醸造祈願【酒蔵便りvol.156】

<醸造祈願>

 11月29日は醸造祈願。賣太神社(めたじんじゃ)から藤本宮司を弊社に迎えました。
 毎年この時期に仕込む正月用しぼりたて生原酒に合わせて醸造の安全並びに旨い酒が醸せるよう祈っていただきます。午後2時より仕込蔵の作業台に従業員全員参列し、厳かに祈祷が行われました。

<酒蔵の様子>

 今シーズのしぼりたて生原酒、活性濁り酒の出荷が始まりました。地元限定流通で、毎年の新酒出荷開始を楽しみに待っていて下さる方も多く、一日でも早く出そうと慌ただしく瓶詰め、ラベル貼り、そして出荷にこぎつけました。
 その他の生酒の発売も集中しますので出荷準備に追われます。効率よく作業できるよう包装の集中作業日を決め、営業の板東も筆者も参加しています。
 我々と市内協力農家さんが栽培した山田錦の精米が終わり、11月28日に弊社に搬入されました。この米は奈良吟、三日踊山乃かみ酵母、吟生の原料です。早速、計量と浸漬を行い麹作りが始まりました。年末まで、酒造りと出荷作業に多忙な日々を過ごします。

写真1:藤本宮司による祈祷
写真2:納入された奈良県産山田錦の袋
写真3:同米粒(精米歩合60%)

2017年12月
 中谷酒造(株)代表取締役  中谷正人

「物部」は天皇の形容詞だった!<古代史の謎は血縁関係で解ける>第二章 物部王朝<後編>
【アラカン社長の徒然草vol.99】

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読者の皆様へ:
 筆者が書き貯めた古代史に関する文章を書籍に見立て、2017年8月より毎月一回、一章の割合で2018年11月まで連載します。
 本メルマガで既に発表した文章を元にこの連載に合わせて再構成し、内容を修正、補充したものです。
 本連載のバックナンバーはVOL.94までとは別にファイルします。
*記紀に記された日本の固有名詞について。
表音に使った漢字が両書で異なることがありますので、読者の便宜のため基本的にカタカナで表記します。
*天皇名
奈良時代後期から使用される漢字表記のおくり名を使います。
*西暦年
西暦年表示を標準としています。括弧内に半角数字のみ書いたものは西暦年を示します。人名の後に二つの数字をハイフンで結んだものは生年と没年を示します。
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17.倭の五王

 安康天皇が暗殺された後、安康の弟の雄略(ゆうりゃく)が躍り出るのですが、雄略天皇に入る前にここで各天皇の在位年を検討しておきましょう。解明に役立つのは中国の史書(正史)です。中国文明は四千年にわたり正確な歴史を書き残してきました。各王朝は記録マニアと言えるくらい詳細な記録を残し、それをその王朝が滅んで歴史観の揺らぎが落ち着いてから正史としてまとめるということを繰り返してきました。おまけに王朝の変遷とあまり関係のない中国外の国や地域については記録を改ざんする必要もありません。そんなことで中国の正史は信頼に足りるのです。
 物部王朝の天皇は、朝鮮半島を巡る争いに中国南朝の権威を利用する目的で朝貢し、称号をもらいました。当時日本は朝鮮半島南部の任那(みまな)に拠点を持ち、百済(ひゃくさい)を盟友として、新羅(しんら)と朝鮮半島南東部の領有を巡って争っていました。なぜならそこが秦氏(はたし)、即ち物部王朝が率いた人々の母国・秦韓(しんかん)の地だったからです。
 南朝の歴史書に残る倭(わ。日本の蔑称)の朝貢記録には、讃、珍、済、興、武(さん、ちん、さい、こう、ぶ)の五人の王が書かれています。五王をどの天皇にあてはめるか、史書には手掛かりとして弟、子、と相続関係が書かれています。これに該当するのは履中天皇から5人の天皇を即位順にあてはめた場合のみです。次の表をご覧下さい。

倭の五王対照表:

倭王 王朝と記録年(西暦) 天皇 記事 日本書紀
在位年数
筆者推定
在位
宋421,425,430 17代 履中   6 421-438
宋438 18代 反正 讃没,弟立つ 5 438-443
宋443,451,460 19代 允恭   42 443-462
宋462 20代 安康 済の子興立つ 3 462-468
宋477,478,南斉479,梁502 21代 雄略 興没、弟立つ 23 468-502

 筆者推定在位の初年は雄略天皇を除いて中国の史書に最初に記録された年としました。即位後最初に朝貢した月がばらばらですから、前天皇没後間を置かずに新天皇が即位し、朝貢使を派遣し代替わりを報告したはずです。朝鮮半島情勢は絶えず緊張していましたので正統な倭(わ。日本の蔑称)の王であることをすかさず認めてもらう必要があり、同時に朝鮮半島支配者の称号「安東将軍」を求めたのです。
 雄略天皇は、稲荷山古墳(埼玉県行田市)出土鉄剣の文字から鉄剣が作られた「辛亥年」(471年)は「獲加多支鹵大王」(ワカタケル大王。雄略天皇のこと)の時代であったことが解ります。とするならば雄略は即位直後に朝貢使を出さなかったことになります。いつ即位したか、その手掛かりは百済王から大王に贈られた七支刀に求めます。聖なる刀は大王即位に合わせて贈られたと考え、七支刀に刻まれた制作年「泰■四年」(■は不明ながら宋の年号・泰始と推定。468年)を即位年とします。
 中国の記録は正確です。日本書紀も在位年数を操作していることは間違いありませんが、天皇の系図は正確であることが確認できました。

写真7:七支刀

18.在位年数の操作

 在位年数が反正天皇は日本書紀の在位年数と中国の記録が1年違い。日本書紀の在位年数の単純合計が79年。この間、中国の史書は82年とほぼ一致します。履中、雄略を短くし、その分允恭を長くして調整したことが解ります。履中在位中は墨江中王(すみのえのなかつおう)の反乱があり(古事記)、雄略は百済滅亡と再興がありましたので、不都合な記録は削除し在位期間を短縮したものと推測できます。
 以上から見て日本書紀の編纂にあたっては、実際の在位年を基礎にしながら記述を操作したであろうことがうかがえます。即ち、日本書紀が記す履中天皇以降の物部王朝の天皇在位年はある程度信頼できるということです。これが雄略天皇以降の天皇在位年を確定するのに威力を発揮します。これについては後述します。

19.雄略の即位

 番狂わせで即位した安康天皇が暗殺されたのは、天皇と百済王女の間に生まれた皇子が継承する、本来の筋に戻す力が働いたと言えます。次の系図をご参照下さい。次期天皇は市辺押磐皇子(いちのへのおしわのみこ)になるはずです。それを阻むのが雄略天皇です。

 雄略天皇(21代)は、允恭天皇の第五皇子です。五人の皇子は全て忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)が生んだ子です。第一皇子・軽皇子(かるのみこ)と第三皇子・安康天皇は既に亡くなりました。第二皇子黒彦、第四皇子白彦は皇位継承順位で上位にあり、雄略は先ずこの二人を始末します。
 次に安康天皇を暗殺した眉輪王(まよわおう)を始末しようとしますが、暗殺の黒幕であろう葛城円(かつらぎのつぶら)の屋敷に逃げ込みます。雄略は屋敷を包囲し、眉輪王と円を自害に追い込みます。そして本命の市辺押磐皇子を殺して即位します。
 従来の学説では百済の存在に気付かず天皇に娘を出す葛城氏という豪族を仮定しましたので円の死をもって葛城氏の滅亡と考えました。葛城は、仁徳天皇(16代にんとく)が皇后である百済の王女・磐之媛(いわのひめ)のために葛城部(かつらぎべ。葛城に設けられた奉仕集団)を定めたことから百済王族縁の地になっただけのことで、葛城氏が幻であることは先に述べました。円は日本に大使として赴任した百済の王族です。

20.雄略の結婚

 雄略は即位後、叔母である若日下部王(わかくさかべおう)を皇后にします。皇子時代に娶ろうとしたものの、仲を取り持った大草香皇子が誅殺され、結婚未遂に終わったことは14.安康天皇の悲劇で述べました。そして円の娘・韓媛(からひめ)を娶ります。その間に生まれるのが22代清寧(せいねい)天皇です。
 雄略は百済との同盟を維持するために百済王の娘を娶るはずです。円は王の弟といった王の血筋に極めて近い人物と推測できますが、王ではありません。おまけに円は雄略から見て叔父・大草香皇子や兄・軽皇子と安康天皇の仇です。その娘をなぜ娶ったのでしょう。実はその時、百済は存在していなかったのです。

21.雄略の時代

 雄略の即位を468年としますと、即位後ほどなく朝鮮半島情勢の急変に見舞われたはずです。百済が高句麗(こうくり)に攻められたのです。そして475年頃、首都・漢城(かんじょう。現在のソウル)は陥落。王と王子は処刑され百済は滅びます。
 先に雄略は即位後すぐには宋に朝貢使を出さなかったと書きましたが、そのような状況下、朝貢使を出す余裕がなかったものと推測します。
 やがて雄略は大軍を派遣し高句麗、新羅と戦い、逃れていた百済王子を即位させ(文周王)、南の熊津(ゆうしん。現在の公州市)を首都として百済を再興します。
 百済では再興後6世紀前半にかけて10基以上の前方後円墳が造られます。前方後円墳は日本独自の墳墓形態ですから日本と百済の関係が一層緊密になったことが解ります。
 強い王の復活と引き換えに高い代償を払うことになりました。雄略は韓媛との間に生まれた清寧天皇(22代せいねい)を跡継ぎにします。清寧は色素欠乏症で白髪。皇后もなく子も無し。雄略は応神の血を引く皇子を殺し尽くし、他の選択肢がなかったのでしょう。清寧は在位5年で亡くなります。応神の血は絶えるかと思われましたが意外な展開が待ち受けます。

写真8:雄略天皇陵との説がある河内大塚山古墳(墳丘長335m。松原市、羽曳野市)

22.清寧天皇没後

倭の五王対照表:

倭王 王朝と記録年(西暦) 天皇 記事 日本書紀
在位年数
筆者推定
在位
宋421,425,430 17代 履中   6 421-438
宋438 18代 反正 讃没,弟立つ 5 438-443
宋443,451,460 19代 允恭   42 443-462
宋462 20代 安康 済の子興立つ 3 462-468
宋477,478,南斉479,梁502 21代 雄略 興没、弟立つ 23 468-502

 倭の五王対照表に戻りましょう。
 一番下の筆者推定在位年で雄略天皇の在位を西暦502年までとしています。「日本書紀の在位年数の単純合計が79年。この間、中国の史書は82年とほぼ一致します」ので、中国の史書に矛盾しない最短在位期間が妥当と考えたからです。それを基に清寧天皇が502年に即位して在位5年(日本書紀)とすれば、崩御は506年。この506年は大きな節目の年です。
 それは日本書紀が少なくとも継体天皇以降、天皇在位年の操作をやめたと考えられるところ、継体天皇の崩御は継体天皇25年(531)で「82歳」、即位前年は「57歳」と書かれており、それは西暦506年に当たるからです。22代清寧崩御の翌年に26代継体が即位したとすれば23代から25代の入る余地がなくなります。
 日本書紀の記述を見てみましょう。
 「武烈天皇(25代ぶれつ)崩御後、後継者はなく、翌年正月、(応神天皇の五世孫である)オホド王(継体天皇)を三国(福井県坂井市)に迎えに行き、オホド王は二月に即位した。」
25代武烈の後が26代継体としています。これをどう考えれば良いのでしょう。

23.王朝の並立

 継体は507年に樟葉(くずは。大阪府枚方市)で即位してから奈良盆地に入るまで19年もかかり、入ったのは526年です。その理由は何だったのでしょう。本当は請われて平和裏に継承したのではなく血みどろの争いがあり、天皇即位を宣言したものの物部王朝と抗争が続き、526年にようやく和平が訪れたと考えれば辻つまがあいます。即ち、507年から526年までは継体と物部王朝が並立していたのです。私は継体に始まる王朝を蘇我王朝と呼んでいます。
 この間、日本書紀によれば顕宗天皇(23代けんそう)3年、仁賢天皇(24代にんけん)11年、武烈天皇(25代)8年、合計22年。日本書紀では仁賢も武烈も前天皇が亡くなった翌年に即位したことにしていますが、二つの王朝が並立し正統性を争っている時に空位期間を設けるはずもありません。前天皇の没年に各々即位したとすれば足かけ20年になり、継体即位から奈良盆地に入るまでの19年間と一致します。

24.物部王朝の在位年

 雄略天皇の崩御を中国梁書の朝貢記録の502年と仮定した場合、日本書紀に書かれた後の天皇の在位年と辻つまが合うことが判明しました。ここで、これまでに明らかになった物部王朝の在位年を西暦で整理しておきましょう。

 17代 履中天皇 421-438年
 18代 反正天皇 438-443
 19代 允恭天皇 443-462
 20代 安康天皇 462-468
 21代 雄略天皇 468-502
 22代 清寧天皇 502-506(没後、後の継体天皇が王位を要求)
    飯豊王女 506-507(履中天皇の娘。後述)
 23代 顕宗天皇 507-509(507年、継体天皇即位宣言。王朝並立開始)
 24代 仁賢天皇 509-519
 25代 武烈天皇 519-526(王朝並立終了)
(26代 継体天皇 526-531 蘇我王朝開始。後述)

25.継体の素性

 蘇我氏が具体的に記紀が記す歴史に登場するのは蘇我稲目(いなめ)からです。蘇我稲目は継体天皇が亡くなって5年目(536)に大臣になり、間もなく二人の娘を欽明天皇(29代きんめい)に嫁がせます。
 欽明の父は継体天皇、母は仁賢天皇(24代にんけん)天皇の娘です。継体が即位宣言をしてから継体天皇とその皇子に妃を出したのは天皇家(物部氏)であり、それは血の宥和を図ってのことでした。そこに蘇我氏は唐突に天皇に妃を出す家柄として登場するのです。これは継体天皇の血筋が蘇我氏であると考えてこそ初めて説明がつきます。事実、蘇我と物部は対等な立場で争っており、これを前提に日本書紀を読み直せば継体天皇以降の皇位継承争いを矛盾なく素直に説明できます。これは次の章で検証します。
 旧事本紀巻十「国造本記」によれば蘇我氏の若長足尼(わかながのすくね)が三国の坂中井(福井県坂井市丸岡町)に置かれた役所で国造(くにのみやつこ)をしていました。日本書紀によると三国(みくに。福井県坂井市)に継体は居り、請われて507年、樟葉宮で天皇に即位します。やはり継体天皇の血筋が蘇我氏だったのです。
 継体は日本書紀に応神の五世孫と書かれています。即ち武烈天皇(25代ぶれつ)と同じ第六世代として応神の血を引いていたのです。ならば物部も蘇我も元は秦氏の王族です。秦氏は朝鮮半島南東部・秦韓(しんかん。辰韓とも)の地に居ました。4世紀の新羅建国に伴い応神天皇率いる秦氏は朝鮮半島南東部から百済、北部九州を経由してヤマト国に入り物部王朝を建てたのに対し、応神の皇子率いる秦氏は朝鮮半島南東部から越前に入り、近江にまで勢力を拡大していました。その統領が継体です。継体の父は高島郷(滋賀県高島市)の拠点に居た時に振媛(ふるひめ)に求婚し、「三国の坂中井」に迎え、その間に生まれるのが継体です。
 故地「シンカン」(秦韓)の地名は物部の移住経路の「サガ」(佐賀)、蘇我の経路の「シガ」(滋賀)に残りました。「ソガ」(蘇我)も「シンカン」から来ていると私は考えています。
 先に物部王朝の創始者である応神天皇(15代おうじん)の名が「ホムタワケ」で、秦氏の王を意味することを述べました。この「ホムタワケ」という名は、元は蘇我氏が使っていました。なぜなら日本書紀は「一に云はく、初め天皇、太子と為りて、越国に行して、角鹿(つぬが)の笥飯(けひ)大神を拝祭(おが)みたてまつりたまふ。時に大神と太子と、名を相易へたまふ。故、大神を号(なづ)けて、去来紗別(イザサワケ)神と曰す。太子をば誉田別(ホムタワケ)尊(みこと)と名(なづ)くといふ。然らば大神の本の名を誉田別神、太子の元の名をば去来紗別尊と謂(もう)すべし。然れども見ゆる所無くして、未だ詳(つまびらか)ならず。」(応神天皇の元の名はイザサワケで、ケヒ大神の名と交換してホムタワケになったといわれるが詳しくは解らない)と書いているからです。ケヒ大神とは気比神宮(福井県敦賀市曙町)の主神で、この地域を治めていた蘇我氏の祖先神と考えられます。その神の名が「ホムタワケ」で、この名を応神天皇に譲ったというのです。蘇我氏も秦氏であったこと、先に奈良盆地に入りヤマト国を滅ぼした物部氏の応神天皇に皇子(蘇我氏)が屈服したことを意味していると考えられます。
 継体は雄略の死後、清寧天皇が短期間で崩御し、その後継者が絶えたのを見て、応神の血を引く正統な後継者として中央に進出を企てたのです。

地図:6世紀の朝鮮半島と秦氏関連地
写真9:気比神宮

26.オケとヲケ

 対する物部王朝は後継者を探す必要に迫られました。暫定的に履中天皇の娘・飯豊王女(いいとよのひめみこ)が天皇の代わりを務めました。
 市辺押磐皇子(いちのへのおしわのみこ)は雄略に殺されましたが、二人の子が発見されました。兄はオケ、弟はヲケ。下の系図をご参照下さい。飯豊王女の甥にあたります。
 二人は父が殺された後、逃亡し身分を隠して潜伏していました。二人の母は百済王女。百済の血を7/8も引いていますが、それよりも応神の血を1/16引くことが重要でした。なぜなら対する継体天皇は応神の五世孫を名乗っているからです。継体側が一切近親婚をしていない場合の応神の血の比率は1/2の5乗で1/32。おそらく両者に大差はなかったはずです。
 507年、譲り合いの結果、弟ヲケが皇太子の兄に先んじて即位し顕宗天皇(23代けんそう)。在位三年で亡くなり、509年に兄オケが即位し仁賢天皇(24代にんけん)。
 継体との抗争が続く中で皇太子の兄が即位を渋ったのは当然かもしれません。弟は戦死のはずです。記紀に仁賢の治世は良かったと書かれていますが実際は血みどろの戦いが続いていたことでしょう。なぜなら継体は本拠を樟葉から筒城(つづき。京都府京田辺市)、弟国(おとくに。京都府長岡京市)と移しているからです。物部側も仁賢天皇陵とみられる野中ボケ山古墳(藤井寺市青山3丁目。「ボケ」は天皇名「オケ」が変化したもの)の墳丘長は122mしかなく、築造に余裕がなかったことがうかがえます。
 ところで、日本書紀によれば仁賢の皇后・春日大娘(かすがのいらつめ)は雄略天皇の娘です。仁賢にとって雄略は父の仇。その娘を皇后にするでしょうか。古事記に春日大娘の出自は記載されておらず、実際には雄略と血縁関係がないどころか、王家の血は引いていないようです。継体天皇との争いでは応神の血の比率が王朝の正統性の争点ですから偽装したものと考えられます。そして二人の間に生まれた武烈(25代ぶれつ)が物部王朝最後の天皇になります。

写真10:野中ボケ山古墳(藤井寺市青山3丁目)

27.武烈天皇

 古事記には書かれていませんが、日本書紀で武烈は暴君として描かれます。これは次期王朝を正当化する為に中国の史書が使う手。日本書紀は中国に倣って作られた史書ですから、当然と言えば当然です。
 武烈崩御後、後継者はなく、継体(26代けいたい)を三国から呼び寄せ次期天皇にしたと記紀に書かれていることは22.清寧天皇没後に述べた通りです。
 事実は武烈在世中に継体との和平にこぎつけたはずです。両者協議の結果、仁賢の娘で武烈の妹・手白香皇女(たしらかのひめみこ)を継体に嫁がせることで宥和が図られました。その間に生まれるのが後の欽明天皇(29代きんめい)です。526年、ようやく継体は国の中心である奈良盆地に入ることができたのです。ここに名実ともに物部王朝は終わり、新しい王朝が始まります。
 物部王朝は終わったものの王族が滅んだのではありません。記紀の記述で「物部」と書かれた勢力として残り、継体の血筋、即ち「蘇我」と争います。528年に起きた磐井の乱もその一つと私は考えています。次の第三章では天皇擁立を巡る両者の争いについて述べます。

第二章<後編>終わり