第32話 紀元前の大航海 【アラカン社長の徒然草vol.41】

 「大航海」と言われて、我々が真っ先に思い浮かべるのは、15世紀末に始まるヨーロッパ人による地理的発見の時代です。歴史に詳しい方は、それに先行してアジアの大航海時代があったことをご存じでしょう。
 アジアの大航海時代は10世紀に建国した中国・宋王朝に始まります。羅針盤が発明され、航海術が進歩し、中国で大量に造られた磁器や絹織物が東南アジアや中近東に船で運ばれます。元代には一層盛んになり、明代の1418年には鄭和の艦隊が東アフリカにまで達します。この活発な荷動きがヨーロッパの大航海時代を誘発することになるのです。
 実は、その遙か昔にも大航海が行われていました。東は南太平洋東部のイースター島から西はアフリカの隣、マダガスカル島まで広がったオーストロネシア語を話す人々の大航海です。どんな文化を持つ人々が、どのようにして拡がっていったのでしょう。ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」を骨格に、私の調査と分析を加え、更に中国文明の始まりに思いを馳せてたどって行きましょう。

1.大坌坑(だいふんこう)文化

陶製酒器 台北(たいほく)市の松山空港から西北に10キロほど。台湾海峡を見下ろす丘の上に大坌坑遺跡はあります。ここでは台湾に新石器時代が始まる7000年前から数千年にわたり集落が営まれていました。遺跡最下層は7000年前から4700年前の大坌坑文化と呼ばれる時代です。
 この文化の特色は縄紋陶(じょうもんとう)と呼ばれる土器が一つ。色は赤っぽく、胴が細かい縄目の縦縞(たてじま)模様で覆われています。
 それに槽石棒(そうせきぼう)。梶の木の樹皮を叩いて樹皮布を作っていたと推定されます。石鏃、石斧、漁網用の石錘(おもり)からは狩猟、漁労をしていたことが解ります。又、芋栽培など農業をしていたと推定されています。
 大坌坑遺跡に限らず、この文化の遺跡は台湾北部、それに対岸の中国大陸でも発掘されています。人々はまだ青銅器も鉄も持っていません。新石器時代の文化レベルです。

2.大移動

 大坌坑文化は台湾海峡対岸の大陸の影響を大きく受けています。大陸との間を航海するために造船・航海技術が発達したことをダイアモンド氏は推測します。当時の船は丸木船。1本の木を石斧でくり抜いた簡単な構造の船(カヌー)でしたが、大洋を航海する為に両側に腕木(アウトリガー)を取り付け安定させる発明があったはずです。
 大坌坑文化を特長づける縄紋陶、槽石棒、農業、それに大坌坑文化の次の時代に加わる養豚の4点を手掛かりとして発掘調査の成果と突き合わせ、大坌坑文化を持った人々こそが最初の大航海を成し遂げたことを解明できます。その移動の歴史は次の通りです。
 紀元前3000年頃 フィリピン
 紀元前2500年頃 ボルネオ、セレベス、ティモール
 紀元前2000年頃 スマトラ、ジャワ
 紀元前1600年頃 ハルマヘラ、ビスマルク諸島、ソロモン諸島
 紀元前1200年頃 フィジー諸島、サモア諸島、トンガ諸島、ニューカレドニア島
 紀元前1000年頃 マレー半島、ベトナム 
 そして、西暦500年頃には、ハワイ諸島、東はイースター島、西はマダガスカル島に到達します。
 私なりの補足を加えますと、紀元前2700年頃に大坌坑文化が終焉を迎えます。大坌坑文化には養豚が含まれていなかったにもかかわらず全域に養豚が広まっているということは、台湾からフィリピンに移動を行ったあとも台湾からの移動、或いは往来が続いていたことを示しています。以下の言語学的分析で明らかになる稲作も同様に、フィリピンへの最初の移住の後に加わった要素と考えられます。

3.言葉が変化する時間から

陶製酒器 オーストロネシア語は4つのグループに分けられますが、上記の地域で話されているのは全てマライポリネシア語グループに属し、差が小さいのです。残る3グループは、全て台湾の先住民だけで話されます。即ち、「オーストロネシア語が数千年にわたって話されていて、言語的に分岐するのに充分な時間があった場所は台湾であり、そこがオーストロネシア語がもともと話されていた場所であることを示唆している。だとすれば、マダガスカル島からイースター島までをカバーする範囲に分布しているオーストロネシア語ファミリーの言語は、すべて台湾から広がりはじめた人間集団の拡散がもたらしたものであろう。」(ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」第17章)

4.祖語の共通性から
 オーストロネシア語の祖語の語形は台湾語(台湾先住民の言語)、フィリピン語、インドネシア語、ポリネシア語など現在話されている言語の比較によって推定できます。豚、犬、米、航海、腕木付きのカヌーは共通の祖語が推定でき、これによって移動して行った人々は豚と犬を飼い、米を栽培し、カヌーで航海していたことがわかります。

5.母国

 文化と交流の流れから、オーストロネシア語を話す人々の母国は台湾の対岸の中国大陸南部と推測されます。「オーストロネシア語を話す集団が、その集団の発祥地と推測される中国南部の沿岸地域にまったく現存しないのは、おそらく、その地域で使われていたオーストロネシア語も、中国北部から南下してきたシナ=チベット語を話す人びとによって、他の何百もの古代中国語と同じように駆逐されてしまったからであろう。」(ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」第17章)

6.夏人

動物紋飾板 4千2百年前、北半球のどこかで大規模な火山噴火があり、灰が太陽光をさえぎりました。地球規模の寒冷化が起き、エジプトでは古王朝時代が終わります。中国では河北の龍山文化が滅びます。噴火から百年後、徐々に気温が回復するにつれ、牧草地帯も拡がり、華北に住む遊牧民の人口も増え始めました。そこにやってきた人々がいました。それが夏人です。
 夏人は南方から船に乗ってやってきて、商業都市を建設し交易を行い、やがて中国文明最初の王朝・夏を開きました。
「アラカン社長の徒然草」第15話 夏
http://www.sake-asaka.co.jp/blog/arakan/arakan022.html

 夏は紀元前1600年頃に滅亡しますが、約千年後、春秋時代の越国の人々は夏人の後裔と称していました。越人は航海に長けていました。越の都は会稽(現在の浙江省紹興市)。会稽山には夏王朝を開いた禹(う)の墓があります。浙江省といえば、7000年前に稲作を行っていた河姆渡(かぼと)遺跡があります。その河姆渡文化の影響が大坌坑文化や福建省の殻丘頭遺跡に及んでいることが解明されています。7000年も前から海上の交易ルートは開けていたのです。
 私は、黄河文明を創始した夏人は、東南アジアから中国沿岸にかけて交易を行っていた海の民と推測しました。更に、オーストロネシア語を話す人々だったのではないか、最近そのように考えています。

第31話終わり

写真1:陶製酒器
写真2:青銅製酒器
写真3:動物紋飾板
(写真は何れも河南省二里頭遺跡出土の夏王朝時代のもの。「日中国交正常化40周年特別展 中国王朝の至宝」2012年10月10日発行より)

2013年2月
  中谷酒造(株)代表取締役  中谷正人