「物部」は天皇の形容詞だった!<古代史の謎は血縁関係で解ける>第十二章 吉備津宮
【アラカン社長の徒然草vol.110】

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読者の皆様へ:
 筆者が書き貯めた古代史に関する文章を書籍に見立て、2017年8月より毎月一回、一章の割合で2019年2月まで連載します。
 本メルマガで既に発表した文章を元にこの連載に合わせて再構成し、内容を修正、補充したものです。
 本連載のバックナンバーはVOL.94までとは別にファイルします。
*記紀に記された日本の固有名詞について。
表音に使った漢字が両書で異なることがありますので、読者の便宜のため基本的にカタカナで表記します。
*天皇名
奈良時代後期から使用される漢字表記のおくり名を使います。
*西暦年
西暦年表示を標準としています。括弧内に半角数字のみ書いたものは西暦年を示します。人名の後に二つの数字をハイフンで結んだものは生年と没年を示します。
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 井沢元彦氏が指摘されたように日本には古来より怨霊信仰があり、怨霊信仰を理解せずして日本史の解明はできません。例えば東大寺大仏建立は長屋王の祟りを鎮める為、平安遷都は長屋王の祟りから逃れる為に行われたことを井沢氏は解明しています。
 私は吉備津神社に参拝し、ここにも怨霊信仰が隠されていることに気付きました。3世紀の第3四半期に崇神王朝によって征服されたこの地の豪族が怨霊になり、三百年も後の6世紀末に鎮魂の仕組みが作られていたのです。

 岡山市北区にあるJR吉備津駅。南に目を向けますと、1km先の木々の間に立派な建物が垣間見えます。吉備津神社です。祭神は吉備津彦(きびつひこ)。3世紀第3四半期、奈良盆地東側の桜井の地、今の纏向遺跡に都を定めた崇神天皇(10代すじん)が諸国平定の為に派遣した四将軍の一人です。
 石段を登って一つめの門をくぐり、更に石段を登って二つめの門・割拝殿をくぐると目の前が拝殿です。この拝殿は本殿と一体化した構造で、六百年前に足利義満が建てたものです。
 崇神天皇が桜井に都を定めた頃といえば吉備には大きな独自勢力があったことが解っています。吉備の人達が自分たちの王ではなく、自分たちを征服した人を、かくも盛大に祀るものでしょうか。同様に大きな勢力を持った出雲には出雲大社があり、出雲の王であり神でもある大国主(おおくにぬし)を祀っているのとは対照的です。崇神天皇が派遣した他の三将軍で、これほど立派に祀られている者もありません。この違和感は比翼入母屋造り(ひよくいりもやづくり)と呼ばれる独特の形をした巨大な本殿を見て更にふくらみました。
 もう一つの違和感は、直線距離にしてわずか1.5kmの場所に同じ吉備津彦を祀る吉備津彦神社があり、備前国一宮(いちのみや)として高い神格と規模を誇っていることです。吉備津神社と吉備津彦神社。同じ神を祀る立派な神社がどうして隣り合って存在しているのでしょう。

写真1:吉備津神社随神門から割拝殿を見上げる
写真2:吉備津神社拝殿
写真3:吉備津神社拝殿と本殿

1.桃太郎

 桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけた黍團子、一つわたしに下さいな。
 やりませう、やりませう、これから鬼の征伐に、ついて行くならやりませう。
 行きませう、行きませう、あなたについて何處までも、家來になって行きませう。
 そりや進め、そりや進め、一度に攻めて攻めやぶり、つぶしてしまへ、鬼が島。
 おもしろい、おもしろい、のこらず鬼を攻めふせて、分捕物をえんやらや。
 萬萬歳、萬萬歳、お伴の犬や猿雉子は、勇んで車をえんやらや。
                       (明治44年 文部省唱歌)

 桃は中国では不老長寿の象徴です。桃太郎の話は、桃を食べて若返った老夫婦の間に男児ができ、成長した児が鬼退治をして財宝を持ち帰るという筋書きです。「桃から生まれた」とするのは、明治20年に小学校教科書に載せられた内容です。
 桃太郎は鬼を退治します。岡山では、桃太郎は吉備津彦、鬼は温羅(うら)と伝わっています。

2.温羅伝説

 伝説によりますと、温羅は百済の王子で、吉備の国にやってきて総社市の鬼ノ城(きのじょう)に住み、吉備を治めていました。その悪行に困った人びとが都に訴えたところ、征伐するために吉備津彦が派遣されてきます。
 吉備津彦は山の上に石の楯を建てて陣を張りました。これが倉敷市矢部の楯築(たてつき)遺跡とされます。
 吉備津彦は、現在吉備津神社のある場所から矢を放ったところ、温羅が投げた石と空中でぶつかります。その矢の落ちた所が岡山市北区高塚の矢喰宮(やぐいのみや)とされます。
 吉備津彦が一度に2本の矢を放つと1本は温羅の左目に当たり、血が流れた川が総社市の血吸川(ちすいがわ)。温羅が鯉に変身して血吸川に逃げたところ、吉備津彦は鵜(う)に姿を変えて食いつきました。それが倉敷市矢部の鯉喰神社(こいくいじんじゃ)。
 温羅は吉備冠者(吉備王)の名を吉備津彦に捧げた後、首をはねられます。その首は何年経ってもうなり声を上げ続けましたが、ある夜吉備津彦の夢枕に温羅が立ち、「悪行の償いにこれからは釜をうならせて吉凶を占う」と言い、それが吉備津神社の鳴釜神事(なるかましんじ)の始まりといいます。
 吉備津彦は吉備を平定した後、吉備に土着し一生を終えました。吉備津彦は吉備津神社の裏山、それは吉備津彦神社の裏山でもあるのですが、そこに葬られました。中山茶臼山古墳です。宮内庁が管理しているため詳しい調査はできませんが、3世紀末から4世紀初頭の前方後円墳であることが判明しています。

写真4:吉備津彦を葬った中山茶臼山古墳

3.吉備の聖域

 総社市鬼城山(きのじょうざん)には古代の山城があります。遺跡は、城門4カ所を持つ30haの規模で、7世紀のものと推定する学者が多いのですが、3世紀に温羅の拠点が置かれていたことを否定するには至りません。この山城と吉備津彦が陣を構えた吉備津神社の中間点に矢喰宮があります。おそらくこのあたりで激闘が繰り広げられたのでしょう。
 温羅が追い詰められた鯉喰神社は矢喰宮の南東3.5km。この神社は南北30m、東西40mの、弥生時代末期(3世紀前半)としては巨大な古墳上に後世建てられたものです。
 鯉喰神社の南に隣接して南北1kmほどの丘があります。王墓山丘陵です。その北側の頂が吉備津彦が最初に陣を張った楯築遺跡です。遺跡上部には、楯状の石が環状に立てられています。住宅建設に伴う発掘で2世紀後半から3世紀頃に築かれた古墳であることが判明しています。直径50mの円墳の両側に突出部を持ち、宅地開発で突出部が削られた後でも全長72mに及ぶ弥生古墳としては傑出した規模です。その棺には30kgもの朱が用いられており、吉備地方の王かそれに準ずる人が葬られたと見られます。
 丘の南側、真宮神社の境内にも直径10mほどの環状列石があります。
 環状列石は何に使ったのか解りませんが、二つの環状列石と王クラスの者が葬られた二つの古墳。この丘は吉備の人びとにとって特別神聖な場所であったものと推測されます。吉備津彦には吉備人にとって重要な場所をいち早く押さえることで優位に立とうとする意図があったに違いありません。

写真5:鬼ノ城西門を見上げる
写真6:鬼ノ城西門と岡山平野
写真7:楯築遺跡環状列石

4.吉備津宮の創建

 吉備津神社の創建時期は、あいまいな三つの説があるのみです。もう一つの吉備津彦神社は吉備津彦が亡くなった住居跡に社(やしろ)を造ったとするのみで創建時期には触れていません。
 ところで、吉備津彦神社では「夏至には太陽が正面鳥居の真正面から昇り神殿の御鏡に入ることから『朝日の宮』とも呼ばれている」としています。この日同社では日の出祭を行います。同社を特色づける主要行事です。
 この地における夏至の日出は真東から北に29.6度です。それを延長したところに吉備津神社があります。私は地図を見て気付いたのですが、更にその延長線上に王墓山古墳があります。王墓山古墳は先に述べた聖なる丘の上に6世紀終わり頃に築かれた、古墳時代末期としては大きい直径約25mの古墳です。
 始点が決まらなければその延長線上の二点を決めることはできません。これらは一体を成すものとして作られたと考えられないでしょうか。始点となる王墓山古墳に謎を解く鍵がありそうです。

写真8:吉備津彦神社拝殿

5.鎮魂

 王墓山古墳は6世紀末に造られた25基ある王墓山古墳群の中で最大のものです。立派な石室、7枚の石で組まれた家形石棺、豊富な副葬品(東京国立博物館収蔵)。間違いなく特別な人の為に造られたものです。私は、温羅の霊を鎮めるために立派な墓を作ったと推測します。加えて温羅一族の為に24基の墓。そして夏至の朝日の昇る方向に向かって二つの社を建てたのです。
 温羅の死は3世紀第3四半期。三百年も経ってからなぜそのようなことをしたのでしょう。その秘密を解く鍵は平安時代末期、後白河法皇が編纂した歌謡集「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう)に載せられた歌にあります。
「一品聖霊吉備津宮、新宮、本宮、内の宮、隼人崎、北の南の神客人、艮みさきは恐ろしや」
 吉備津宮の分社であった艮御崎宮(うしとらみさきのみや)は、少なくとも平安時代にはたたる神として畏敬されていたのです。漢字は音(おん)が同じ場合は偏(へん)を省くことがあります。「艮」は「恨」に通じます。「うしとらみさきはおそろしや」は「恨み先は恐ろしや」とも読めそうです。
 温羅は降服して、王の地位を譲ったにもかかわらず首をはねられました。無残な死でした。一族も同様に殺されたのでしょう。無念な死を遂げた霊はたたります。吉備津神社で続く鳴釜神事は、温羅がその神意を示すものです。温羅を丁重に葬り、二つの社を建て、鳴釜神事で霊に神の役割を与えることで霊が納得すると考えたのです。

6.太陽の意味

 さて、夏至の太陽が昇る位置に何の意味があったのでしょう。聖なる丘の環状列石は太陽の位置観測に関係がありそうです。
 ところで、夏至に伊勢二見浦で見る日の出、いわゆる御来光は200km離れた富士山の背後から射し、そのシルエットを浮き上がらせます。富士(ふじ)は「不死」に通じ、古来聖なる山と考えられてきました。夏至の太陽は一年で一番高く昇ります。「日の出の勢い」という言葉があるように、太陽が生まれ出る時は一番力がみなぎります。夏至に富士から登る太陽が見える位置にあるからこそ夫婦岩(めおといわ)が特別な場所になったのでしょう。古代の日本人にとって、夏至の朝日には一年で最も強い太陽の力を受け取る、特別な意味があったに違いありません。
 では、吉備津彦を祀る社(やしろ)がなぜ二つ必要だったのか。私は二つの社を隔てる中山の存在に着目しました。吉備津彦神社に射す夏至の日出の光は、中山にさえぎられて吉備津神社には届きません。日の届く陽(よう)の世界は滞りなく平安に満たされ、日の届かない陰(いん)の世界は中山で遮断されるのです。中山には吉備津彦が葬られています。吉備津彦の霊力が温羅の霊を閉じ込めるのに役立ちます。
 こうして見ますと二つの社の役割は明確になります。吉備津神社は、表向きは吉備津彦を祀るものの、主たる目的は鳴釜神事により温羅の霊に居場所と役割を与え、そこに留め置くための施設です。吉備津彦神社は温羅の霊が出てこないように守ってくれる吉備津彦の霊を夏至の朝日のみなぎる力で鼓舞するための施設だったのです。

第十二章終わり

「物部」は天皇の形容詞だった!<古代史の謎は血縁関係で解ける>
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