第69話 宇佐八幡<前編>【アラカン社長の徒然草vol.83】

誉田八幡宮南大門 10年前の夏、大分県に宇佐八幡(うさはちまん)を訪ねました。
 宇佐八幡は通称で、江戸時代までの正式名称は宇佐八幡宮弥勒寺(うさはちまんぐうみろくじ)。明治初年の廃仏毀釈後、神仏分離により明治4年(1871年)に宇佐神宮(うさじんぐう)として再スタートしました。
 宇佐八幡には謎が多く、多くの研究者を悩ませてきました。例えば次の通りです。

・主神の八幡神(はちまんしん)は、歴史時代に突然出現した神であること。
 欽明天皇32年(571年)に宇佐の地に現れました。

・当初から権威が高かったこと。
 社殿が整ってわずか25年後の天平19年(747年)、国運を賭けた大事業・東大寺大仏建立にあたり成就祈願がなされ、その二年後同社の八幡神を東大寺境内に分祀しました。

・皇位継承の判断を求められる程の権威を持っていたこと。
 神護景雲3年(769年)には僧道鏡(どうきょう)による皇位継承の可否を同社の神託(占い)に委ねました。

・主神の本殿が中央ではないこと。
 同社は八幡神以外に二神を祀ります。三つ並ぶ本殿の端が八幡神です。

 私は十年前に同社について文章を書きました。今読み返してみると、この十年に私が得た知識でかなりの謎が解けることが解りました。八幡神について四回に分けて論じます。前編では八幡神の誕生、中編では八幡神の役割を解明し、後編では発展と比売神の正体、完結編で神功皇后の祭祀と八幡神の変貌、廃仏毀釈、今日の姿を語ることにしましょう。

1.八幡神と応神天皇

誉田八幡宮本殿 八幡神は応神(おうじん)天皇の神霊とされています。
 応神天皇は5世紀に始まる新しい王朝の創始者です。初めてこんなことを聞いた方は驚かれるかもしれませんが、天皇家は万世一系ではなく、出雲王朝を滅ぼして大和国に最初にできた王朝から二回、王の系統が替わっているのです。
 出雲王朝を滅ぼして最初にできた王朝を私は崇神(すじん)王朝と呼んでいます。崇神は、日本書紀に書かれた実質上の初代天皇です。崇神天皇は、いわゆる神武東征(じんむとうせい)によって3世紀半ばに北九州から大和国に入り、出雲系王朝を滅ぼしました。崇神王朝は栄え、桜井市を中心に日本最初の前方後円墳群を残しました。しかし4世紀末の仲哀(ちゅうあい)天皇の代に二番目の王朝である応神天皇に滅ぼされます。
 王朝が替わった事はその前後で古墳の規模や副葬品が一変することで解ります。生活レベルでも大規模な灌漑土木工事が行われたり、土師器(はじき)と呼ばれる高温で焼かれた灰色の土器の使用が始まったり、大きな変化が見られました。
 八幡神とされる応神天皇は日本書紀によれば15代天皇です。応神もやはり北九州から東征して大和国に入りましたが、最大の特徴は秦氏(はたし)と呼ばれる中国系帰化人と共にやってきたことです。

2.秦氏

 秦氏とは、中国最初の統一王朝・秦(しん。前221〜前206年)の時代、朝鮮半島南東部に移住した中国人集団で、4世紀の新羅(しんら)建国に伴い朝鮮半島南西部の百済(くだら)経由で九州、そして大和に移住してきたものです。秦氏は、機(はた)織り、畑(はた)作に優れていました。それ以外にも金属加工、治水、土木、建築、商業、窯業、醸造他、多くの分野で高度な技術と知識を持ち、それらを文化と共に日本にもたらしました。
 その秦氏を率いて大和国に入った応神天皇自身が秦氏であったと私は考えています。豊富な鉄と高度な技術を背景に日本を支配する勢力になったのです。

3.秦氏の王・応神天皇

 応神天皇が秦氏であったという理由は以下の二つです。
 日本書紀に記載されている応神天皇のおくり名(本名ではなく、死後おくられた名。天皇の本名は記録されない)は「誉田別」(ホムタワケ、或いはホンダワケ)。「ワケ」はこの頃の天皇の敬称のようです。先ずはこれを検証しましょう。
 応神天皇が開いた王朝の天皇の一覧を以下に記します。左側の天皇名は奈良時代後期から使用される漢字表記のおくり名、右が日本書紀のおくり名を片仮名にしたものです。天皇の呼称を実際に使い始めたのは第40代天武(てんむ)天皇(在位673-686年)ですが、それ以前の大王(おおきみ)にも「天皇」を使うのが慣例です。

 15代 応神天皇 ホムタ「ワケ」
 16代 仁徳天皇 オホサザキ
 17代 履中天皇 イザホ「ワケ」
 18代 反正天皇 ミズハ「ワケ」
 19代 允恭天皇 オアサヅマ「ワク」ゴ
 20代 安康天皇 アナホ
 21代 雄略天皇 「ワカ」タケル
 22代 清寧天皇 シラカ
 23代 顕宗天皇 「ヲケ」
 24代 仁賢天皇 「オケ」
 25代 武烈天皇 「ワカ」サザキ

 この内、中国の歴史書で実在が確認できるのは5人だけで、半分は日本の歴史を長く見せるために古事記、日本書紀編纂時に水増しされた架空の天皇です。日本書紀の編者がこの王朝の天皇のおくり名を決めるにあたって、「ワケ」を天皇の敬称として使ったことは間違いなさそうです(「ヲケ」のヲはワ行であり「ワケ」とほぼ同音。「オケ」もそれにならい同音。「ワク」と「ワカ」は後ろに名詞が来るため語尾が変化したと思われる)。
 では、「ホムタ」は何を意味するのか。現代の日本語の発声は一音ずつ明快ですが、古代は口にこもった発声でした。私の祖父もそうでしたが、今でも奈良県や三重県にはそんな発声方法の人がいます。神主が祝詞(のりと)を上げる時や能、狂言にも口にこもった発声が残っています。「ホムタ」は「ハタ」の古代の発音です。ホムタワケとは、秦大王、即ち秦氏の王を意味するのです。
 もう一つの理由。中国の歴史書・隋書東夷倭国には、倭(わ。日本の蔑称)を「秦王国」と書いているのです。中国の秦(しん)王朝の時代に朝鮮半島に移住した「秦人」(しんじん)を称する中国人の後裔が建てた国であることを意味しています。

4.応神天皇陵

誉田八幡宮から見る応神天皇陵 八幡(はちまん)の訓読みは「やはた」。「や」は多いという意味。「はた」は秦氏の「はた」。応神天皇は秦氏の王であり、八幡神が応神天皇と結びつくのですから、八幡神とは八秦「別」神(やはたワケのかみ)。「何代も続く歴代秦氏の王の神」ということになるはずです。以下、順に見て行きましょう。
 八幡神が初めて登場するのは欽明天皇20年(559年)のことです。場所は大分県宇佐市ではありません。大阪府羽曳野市の応神天皇陵の南に隣接する一画。
 応神天皇陵と呼ばれるのは明治時代に国が応神天皇陵と決めたからで、実際に応神天皇の墓かどうかは不明です。そのため学者は誉田山(こんだやま)古墳と呼びます。宮内庁は天皇陵を管理し、調査や立ち入りをほぼ全面的に禁じていますので、誰の墓か特定することは不可能です。しかしこの古墳が応神天皇墓であることは間違いないと私は考えています。
 第一の理由は、古墳が造られた時期が5世紀初頭と推定されており、応神天皇の活躍時期と一致すること(この頃の天皇陵は巨大で、生前から準備されたと推測)。
 第二の理由は、応神天皇を象徴とする八幡神が祀られたこと。
 第三の理由は、八幡神が祀られたのは古墳が造られてからたかだか150年後であり、応神天皇墓との記録が残っていたと推測できること。
 第四の理由は、日本最大の古墳の一つであること(体積が日本一。いわゆる仁徳天皇陵は全長が日本一)。新王朝の始祖の墓としてふさわしい規模と考えられます。

5.八幡神の誕生

 応神天皇陵にほぼ隣接する誉田八幡宮(こんだはちまんぐう。羽曳野市誉田3丁目)。その社伝によれば、任那(みまな。朝鮮半島南部の日本領)の復興を目指した欽明天皇によって同社の前身となる神廟がここに建てられたとしています。
 唐突な神の誕生ですが、その理由は推測可能です。日本書紀によれば応神天皇の時代、日本は朝鮮半島南部を支配しており新羅を牽制して秦氏を無事に日本に渡来させました。その応神天皇を祀り、その神力に頼って任那を取り戻し、更に日本(倭)と親密な関係にある百済を支援しようとしたのです。
 西暦414年に建てられた高句麗の広開土王碑に書かれたように、歴史上も応神天皇の時代の日本は朝鮮半島南部の百済、新羅を従え、半島北部の高句麗(こうくり)とも戦いました。
 人の心情として、困った時にはたくさんの人に助けを求めがちです。八百万(やおよろず)の神と言いますが、日本には数え切れないほどの神が居り、たくさんの神に頼みがちです。八幡神を初めて祀った欽明天皇は、応神天皇一人ではなく、「何代も続く歴代秦氏の王」に頼ろうと考えました。このことが八幡神の活躍の場を劇的に拡げることになります。

第69話<中編>に続く

写真1:誉田八幡宮南大門
写真2:誉田八幡宮本殿
写真3:誉田八幡宮から見る応神天皇陵

2016年8月
  中谷酒造(株)代表取締役  中谷正人