第57話 「ヒューマン」より <前編> 【アラカン社長の徒然草vol.69】

 我々人類(ホモ・サピエンス)は、700万年前にチンパンジーなど類人猿から別れ、幾つも分岐しながら進化を続け、20万年前にアフリカで生まれました。そして6万年前にアフリカを旅立った一握りの人類が世界中に広がったことが遺伝子研究により解ってきました。最初は黒い肌であった人類が白い肌、そして黄色い肌を持つようになるのは各地に分布した後のことで、遺伝子レベルで言えばほとんど差はありません。
 アフリカを出た一握りの人類は、並行して進化してきたネアンデルタール人などを淘汰し今日に至ります。我々人類はなぜ生存競争に勝ち残ったのか、そんな疑問に答える好著を発見しました。NHKスペシャル取材班による「ヒューマン」(副題:なぜヒトは人間になれたのか)です。
 以下は同書を筆者なりにまとめたものです。引用は全てこの書物によります。段落と見出しは、書物とは関係なく筆者が割り振ったものです。

1.ブロンボス洞窟

アフリカ遺跡地図 南アフリカのブロンボス洞窟では、10万年前の地層から表面を削り取ったことが明らかな酸化鉄の石が発見されました。7万5千年前の地層から片面にだけ線刻が施された酸化鉄の石、彫刻された骨、人工的に穴を空けた貝殻のビーズが発見されています。貝殻のビーズには酸化鉄の赤い粉が付着しています。赤い粉を体に塗る装飾やビーズのネックレスの使用が推測されます。赤い色やネックレスは何らかの象徴であったはずです。
 「象徴的な思考は人間を飛び抜けて進化させた能力であり、文明を築き上げる原動力ともいえるだろう。その能力の片鱗を示す証拠が、10万年前というホモ・サピエンス黎明期の遺跡から見つかったのだ。
 そう、ブロンボス洞窟が聖地とされるのは、ここが、象徴的な思考というホモ・サピエンスの独自性が大きく飛躍していたことを示すもっとも古い遺跡だからなのだ。
 私たちと同じ現生人類であるホモ・サピエンスは、約20万年前のアフリカで生まれたと考えられている。しかし、そのときの祖先がすでに私たちと同じ心を持っていた可能性は低い。多くの専門家は20万年のあいだに、徐々に”心の形”を整えてきたに違いないと考えている。」
 象徴を理解し共有する為に言葉は不可欠です。我々人類は10万年前には既に言語を持っていました

2.分かち合う心

 アフリカ南部、今なお狩猟採集生活を続けているサンの人たち(通称ブッシュマン)。彼らは同族の絆を確かめ合う手段としてビーズの首飾りを贈り合います。それは食料を分かち合う仲間であることを象徴するものです。分かち合いは飢饉の時には隣の村や集団との間でも行われます。それに備えて平時から首飾りの交換や贈り物の交換が行われます。
 サンの世界的な権威であるトロント大学名誉教授のリチャード・リー博士は言います。「私は分かち合うことが人間を人間たらしめている基本的な行動のひとつだと思います。(中略)人口の半分が食料を分かち合い、後の半分が食料を貯め込むとします。前者の生存の可能性は後者よりも、ずっと高くなります。それゆえ、分かち合って生きることは自然淘汰の一例だと思うのです。」
 分かち合う心は、人類の祖先が森から草原に進出し食料確保の協力をする必要があったこと、二足歩行に伴う体型変化で出産と子育てに協力が必要になったことから生まれたと考えられています。親が幼児に物をやると幼児はお返しをしてくれます。分かち合う心は我々の本性に組み込まれているのです。

3.マラウイ湖

 アフリカ南東部のマラウイ湖の堆積物から50万年間の気候変動を知ることができます。干魃は10万年と2万年の周期で起きており、それらが重なると湖が干上がるほどの極端な干魃が起きていることが解りました。全貌は解明されていませんが、直近では約15万年前から7万5千年前が極端な干魃の時期でした。
 人類への進化の始まりは森から草原への進出が契機でした。その背景には干魃による森の消滅があったはずです。それ以降も人類は過酷な環境変化にさいなまれ続けてきたのです。

4.トバ火山

 7万4千年前、インドネシアのスマトラ島のトバ火山が巨大な噴火を起こします。日光はたちまち遮断され世界のほとんどの地域が数日の内に氷点下になり、それが10年間続きました。我々人類は赤道近くに居た者だけが生き延びたはずです。赤道直下、ケニアのナイバシャ湖周辺の遺跡から、トバ火山噴火後に黒曜石の交易範囲が広がっていることが解ります。生き延びた人々は他の集団との間で互いに不足する物を交換しながら生活を続けたことを意味します。ここでも分かち合う心が生存の役に立ったのです。

5.カルメル山

 イスラエル北部、地中海に近いカルメル山の洞窟群。そのスフール洞窟に埋葬された7体の人骨は11万5千年前から7万5千年前のものでした。酸化鉄の赤い石、首飾りも発掘されました。我々人類は我々の直接の祖先が果たした6万年前の「出(しゅつ)アフリカ」以前にもアフリカを出て外に広がっていたのです。彼らはトバ火山の噴火に伴う気候寒冷化で死に絶えたのでしょう。
 我々人類と共通の祖先から別れたネアンデルタール人は我々より先にアフリカを出てヨーロッパの寒冷な気候に適応しました。ネアンデルタール人は体温を保ちやすくするため頑丈な骨格になり、皮膚も白く変化していました。ネアンデルタール人は我々人類が居なくなった後もカルメル山の洞窟に住んでいました。

6.投擲具の発明

 カルメル山洞窟群のエル・ワド洞窟には4万年前から1万年前まで我々人類が住んでいました。我々の直接の祖先が6万年前にアフリカを出てここに住み着いたのです。ネアンデルタール人は4万5千年前を最後にこの地域から居なくなりました。我々はネアンデルタール人に取って代わったのです。
 ネアンデルタール人が住み続けられないところに我々は住むことができました。その最大の理由は新しい発明にありました。「投擲具」(とうてきぐ)です。長さ40センチほどの木の棒の先端にフックを取り付けたもの。軽く細長い槍を「棒のフックに引っかけ、棒を投げるように前に振り出し、的に向けて槍を飛ば」すのです。「梃子の作用で、かなり遠くまで素早く飛ばすことができます。威力も増します。ウサギなど小さくて動きの速い動物も、これなら仕留めることができるわけです。」エル・ワド洞窟から出土する動物の骨の50〜60%がキツネ、ウサギ、ヤマウズラといった小動物です。
 「体格を生かして、大きな動物ばかり捕っていたネアンデルタール人に対し、祖先たちは投擲具を使って、獲物の種類を増やしたのです。シカがいなければウサギ、ウサギがいなければ魚と、安定して食料を確保できるようになったのです。この道具こそ、人類成功のカギでした」(ストーニー・ブルック大学ジョン・シェイ博士)。
 投擲具は、フランス南西部アキテーヌ地方で1万9千年前のものが発見されています。オーストラリアのアボリジニは数十年前まで使っていました。北アメリカでも数百年前まで使われ、その化石が見つかっています。
 アフリカ、ヨーロッパ、アジアなどではおよそ1万2千年前頃から弓矢が投擲具に取って代わります。

7.大型動物の絶滅

 オーストラリアの先住民・アボリジニは我々の祖先と違う遺伝子を持っていることがわかりました。6万年前の「出アフリカ」以前にアフリカを出た一派がトバ火山噴火後の寒冷化を生き延びた可能性が出てきました。
 そのアボリジニが残した壁画には巨大なカンガルー、バクやカバに似た動物、鋭い歯をもつネコのような動物など、既に絶滅した動物が描かれています。
「人間がやってくる前のオーストラリアには、捕食動物は2,3種類しかいませんでした。フクロライオン、メガラニア、フクロオオカミなどです。人間が行う投擲具を使った狩りと、頻繁な野焼きは、オーストラリアの動物にとって、これまで経験したことのない異質なものでした。突然の出来事に、大型動物たちはなす術もなく絶滅していったのです」(フリンダーズ大学ゲビン・ブリドー博士)
 アメリカ大陸でもマンモス、巨大ナマケモノ、巨大アルマジロなど大型動物の77%が絶滅しました。ヨーロッパでも大型動物の63%が絶滅しました。「私たちはものすごいインパクトを自然に与える存在なのである。」

8.ネアンデルタール人の絶滅

 イラクのシャニダール遺跡から発掘されたネアンデルタール人の骨の傷は、投擲具を使って投げられた槍によると考えられています。これは我々人類に殺された可能性を示唆します。
 フランス南西部のル・ロイ遺跡は我々人類の生活跡です。そこから人食いの証拠となる鋭利な刃物傷がついたネアンデルタール人の骨が発見されています。我々人類(ホモ・サピエンス)、ネアンデルタール人共に人食いの習慣があったようですが、我々がネアンデルタール人を食べた可能性があります。
 ドイツのマックス・プランク研究所などの国際共同チームの解析によりますと、アフリカ以外の人はゲノム配列の1〜4%が、ネアンデルタール人と共通していることが解りました。即ち、混血があったということです。
 「広いネットワークをつくり、アイデアを共有して危機に対応する。これがホモ・サピエンスが生き残りに成功した、主な理由だと思います。団結できるホモ・サピエンスの集団が、小さなネアンデルタール人のコミュニティをひとつひとつ消滅させていったのです。」「ネアンデルタール人も、気候の異変に対応はしました。でも、それは単にいい環境への避難でしかなかったのです。一方、ホモ・サピエンスは針を使って防寒着を縫い、ギリギリの場所まで生息域を広げていくことができたのです」(ボルドー大学フランチェスコ・デリコ博士)

9.原人の絶滅

ヨーロッパ遺跡地図 フロリダ自然史博物館のデビッド・リード博士は、現在の世界各地のヒトに寄生するシラミのDNAを分析しました。シラミには三系統あり、Aの系統は出アフリカのタイミングで個体数が急増していることから我々人類固有のものと推測できます。Bは60〜50万年前に分かれたものでネアンデルタール人固有のもの、Cは160万年前に分かれたものでホモ・エレクトス(原人)のものと考えられます。
 ヒトに寄生するシラミは他の動物に寄生することはなく、宿主を離れると24時間以内に死にます。我々がBとCを持つということは、同じ時期に同じ場所で生活していたことを意味します。先に出アフリカを果たしたホモ・エレクトスはジャワ原人や北京原人に進化を遂げ、気候変動など環境変化を乗り越えながら我々人類が到達するまで生き延びていたのです。事実、インドネシアのフローレス島で1万2千年前の原人の骨が発見されています。
 「ネアンデルタール人にしろ、ホモ・エレクトスにしろ、私たちが彼らを直接攻撃したという決定的証拠はない。しかし同じ食料をめぐって、私たちが彼らと競争関係にあったことは間違いないだろう。そして、飛び道具をもつことによって狩猟能力を格段に飛躍させ、巨大な集団のネットワークを維持できるようになった私たちの存在は、ほかの人類との共存を選択することはなく、彼らを絶滅に至らしめたのだ。」

10.芸術の開花
 フランス南部のショーヴェ洞窟の壁画は3万7千年前、人類最古の壁画といわれます。その西200キロのアキテーヌ地方にはラスコー洞窟始め何十箇所もの壁画が発見されています。更に西400キロ、スペイン北部のアルタミラ洞窟にも同時期の壁画があります。
 フランスのアキテーヌ地方を中心とした地域一帯では「芸術や文化の”爆発”が起きた。壁画以外にも鳥の骨でつくったフルート(3万2千年前)、マンモスの骨でつくったヴィーナス像(2万5千年前)、服を縫うのに使った小さな針(2万5千年前)などの遺跡が見つかっている。」
 「人類史でいつ芸術が出現したかということは、あまり重要ではありません。アフリカで生まれた祖先たちは、いつでも芸術や文化、技術を生み出す能力をもっていました。南アフリカのブロンボス洞窟で暮らしていた人でも同じです。重要なことは、コミニュケーションを取り合う集団の大きさでした。アキテーヌ地方やスペイン北部は気候変動によって人口が集中しました。つまり集団のサイズが実質的に大きくなったのと同じです。人数が多くなれば、より多くの発明が出てきます。このような条件があったからこそ、芸術が生まれた可能性が大きいのです。ヨーロッパのほかの地域で絵画や芸術が出てくるのが遅れたのは、偶然、集団ネットワークが大きくなるタイミングが遅れたからなのです」(フランス国立科学院ジャン・ミシェル・ボケアベル博士)
 ここにも「集団ネットワーク」という言葉が出てきました。我々人類には「分かち合う心」が深く組み込まれており、「集団ネットワーク」を作れたことで「アイデアを共有し」、投擲具を広め、衣服を工夫し、環境変化を乗り越え、生存競争に勝ち残り、芸術を開花させることができたのです。

第57話<後編>へ続く

地図1:アフリカ遺跡地図
地図2:ヨーロッパ遺跡地図

2015年6月
  中谷酒造(株)代表取締役  中谷正人