「物部」は天皇の形容詞だった!<古代史の謎は血縁関係で解ける>第十三章 秦氏がもたらしたもの
【アラカン社長の徒然草vol.111】

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読者の皆様へ:
 筆者が書き貯めた古代史に関する文章を書籍に見立て、2017年8月より毎月一回、一章の割合で2019年2月まで連載します。
 本メルマガで既に発表した文章を元にこの連載に合わせて再構成し、内容を修正、補充したものです。
 本連載のバックナンバーはVOL.94までとは別にファイルします。
*記紀に記された日本の固有名詞について。
表音に使った漢字が両書で異なることがありますので、読者の便宜のため基本的にカタカナで表記します。
*天皇名
奈良時代後期から使用される漢字表記のおくり名を使います。
*西暦年
西暦年表示を標準としています。括弧内に半角数字のみ書いたものは西暦年を示します。人名の後に二つの数字をハイフンで結んだものは生年と没年を示します。
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 5世紀に始まる物部王朝は、いわば「秦氏の王朝」です。5世紀は秦氏がもたらした製鉄をはじめ高度な技術により日本の社会が一変します。その基礎には食糧生産力の増大があったはずです。その変化を追います。

 狩猟採集によって高い生産力を誇った集団のなかには、首長社会の段階にまで達したものもあるが、国家の段階にまで達したものは一つとしてない。国家を形成するに至った集団は、食料生産によって市民を支えることのできた集団だけである。(中略)集約的な食料生産と複雑な社会の出現は、相互に自己触媒の関係にある(中略)。
 複雑で集権化された社会は、灌漑施設などの公共建造物を構築できることを特徴とする。遠方の社会と交易をおこない、よりよい農具を作るための金属材料を輸入したりすることもできる。労働がさまざまに分化しているので、家畜を専門に育てる人びとを農民の穀物で養い、彼らが育てた家畜を使役動物として農民にあてがうような配慮もできる。集権化された社会では、こうしたことが相乗的に作用し、集約的な食料生産が助長され、歴史的に見れば、人口の増加につながっていったのである。
(ジャレド・ダイアモンド著 倉骨彰訳「銃・病原菌・鉄」第14章 平等な社会から集権的な社会へ)

1.王国の形成

 「急激な寒さは、前850年に広範な地域を同時に襲い、それと同時に太陽の黒点活動が急に弱まり、宇宙線の流入が増えて、大気中の炭素14の生成量が大量に増加した。(中略)最初に被害を受けたのはモンゴルのステップだったようだ。湿潤な時代には、ここは牧畜民にとってすばらしいオアシスだった。家畜の群れは増大し、人口も増えた。やがて干ばつが訪れるようになり、遊牧民は別の場所へ移動し、定住地を侵略せざるをえなくなった。前8世紀には、ステップの干ばつを受けて、遊牧民が中国へなだれこんだ。」B・フェイガン著「古代文明と気候大変動」(河出文庫)第10章

 中国大陸では北方から遊牧民が華北の畑作地帯に南下。華北の畑作農民は作物生育に適した暖かい地を求めて稲作地帯に南下。稲作地帯は南に移動します。北からの人の移動に押されるように稲作農民の一部は海を渡って日本列島や朝鮮半島南部に移住しました。日本列島に本格的な食料生産時代が訪れます。これが弥生時代の始まりです。それからの千年間に稲作地帯は本州北部まで拡がり、各地に首長が支配する集団が形成されていきました。
 3世紀も三分の二を過ぎた頃から奈良県桜井市を中心とした地域にそれまでになかった規模の前方後円墳が次々と造られていきます。崇神(すじん)王朝の始まりです。王国を形成できるほどの「集約的な食料生産と複雑な社会の出現」と人口の増加が始まったことが解ります。「国家の段階にまで達した」のです。

2.急激な王権の成長

 世界最大の墓は、日本にあります。大阪府堺市堺区大仙町にある大仙陵古墳。全長486mの前方後円墳。後円部の直径245m、高さ36m。築造されたのは5世紀前半。宮内庁は仁徳天皇陵としていますが、筆者は履中天皇陵と考えます(注)。
 その少し前、5世紀初頭に造られた誉田山古墳(こんだやまこふん。応神天皇陵)も同程度に巨大です。大仙陵古墳の真東10kmの羽曳野市にあり、全長425m、後円部の直径267m、高さは同じ36mです。
 このような巨大な墓が造られる5世紀は物部王朝の時代です。奈良県桜井市に大きな前方後円墳ができ始めてから130〜140年。物部王朝が始まるなり唐突に古墳が巨大化し、その造営される中心地も変わります。この時期、「集約的な食料生産が助長」され、人口が急激に増加し、社会は更に複雑化し、王の権力が増大したのでしょう。おそらく圧倒的に食料生産力が高まる何かが5世紀に起きたのです。王朝の創始者・応神天皇は朝鮮半島から中国人の集団・秦氏(はたし)を日本列島に連れてきました。秦氏がもたらしたものが日本の社会を激変させたに違いありません。

注:5世紀、物部王朝の時代に造られた大古墳上位5つを築造時期順に並べ、その右側に物部王朝の天皇を即位順に書けば以下の通り(在位年は中国の正史・宋書の記録を基に筆者が推定したものです。第二章をご参照下さい)。
 造山古墳は岡山市という特異な場所にある。対応する反正天皇の日本書紀の記述は三百字に満たない簡素さで、皇后や墓所、事績も一切書かれず特異さが際立つ。反正は履中即位前に履中の命により兄・墨江中王を殺している。尋常ではない「反正」というおくり名の原因はこの事実のみならず歴史から抹消された反正の皇子を次期天皇に擁立しようとして軋轢を起こしたであろうことを暗示する。履中の在位は長く、即位前の反正がこの間に備前を拠点としたとすれば墓所が岡山としても不自然ではない。5世紀6番目の大きさの作山古墳は、反正墓から見える位置にあり、反正の皇子墓の可能性を考える。

古墳名(所在市) 宮内庁指定 墳丘長 築造時期 天皇 在位西暦年
誉田山古墳(羽曳野) 応神天皇陵 425m 5世紀初頭 15代応神  
上石津ミサンザイ古墳(堺) 履中天皇陵 365m 5世紀初-前期 16代仁徳  
大仙陵古墳(堺) 仁徳天皇陵 486m 5世紀前半 17代履中 421-438
造山古墳(岡山) 無し 350m 5世紀前半 18代反正 438-443
土師ニサンザイ古墳(堺) 反正天皇陵 300m 5世紀中-後期 19代允恭 443-462
(参考)          
作山古墳(総社) 無し 286m 5世紀中期 反正の皇子?  

写真1:誉田山古墳西側面
写真2:誉田山古墳外濠外堤

3.新しい穀物

 秦氏は紀元前3世紀、秦王朝の中国から朝鮮半島南東部に移住してきた人々です。高いカロリーを大量に生み出せる新しい穀物を持ち込んだとは考えられないでしょうか。中国古代の穀物栽培を検討してみましょう。

 「中国古代の国家は、北方の黄河流域を中心にして成立した。そして成立の生産的な基礎をなしたものは畑作であった。そしてそこで作られたものは黍(モチキビ)・稷(ウルチキビ)・粟(アワ)などが多く、これを食物のもっとも重要なものとした。(中略)稷は粟とならんでもっとも多く、一般民衆の主食物であり、黍はそれよりやや上等の食物とされていた。そして、後漢時代(二世紀)の鄭玄という学者の古典の注釈には「豊年のときは賎しい者といえどもこれを食べる」といっている。また稗は卑しい食物とされて五穀に入っていない。五穀というのは、麦・稷・黍・麻・豆(『呂史春秋』「審土篇」『礼記』「月令篇」)をさすこともあるし、稷・秫(モチアワ)・豆・麦・稲(『管子』「地員篇」)としているものもある。漢の時代になって、江南地方までがその勢力範囲になると、そこでは稲が多く作られていて、米が主要な食物として登場してくることになるが、秦以前にあって華北で米の作られることは少なかったようである」(宮本常一著「日本文化の形成」)

 日本において、米は弥生時代から栽培していました。豆もありました。粟(あわ)、稗(ひえ)もありました。小麦もありましたがそれほど普及していません。大麦はどうでしょうか。大麦の「大」は、「伝来当時の漢字圏では、比較的容易に殻・フスマ層(種皮、胚芽など)を除去し粒のまま飯・粥として食べることができたオオムギを上質と考えたことを反映している。」(Wikipedia「大麦」)という記述が参考になります。私は秦氏が大麦栽培を普及させ、日本列島各地に栽培が広がっていったと推測します。その理由の第一は、米作とセットで栽培可能で、それにより連作障害も避けられること(二毛作。次の段落で述べる)。理由の第二は、乾燥と寒さに強い大麦は、稲が栽培できない場所や地域でも収穫でき、米に代わる主食になることです。

4.二毛作

 私は子供の頃の水田の様子を思い浮かべました。田植えの前には水田に植えられた麦が黄金色に稔っていました。6月、刈り取りが終わるなり畑を耕し水を引き、稲の田植えが始まりました。稲を表作(おもてさく)、麦を裏作(うらさく)とする二毛作です。二毛作は中国江南地方では紀元前から普通に行われていました。日本では鎌倉時代(13世紀)に普及したとされていますが、その始まりは秦氏が5世紀に移住してきたことにあるのではないか、秦氏は二毛作の裏作として大麦栽培を活用したのではないか。一つの田から一年に二度穀物を収穫できるのです。少なくとも近畿圏と西日本の灌漑や土壌条件の良い地域では米と大麦の二毛作が始まり人口密度が上がったと考えます。

5.鉄製農具

 秦氏は進んだ製鉄技術を日本にもたらしました。そして大量の鉄製品を生み出しました。
 5世紀以降の遺跡からは、鉄製の農具が出土します。鋤(すき)や鍬(くわ)の先に付ける刃先部分です。
 鉄の刃先がなければ畑を耕すのは大変です。鉄の刃先があってこそ、土壌を引き裂き、深く耕せるのです。深く耕せば土に酸素が入り、土が軟らかくなり、根が深く張ります。しっかり張った根から充分な栄養と水を吸収します。穀物の質が上がり、収穫量も断然増えます。
 鉄製の鍬、それに次の項で述べる牛や馬に引かせる鋤の使用で開墾が進み、耕作地が一気に拡大しました。新しく伝わった大麦、それに大豆などの豆類、粟(あわ)、蕎麦、稷(きび)など、土地や気候条件により選択され収穫量が急速に増えていきました。又、用水路を引いて水田を開墾し、稲作面積も拡大していきました。
 鉄鎌もこの時期に使用が拡大したはずです。それまでは穂先だけを石包丁で切り取るか、しごいて穀粒だけを収穫していました。鉄鎌があれば収穫時に株ごと刈ることができます。稲藁(いなわら)は牛や馬の餌になりますし、牛糞や馬糞と共に堆肥にされたことでしょう。翌年は先ず5月に苗床を作ります。6月になると堆肥をまいて田を耕し、水を張って苗を植えます。かき混ぜられ栄養が補充された柔らかい泥の中で苗はしっかり根を張り、秋に豊かな稔りをもたらしました。

6.農耕用牛馬

 5世紀、牛に引かせる鋤(すき)の使用が始まりました。刃先は鉄製です。人力よりも圧倒的に耕作効率が高まります。
 古事記や日本書紀に記述された朝鮮半島南部の人ツヌガアラシトやアメノヒボコの話には農村の牛が出てきます。秦氏の元の居住地では既に牛を耕作に使用していたことを暗示すると共に、これら二人とも日本にやってきたことから、日本への伝来も示しているように思えます。
 牛と、一部馬による耕作、農地の開墾は西日本から東日本へと伝わって行きました。西日本で始まってから三百年後の東京の様子が書かれた次の文章で、当時の状況を知ることができます。
 「奈良時代、甲和・仲村・嶋俣の三里で構成されていた大嶋郷は、現在の柴又・奥戸・立石などの地域と推定されています。その遺跡からは、当時を物語る土器などの遺物とともに、牛や馬の顎(あご)の骨や歯などが発見されています。(中略)
 本郷遺跡(奥戸二丁目ほか)では、奈良時代のころに使われていた水路から、故意に割って粉ごなにした須恵器の破片とともに、馬の顎の骨や歯などを出土しています。これらは、人為的に埋める際に納められたもので、馬は古録天東遺跡と同様に、頭だけが供えられていたようです。
 このほか、鬼塚遺跡(奥戸一丁目ほか)では、井戸に牛の頭が供えられていたり、柴又帝釈天遺跡(柴又七丁目)や正福寺遺跡(奥戸四丁目ほか)では、馬の歯のみを穴に埋めた例もあります。
 これらの牛や馬は、農耕を背景に行われた祭礼に供えられたようです。祭礼は、新しく畑をおこすときや豊作祈願、雨乞いなど多様な目的で行われ、土地を耕すなどに使われた大切な牛や馬をささげたのです。
 大嶋郷内で、このような牛や馬を供えた儀礼が多いということは、奈良時代以降において農耕が重要な生業活動であったとともに、牛馬の飼育も盛んだったことを裏付けています。最近の研究では、大嶋郷付近に公営の牧場が設置されていたという考えも示されています。」(葛飾区郷土と天文の博物館)

7.水田面積の拡大と農業土木技術

 牛馬耕作に伴い水田一枚の面積が大きくなりました。それまでの水田は10平米程度の不揃いな形で、それぞれの田に水路が隣接しておらず、畦(あぜ)越しに水を取り入れていました。それが今日のように直線の畦で区切られた細長く広い面積の田になったのです。
 一枚の水田面積の拡大に伴い、用水路が引かれました。又、用水路を引いて水田を開墾していきました。水田は水位を一定に保つ為に、一枚毎に水平でなければなりません。面積が大きくなるほど水平にするのが難しくなります。そして灌漑用水を取り込む為に、上流から下流に向かって順番に田の高さを下げて行く必要があります。一枚毎の田の水平、微妙な勾配を持つ水路の建設、その勾配に合わせた一枚一枚の田の高さ調整など、土木技術も秦氏によってもたらされたと推測できます。それは、次の段落で述べる松尾大社が、「古来、開拓、治水、土木(中略)の守護神として仰がれ」としていることでも裏付けられます。

8.酒造りの技術

 穀物が豊富に実ると余剰米を利用して酒造りも盛んになります。今日、醸造家は秦氏の氏神を祀る松尾大社(京都市西京区嵐山宮町)を最も大切な酒造りの神として信仰しています。秦氏は酒造りの最新技術も伝えたのです。同社の説明には「古来、開拓、治水、土木、建築、商業、文化、寿命、交通、安産の守護神として仰がれ、特に醸造の祖神として格別な尊敬を受けております。」と書かれています。
 秦氏の技術により酒造りがどのように改善されたのか。私は、中国の伝統的な醸造酒である黄酒(こうしゅ。日本で紹興酒や老酒と呼ばれる酒の総称)の製造方法から推測して、発酵容器(当時は酒壺)の中で糖化とアルコール発酵を同時に行う、並行複発酵(へいこうふくはっこう)の技術がもたらされたものと推測しています。それまでは先ず甘酒を作り(糖化)、その甘酒を酒に変え(アルコール発酵)ていたはずです。即ち、糖化とアルコール発酵は各々単独で行われていたのです。それを酒壺の中に酵母菌の湧いた液、米麹、蒸した米、水を合わせて入れ、米麹によって米が溶かされブドウ糖ができたしりから酵母菌がそれを食べてアルコールを作り出す、効率の良い酒造りに変貌させたのです。この技術は現代の清酒造りにもそのまま受け継がれています。

 米麹の糖化酵素       酵母菌
    ↓            ↓
澱粉→(糖化)→ブドウ糖→(アルコール発酵)→酒精

写真3:松尾大社鳥居
写真4:奉納酒樽(松尾大社)
写真5:松尾大社拝殿

9.偉大なる秦氏

 こうして見ますと秦氏の偉大さに改めて頭が下がります。先に引用した「日本文化の形成」の著者・宮本常一氏は秦氏の「ハタ」という読み方は、畠(はた。注)に通ずることを示唆されています。秦氏が農業に果たした役割が深かったことを意味します。機織り(はたおり)の「ハタ」も同じと考えて良いでしょう。
 秦氏は日本に移住して人口が急増しました。「秦人は六世紀中頃には全国に七○○○戸をこえるほど分布を見ていた。当時は、一戸に十五人は居たと思われるから、人口にすると一○万人をこえていたと見ていい。」(宮本常一著「日本文化の形成」)。我々日本人には少なからず秦氏の血が流れています。

注:宮本氏によれば昔は通常のものを「畠」、焼き畑によるものを「畑」として区別していた。

第十三章終わり

「物部」は天皇の形容詞だった!<古代史の謎は血縁関係で解ける>
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