第34話 梅から桜へ 【アラカン社長の徒然草vol.43】

お城祭りゲート 奈良時代の頃には、中国から梅の渡来とともに梅の花を鑑賞する文化も伝わり、この時代の代表的な花として万葉集にも梅が多く詠われたが、桜はそれほど好まれてはいなかった。平安時代に入ると、京都には自生の桜が多く、梅から桜へと人々の好みがかわり、貴族の間でも家に桜が植えられるようになった。

 弘仁3年(812)五二代嵯峨天皇が神泉苑で最初の観桜会を開き、以後、桜の植樹も都では盛んに行われるようになった。源頼朝や足利将軍なども花見を開いたが、とくに豊臣秀吉が主催した吉野や醍醐寺の大がかりな花見は過去にも類をみない規模で、その華やかさは庶民の間でも長く言い伝えられたほどだった。

 江戸時代に入ってからは八代将軍吉宗の桜への功績が大きく、桜の苗木を飛鳥山や隅田川堤、小金井堤に積極的に植えさせ、桜の名所を次々と誕生させた。また桜の木が多かった上野の寛永寺も花見の期間だけ境内を開放し、こぞって花見に出かける習慣が生まれ始めた。この頃の江戸っ子は男も女も着物をあつらえて着飾って出かけたので、1年でいちばん華やかな季節でもあったという。
(株式会社プレスメディア社運営サイト「桜便り」の「花見の歴史」より)

1.梅

 紀元前から長江下流域では梅の実を塩漬けにして梅酢を得ると共に、実を食することも行われてきました。梅は、長江下流域から水田稲作と共に日本に伝わった可能性が高そうです。今日、梅の実の利用は中国よりも日本の方が盛んかもしれません。
 梅花鑑賞の文化は、唐王朝の中国から、おそらく奈良時代に伝わりました。その時に鑑賞用の品種が持ち込まれたはずです。唐では梅花鑑賞が流行していたのでしょう。「ウメ」の発音は、中国語の「mei」が「ムメイ」、そして「ウメ」に変化したものです。

2.中国と花見

桜と堀 「花見」と言えば、満開の桜の下、あるいはそばで、花を愛でながら酒食を共にすることです。中国に桜はなく、春の花と言えば昔から桃と李(すもも)。加えて梅。鑑賞はしますが、「花見」はしません。これらの花が咲く時期はまだ寒く、屋外で食事をするという発想には到らないでしょうし、そもそも中国では屋外というか、野外で食事をする習慣はありません。欧米にもピクニックなど野外での食事の習慣がありますので、このあたり、中国は特殊と考えて良いかもしれません。

3.梅から桜へ

 寒さに耐えて花を開き、一早く春を告げる梅。梅花鑑賞は、先進国・唐のハイカラな文化として貴族の間で流行し、庭に梅が植えられました。寝殿で庭の梅花を眺めながら、酒食を共にするという習慣は自然に生まれてきたことでしょう。ただ、やはり寒い時期です。
 桜は梅より約一ヶ月後に咲きますので、暖かさを感じられる日も多く、心も緩やかにほころびます。やはり春を味わうなら桜の季節ということになったはずです。

4.道真と梅

満開の桜 平安時代に梅から桜への変化が始まりました。これを加速したのは、菅原道真の象徴が梅とされたことにあるのではないかと私は考えています。道真は、右大臣にまで登りつめますが太宰府に左遷され、失意の内に亡くなります。延喜3年(903)のことです。死後、天変地異が多発し、その原因が道真の祟(たた)りと考えられた為、道真は天神として祀られます。
 道真が京を去るとき詠んだ歌、「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ」。梅は「祟る道真」の象徴とされたのです。
 天神になった道真は、その後「学問の神」となり今日に至っています。天神を祀る天満宮は早春、梅花を愛でる人々で賑わいます。

第33話終わり

写真は、何れも郡山城址。3月30日撮影。
写真1:お城祭りゲート
写真2:桜と堀
写真3:満開の桜

2013年4月
  中谷酒造(株)代表取締役  中谷正人