正暦寺の酒造り
Brewing sake at Shoryakuji Temple

1.貨幣経済と仏教寺院での酒造り

「本来寺院では飲酒や酒造は禁止されていたが、このように境内の鎮守社へ神酒を献上するために公然と酒造りが行われるようになったのは、10~11世紀の神仏習合時代であるといわれている。」(「正暦寺一千年の歴史」)

「鎮守社への献上酒から転じて、財源確保の目的のために酒造りが行われるようになったのは、十四世紀中頃から十五世紀始め頃と考えられる。記録としては「経覚私要抄」の嘉吉四年(1444)正月20日の条に、酒を売った売上金の一部を「菩提山壺銭」として興福寺大乗院へ上納しているが、その納期の延 期を申し出ている記事が最も古く、すでにこの頃には酒の販売が軌道に乗り、定期的に本所であった興福寺に上納金を納めていたことが指摘されている。」(「正暦寺一千年の歴史」)

2.清酒造り技術の確立

酒造り方法自体の記録は、同寺には残っておらず、室町時代に書かれた「御酒之日記」による。生米を浸けた水を放置すれば、乳酸菌が増殖して酸っぱい水が できる。これを「そやし水」と言う。そやし水には乳酸が多く含まれ、酸の力で雑菌を殺してしまうので、もと(「元」に「酉偏」を付けた造字。以下、 「元」を充てる)或いは酒母(しゅぼ)と呼ばれる酵母の増殖液を作る際に加える。空気中に浮遊する各種の菌類の中でも酵母菌だけは酸に強いので、その酸 で守りながら酵母菌を増殖させ、最終的に大量の酵母菌を持つ液、即ち酒母を得たことがうかがえる。こうして作られた酒母を菩提元と呼ぶ。

又、酵母菌の増殖に合わせて原料(麹、蒸米、水)を分けて投入し、酵母菌の優勢を保って雑菌の進入を防ぐ安全な酒造りを行ったことも解る。この方法は、 「多段仕込み」と呼ばれ、現代の酒造りにも同じ形で受け継がれている。

正暦寺の紅葉
3.菩提元の復元

平成7年(1995年)に菩提元の復元と商品化を目指す「奈良県菩提元による清酒製造研究会」が奈良県工業技術センターなどの協力の下に発足し、平成 10年(1998年)、同研究会所属の清酒メーカーが「菩提元を復元」した酒母を作り、各社がその酒母を使って清酒を醸造、製品化した。

「菩提元」は本来、雑菌との競合の中で乳酸菌が増殖し、同じく雑菌との競合の中で酵母菌が増殖するものであるが、同研究会では商品化が念頭にあった為、 温室で乳酸菌を純粋培養してそやし水を作り、酵母菌も純粋培養して加えた。

4.菩提元の正体

奈良県香芝市の株式会社大倉本家では、昭和初期から奈良県神社庁の委託を受け、御神酒を造ってきた。その酒には特別な酒母が使われる。これが菩提元であることが平成13年に判明したのである。これは、醸造協会誌第97巻第10号に「菩提元を用いた濁酒製造過程における成分の経時変化と微生物の消長」として発表された。

それによると、「「そやし」工程では、生米60.5kgを洗米し、木製半切りに入れ、水90Lを加えて生米を浸し、そこに、飯(白米4.5kg分)を酒 袋に入れて揉み出し糊状にして加え、水温17~25℃で6日間管理し酸性(酸度3.2)の仕込み水(以下「そやし水」と表記)を製造する。酒母工程で は、浸漬した生米を取り出し、蒸して酒母の掛米として利用し、麹(白米換算30kg)を分離したそやし水に加え水麹を調整し、掛米を加え、品温21~24℃で6日間、酒母を育成した。醪工程は踊りをとらずに添、仲、留の三段仕込みを行い、品温24~35℃で発酵を進め…。」とある。「御酒之日記」に 書かれたものが、実にこれであることが判明したのである。

5.中谷酒造等現代の純米酒製法との比較
A. 乳酸菌

「そやし水」は、その酸により酵母菌以外の雑菌の増殖を押さえることに意味があり、生米のとぎ汁には乳酸菌が増殖しやすいことを経験則の中で発見したも のである。現在、中谷酒造のみならずほとんどの造り酒屋では、そやし水の替わりに別途購入した発酵乳酸を加えて同じ役割を担わせている。

B. 酵母菌

菩提元で酵母菌は、「そやし水」が出来る過程で空気中の酵母菌が水に落ち、乳酸菌と並行して増殖している。空気中には多種の酵母菌が浮遊しているので必 ずしも美酒を造る酵母菌が増殖するとは限らない。おそらく蔵付き酵母と言って、長年の内に蔵の中には優良な酵母菌の浮遊が増え、それらが増殖する確率が 高まったものと思われる。中には好ましくない酵母菌が増殖してしまうこともあっただろうが、それは用いず、良いものを選んだはずである。

一方、中谷酒造はじめほとんどの蔵では、設計通りの味を造る為に、酵母菌を選び、それを純粋に培養したものを加え、それを酒母過程で増殖させている。

C. 多段仕込み

発見された大倉本家では、3日3回に分けて原料を投入する三段仕込みを行っている。 これに関しては、現在ほとんどの造り酒屋も同じく三段仕込みを行っている。初日を「添え仕込み」、二日目は「踊り」と言って酵母の増殖を待つ日、3日目 は「仲仕込み」で初回の約二倍の麹、掛米(蒸米)、水を加え、4日目は「留め仕込み」。「留め」では「仲」の更に二倍の原料を加える。

D. 踊り

現代の酒造りは、二日目に「踊り」という日を挟んでいる。菩提元の酒造りは、まだ気温の高い秋頃から酒造りを始めたことが記録されているが、外気以外に 冷却の方法があまりなかった当時にあっては、発酵温度が全般的に高く、酵母菌の増殖も早かったと考えられる。

一方現代は、酒の質を円やかにする為にかな り低温で発酵させるので、酵母増殖は遅い。そこで安全の為に酵母の増殖の日を一日取るようにしている。

6.「清酒発祥の地」

発酵技術が拙かった、或いは醸造工学などがなかった当時にあっては、頻繁に酒造りに失敗したはずである。腐造という。これを、経験則で乳酸菌を増殖させ たそやし水を使用して、純粋な酵母を得て、更に多段仕込みで安全な酒造りを確立した点で、正暦寺は「清酒発祥の地」とされるにふさわしいと考えるものである。

更にもう一つ。正暦寺では樽を輸送容器として使い始めた。樽に詰める前に火入れと呼ばれる低温殺菌を行うことで遠距離輸送が可能になり、樽の風味を含む清酒は好評で天下の名酒となった。その為醸造規模が拡大し、後の池田、伊丹、灘に繋がる大規模な清酒醸造場の先駆けになった。

中谷正人が醸造協会誌に寄稿した論文「清酒発祥の地・正暦寺の意味の再検討と考察」:PDFファイル

中谷正人が醸造協会誌2023年4月に寄稿した文章「正暦寺の醸造技術は奈良時代から」:PDFファイル

大和で確立された清酒造りは、やがて大阪の池田をはじめ近畿各地に伝わる。 江戸時代になると樽回船により日本最大の消費都市・江戸に運ぶ利便性から先ずは池田、伊丹において清酒造りの規模が拡大する。後に酒造りの中心は灘に移り、六甲山から流れる幾筋もの川の流 れを利用して水車を回し、精米を行った。これにより原料米の精米歩合が高まり、すっきりした味わいの清酒ができた。

明治時代になって東海道線が開通すると、鉄道輸送の利便性から京都の伏見に造り酒屋が次々の建設され、灘に次ぐ生産地の地位を確立し現在に至っている。