第36話 藤ノ木古墳 【アラカン社長の徒然草vol.45】

藤ノ木古墳外観 5月4日、テレビで昼のニュースを見ていますとこの日、藤ノ木古墳の石室特別公開をしているそうです。この古墳は豪華な鞍が出土したことで有名です。連休中で会社は休み。焼きそばを作って食べた後、家内と見に行くことにしました。
 駐車場がないとのことで、電車。法隆寺駅は郡山駅から二つめです。駅前を出て県道5号を北へ1キロ。かつての竜田越奈良街道(たつたごえならかいどう)、今は並松(なんまつ)商店街というちょっと寂れた通りになっていますが、そこを西へ200メートル。松並木の法隆寺参道を北へ400メートルで法隆寺南大門。門をくぐって境内を横切り西大門を出ますと、目の前が西に向かって集落を貫く細い道です。道の両側は塀を巡らし土蔵のある大きな家が何軒か残っており、かつての繁栄がしのばれます。200メートルで集落は途切れ視界が広がります。南西方向の水田の中に、緑の草に覆われた直径50メートルほどの丘が見えます。藤ノ木古墳です。

1.見学前

愛嬌をふりまくパゴちゃん 古墳の脇にはテントが張られ、斑鳩(いかるが)町職員や中高生のボランティアの皆さんが見学希望者をさばいています。整理券をもらって椅子列の最後尾に座ります。一度に十五人ほどが案内され石室に入っていきます。順に移動して前の椅子に座り替え、これを繰り返します。待ち時間がそこそこありそうですので発掘調査費の寄付を千円。家内は小袋で販売していた黒米を購入。
 見学者を飽きさせないように、斑鳩町のゆるキャラが愛想を振りまいてくれます。このキャラ、柿の実に目が付いています。私は「かきおくん」と勝手に呼んでいましたが、帰宅してから「パゴちゃん」という愛称であることを知りました。そういえば柿のてっぺんに仏塔が生えています。「パゴ」は「パゴダ」(仏塔)の略に違いありません。

2.石室

棺説明パネル 待つこと30分、我々の番です。石室の中は湿気た土の臭いに加え、経験のないカビ臭が混じっています。7メートルの羨道(せんどう)を進むと玄室(げんしつ)。玄室は奥行き6メートル、幅3メートル、高さは4メートルくらい。一番奥に少し朱が残った石棺が置かれています。
 盗掘されていないこと、有名になった馬具は玄室の奥に置かれていたこと、最も大きい天井石は50トンと推定されることなど、説明を受けました。
 死者が埋葬された空間が作る独特の空気のせいでしょうか、見学者は重苦しい表情で古墳を後にします。

3.被葬者

 埋葬時期は6世紀第4四半期と推定されています。この時期は後期古墳時代の終わりに近く、それほど大きな古墳が造られなくなった時代です。この規模とてかなりの地位の人物が埋葬されたことでしょう。被葬者は二人。
 日本書紀の記述と照らし合わせて、北側の被葬者を穴穂部皇子(あなほべのみこ)、南側は宅部皇子(やかべのみこ)とする学者が多いようです。用明天皇2年(587)6月、蘇我馬子は物部氏に近かった穴穂部皇子と宅部皇子を殺し、翌月物部守屋を殺して物部氏を没落させたことになっています。
 夫婦ならいざしらず、男二人を同じ棺に入れるなど通常あり得ません。南側の被葬者は男女判別に役立つ腰骨も頭蓋骨も溶けてしまっており、判断は下せません。残っている足首とかかとの骨を計ったところ、北側の男性より大きかったので「男性である確立は極めて高い」ということになり、こんな珍説が主流を占めることになったのです。
 南側の被葬者は足首と手首に玉(たま)飾りを付けていたことが解っています。考古学者の玉城一枝氏は「女性を視野に入れて考えるべき」と主張しています。

4.その時代

 時代背景を見てみましょう。「物部」を豪族の名としては「もののべ」、天皇の形容詞としては「もののふ」と読み分けた国学者の間違いに私は気付きました。古事記、日本書紀は先進国中国にならって漢文で書かれています。その当時の中国では皇帝に使う漢字は遠慮して使用を避ける習慣があったことから、「物部」氏は5世紀の応神天皇に始まる天皇家そのものであったことに思い至りました。物部王朝は衰退し、6世紀に越前出身の継体天皇が新たな王朝を開きます。継体天皇は蘇我氏初代の天皇です。
第24話「物部氏と百済」http://www.sake-asaka.co.jp/blog/arakan/arakan032.html
 継体天皇は507年、樟葉宮(くずはのみや。大阪府枚方市)で天皇に即位しますが、大和に都を定めるまでに20年近くを要しています。蘇我氏の力は圧倒的なものではなかったのです。継体天皇は、物部氏最後から二番目の天皇(仁賢天皇)の娘と結婚し、血縁による融和策をとります。二人の間に生まれたのが欽明天皇。欽明天皇と蘇我小姉君の間に生まれたのが穴穂部皇子です。即ち、蘇我氏は王権を安定させる為に物部の血を入れたものの、その子には蘇我の娘を嫁がせ、物部の血を四分の一に薄めたのです。
 穴穂部皇子は皇位を狙う為に物部守屋と結んだと書かれています。物部の起死回生策とすれば穴穂部皇子に娘を嫁がせることを考えたはずです。子ができれば物部の血は八分の五に回復するからです。日本書紀には書かれていませんが、物部の娘を夫人にしていたのかもしれません。とすれば南側の被葬者は夫人です。

5.金銅の馬具

金堂製の鞍(斑鳩文化財センター) 藤ノ木古墳から南東、徒歩数分のところに斑鳩文化財センターがあります。藤ノ木古墳の出土品は橿原考古学研究所付属博物館に展示されていますが、ここには正確に複製されたレプリカが展示されています。斑鳩町が考古学ファンの為に平成22年(2010)に開設したものです。展示物の目玉はやはり馬具。
 「馬具は3組出土しており、金銅製のものは古代東アジアの馬具の中でも最も豪華な物の一つであるといわれている。
 金銅製鞍金具は、鞍の形が鮮卑式であり、パルメット(仏教式唐草模様)、鳳凰、龍、鬼面、怪魚、象、獅子、兎などのモチーフが使われている。鮮卑系国家北燕の首都があった中国遼寧省朝陽市付近で発掘された鞍金具に同様のモチーフを持つ例が見られるが、日本、新羅、百済、伽耶いずれでも他にはまだ同様の鞍の出土例がなく非常に珍しいものである。」(Wikipedia「藤ノ木古墳」)
 一見の価値があります。

第36話終わり

写真1:藤ノ木古墳外観
写真2:愛嬌をふりまくパゴちゃん
写真3:棺説明パネル
写真4:金堂製の鞍(斑鳩文化財センター)

2013年6月
  中谷酒造(株)代表取締役  中谷正人