮に懲りて膾を吹く」(あつものにこりてなますをふく)という言葉が頭に浮かびました。出典は中国の戦国時代、紀元前3世紀頃の楚国の詩集「楚辞」です。その「膾」(なます)がどういう味付けであったのか、それが気になったのです。
 「膾」とは、偏の肉月が示すように生肉を細く切った和え物です。肉の種類は豚が多かったはずです。醤油ができる前ですから、煎り酒のようなものを使って味を付けたのでしょう。楚は長江中流域、稲作地帯の国。当時、米の醸造酒、梅干しと梅酢は既にありました。鰹節にあたる魚の干物がなかったとしても、それに代わる魚醤なり、味の深みを加える素材はあったはずです。煎り酒は室町時代に考案されたと言いますが、実はもっと古くからそれに近い調味料が連綿と受け継がれていたのかもしれません。
 件の料理人によれば京料理では最近まで刺身を醤油にひたすのを嫌い、煎り酒を掛けて食べさせていたとのこと。魚は厚切りにしないどころか、煎り酒が染みやすい糸造り(いとづくり)。煎り酒が絡めば、膾(なます)に近い状態になります。懐石料理では食べ終わった後、器に何も残さないのが良いとされ、その点でも色の薄い煎り酒は糸造りに吸い取られ、器に跡が残りません。
 読者の皆様、煎り酒を是非、ご家庭でお試しあれ。魚は糸造り、もしくは薄造りがポイントです。

第30話終わり

写真1:煎り酒材料
写真2:煮詰める
写真3:冷ます
写真4:濾してできあがり
写真5:いさきを燗酒と共に

2012年11月
  中谷酒造(株)代表取締役  中谷正人