第69話 宇佐八幡<完結編>【アラカン社長の徒然草vol.86】

 <後編>では宇佐八幡の発展をたどり、比売神の正体を明らかにしました。<完結編>では神功皇后の祭祀と八幡神の変貌、廃仏毀釈、今日の姿までを追うことにしましょう。

19.神功皇后

 平安時代初期の823年には応神天皇の母・神功(じんぐう)皇后を加え、三神を祀る体制になります。
 後年書かれた延喜式(927年に完成)には八幡大菩薩宇佐大神、大帯姫神(おおたらしひめがみ)、姫神(ひめがみ)の三神が記載されています。大帯姫が神功皇后のことです。姫神は比売神。八幡大菩薩とは、神仏習合により八幡神が仏教の菩薩(ぼさつ)の一人とされたからです。
 その神功皇后。先の段落で「応神天皇は崇神王朝最後の仲哀天皇と神功皇后の間に生まれたとして王朝は続いていることになっています。」と書きました。神功皇后は王朝接続神話の為に創造された人物で、実在していません。八幡神と比売神が贈られた一品の品位も神功皇后にはありませんので、この点でも実在しなかったことは明白です。ではなぜ祀られたか、それが謎です。
 日本書紀によれば神功皇后は三韓(朝鮮半島)征伐を行うなど偉大な業績を残しました。ところが記載された神功皇后の陵墓は夫である仲哀天皇と同じとされ、特別な祭祀も行っていません。幾ら架空でも偉大な皇后、偉大な応神天皇の母としては扱いが粗末すぎます。それに気付いた天皇が居たのです。

20.嵯峨天皇

宇佐神宮菱形池(弥勒寺時代の蓮池) 神功皇后が宇佐に祀られた20年後の843年、陵墓(奈良市山陵町宮ノ谷)に雷のような山鳴りが二度あり、仲哀天皇墓と神功皇后墓を別けて管理するようになったと続日本後紀は記しています。怪奇現象は祟(たた)りを想起させます。
 神功皇后が宇佐に祀られた823年は嵯峨(さが)天皇が退位して上皇になった年。嵯峨上皇は842年に亡くなり、直後に起きた承和の変(じょうわのへん)で政権幹部が一掃されています。この間の経緯を見てみましょう。
 嵯峨天皇は809年に即位して52代天皇になりますが、退位して上皇になりたかったのです。奇妙に思われるかもしれませんが、当時は上皇の権力が天皇を上回っていたからです。ところが問題がありました。51代平城(へいぜい)天皇も上皇になっており健在だったことです。おまけに数年続いた干魃で財政が困窮しており、天皇に加えて二人の上皇を維持するには経済的な問題もあります。実力者の右大臣藤原冬嗣(ふゆつぐ)も反対しました。
 こんな八方ふさがりの状況下、嵯峨天皇が宇佐八幡に思い当たるのは自然な流れです。宇佐八幡の神託は絶対的な力を持ちます。次期天皇を決める神託さえ出れば自分は上皇になれます。宇佐八幡に相応の寄進をすれば、引換に神託を出してくれます。寄進の名目に使ったのが神功皇后を神として祀ることではなかったか、私はそう考えます。嵯峨が上皇になった翌年、平城上皇も亡くなり、嵯峨上皇は絶大な権力を握りました。
 19年後、嵯峨上皇が亡くなった直後、仁明(にんみょう)天皇と藤原良房(よしふさ)によるクーデターが起き宮廷の主要人物がほぼ全員失脚します。その翌年、神功皇后墓で怪奇現象が起きます。神功皇后と言えば嵯峨天皇が宇佐八幡に祀った神です。嵯峨上皇の祟りに違いないとおののき、神功皇后墓を別に定めて慰霊した、という流れです。

21.八幡神の変質

 宇佐では神功皇后を加えたことにより、八幡神に重大な変化が生じます。八幡神は、秦氏歴代の王を祀るもので応神天皇はその象徴に過ぎなかったものが、神功と応神の母子関係が意識されるようになり、応神天皇そのものを意味するようになっていくのです。

22.神仏習合

臼杵石仏その1 聖武天皇は、藤原四兄弟が病死した翌年に境内に弥勒寺(みろくじ)を建立しましたが、実は宇佐八幡に「御殿を造立」と時を同じくして近くに弥勒菩薩を祀る仏教寺院を建てており、これを移したのです。
 仏教公伝から二百年。仏教は定着し、日本の神は仏教に組み込まれていきます。これを神仏習合と言いますが、宇佐八幡宮では日本で最も早い時期にそれが始まりました。八幡神は奈良時代の終わりに「護国霊験威力神通大菩薩」そして「大自在王菩薩」の名を朝廷から得、八幡神は八幡大菩薩になります。弥勒寺という名称が示すように弥勒菩薩の守護神として八幡神を位置づけていたはずです。
 平安時代後期になると、1052年から末法(仏の教えが行われなくなるこの世の終わり)が始まるとする末法思想が流行し、阿弥陀如来信仰が空前のブームを迎えます。現世は末法でも死後は阿弥陀如来が救済してくれるからです。このブームが八幡神の性格を一変させます。

23.阿弥陀信仰

臼杵石仏その2 本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)と言いますが、おおもとは仏教の仏(如来や菩薩)であり、仏が庶民を救うために神の姿でこの世に現れたとする考えが平安時代に広まります。そして12世紀頃から神の正体とされる仏(本地仏)をそれぞれの神について定めるようになります。
 阿弥陀信仰のブームで仏教は庶民のものになりつつあり、多くの信者を集めれば集めるほど寺院の収益は上がります。人気のある仏は争奪の対象になったはずです。八幡神は、皇室の祖先神であるという優位性のおかげか、一番人気の阿弥陀如来を本地仏にすることができました。
 その結果、宇佐八幡は天皇家のみならず阿弥陀如来の御利益を求める多くの人々の信仰を集めました。多くの土地が寄進され、豊前国最大の荘園領主になります。宇佐八幡とは言うものの、その実体は阿弥陀如来を祀る弥勒寺です。三神を祀る本殿は敷地の一番奥、南の高台。境内の中心には仏塔、金堂、講堂その他の建物が建ち、それを回廊が取り囲んでいました。八幡大菩薩は大弐堂本尊の阿弥陀如来立像として祀られました。
 大分市郊外や臼杵には、平安末期から鎌倉時代に作られた多くの磨崖仏が残ります。主として阿弥陀如来信仰によるものです。こうして本来の八幡神は忘れられました。

24.廃仏毀釈と神仏分離

宇佐神宮上宮(中に三つの本殿) 宇佐八幡宮弥勒寺では、明治初年の廃仏毀釈により「弥勒寺」を根こそぎ破棄しました。
 大弐堂本尊の阿弥陀如来立像と講堂本尊の弥勒仏坐像は極楽寺(宇佐市南宇佐2176)に、金堂本尊の薬師如来像は大善寺(宇佐市南宇佐2801)に移されて難を逃れました。
 残された仁王像は宇佐神宮の宝物館に移され、「日本最初の神仏習合」の証として展示されています。
 境内の南の高台にある三棟の本殿は幕末に建て替えたばかりでしたのでそのまま使うことができました。
 明治4年(1861年)、宇佐八幡宮弥勒寺を宇佐神宮と改名しました。主神を八幡大菩薩から応神天皇に変え、社名から「八幡」の文字も消したのです。「八幡大菩薩」イコール「阿弥陀如来」の時代が長すぎ、通称の「八幡さん」が「阿弥陀如来」と受け取られるのをおそれたためと思われます。因みに現在の同社では「一之御殿 八幡大神 [誉田別尊(応神天皇)]」と八幡神を明示し、八幡大菩薩と崇められたことも認めています。
 同社では、「八幡神は応神天皇のご神霊で、比売神を祀っていた山に降り立った」とします。比売神は八幡神を受容した神という高い位置づけになり、中央の本殿に祀られる理由にもなりそうです。
 因みに同社の本殿(神殿)の配置は参拝者から見て次のようになっています。

 (一之御殿)八幡神 (二之御殿)比売神 (三之御殿)神功皇后

 比売神が中央にあるのはよしとして、八幡神が主神とすれば、左上位(参拝者から見て右が上位)の原則から外れます。その理由について、弥勒寺があった時は北から山門をくぐって弥勒寺境内に入り阿弥陀如来参拝の続きに寺側(北側)から拝んだものを、廃仏毀釈で弥勒寺がなくなってからは裏側(南側)から拝ませるように参拝経路を変えたのではないかと私は考えています。

第69話終わり

写真1:宇佐神宮菱形池(弥勒寺時代の蓮池)
写真2:臼杵石仏その1
写真3:臼杵石仏その2
写真4:宇佐神宮上宮(中に三つの本殿)

2016年11月
  中谷酒造(株)代表取締役  中谷正人