VOL.81 海の女神と薩摩揚げ

投稿日:2003年3月10日

海の女神と薩摩揚げ

 「海の民」というと、中国とは最も縁が薄そうに思われる方も多いことでしょう。意外や意外、19世紀まで東アジアや東南アジアの貿易は、主として中国人がジャンクと呼ばれる軽量の帆船を操って行っていたのです。

 そう言えば、種子島に鉄砲を伝えたポルトガル人も中国船に乗っていたんでしたね。明の鄭和もアフリカまで遠征しています。

 今回は、「中国人」の海の民としての一面に迫ります。

1.タイ料理と沖縄料理

 一時、エスニック料理が流行ったことがあります。その頃、行きつけのタイ料理店で薩摩揚げが出てきたのには驚きました。魚のすり身を油で揚げた、実にそのものでした。

 日本の薩摩揚げは、薩摩藩の支配下にあった琉球から19世紀に伝わったと言われてい ます。皆さんご存じの通り、琉球王国は海上交易で栄えました。

2.潮州料理

 福建省から広東省東部に流れ下る韓江。その下流に潮州があります。その外港が河口のスワトー(漢字は「さんずい偏に山」「頭」)です。

 スワトーには経済特区があり、80年代に水産加工工場立ち上げで何度か出張しました。例によって宴席に出る機会も少なくなかったのですが、砂糖をふりかけた前菜には参りました。

 料理の最後に青菜の炒め物。胡麻をまぶした揚げ団子など甘い点心もありました。それが潮州料理でした。その中に薩摩揚げもあったのです。

3.海の民

 潮州人はスワトー港から海に乗り出し、交易を担いました。

 例えばタイ。18世紀、といいますから山田長政が活躍した時代(注1)の百年後です。ビルマ軍を撃退したタイの英雄・鄭昭(タークシン)の父は潮州人です。その頃には多くの潮州人がタイに住んでいました。

4.潮州人のルーツ

 酒の産地として有名な紹興の都・会稽はありました。は内陸の文化を基礎とする中原の国々とは異なり、海との繋がりが深かった民族が建てた国です。

 春秋時代・紀元前5世紀にライバルのを滅ぼしたあと中原の覇者となりましたが、前4世紀に揚子江流域の稲作地帯を基盤とするに滅ぼされました。その後、越人は海沿いに南に移動したとされています(注2)。

 二百年後、に滅ぼされた福建のが東シナ海一帯で活躍していたことを考えると、紹興の、福建の、そして広東の潮州と繋がるのかもしれません。

5.そして現代

 広州、香港、マレーシア、シンガポール、インドネシア等に多くの潮州人が住んでいます。台湾南西部にも潮州という町があります。

 潮州人と共に潮州料理も広まっていきました。薩摩揚げもその一つ。タイでは華人の大半が潮州人ですから、タイ料理の半分は潮州料理と言っても過言ではありません。香港で発達した広東料理も源流は潮州料理なのだそうです。

6.海の女神

 天津の街を貫いて海河が流れています。その南岸に古文化街と呼ばれる代の街並みを再現した土産物街があり、その中程に天后宮と呼ばれる寺院が復元されています。

 天后とは航海の安全を守る中国の女神です。現在の天津港は市内から50キロも離れた海辺にありますが、往時は海河を遡ってこの辺りまでジャンクが上ってきました。

 天后宮の説明には東南アジア各地に天后が祀られていることが記されています。それらの場所こそ潮州系華人の多い所と一致するに違いありません。

注1:徳川家康の時代に始まる朱印船貿易で、多くの日本人が首都アユタヤの日本人町に住んでいました。家光はキリスト教の進入を恐れ鎖国政策を採り、日本人の出入国も禁じましたので東南アジア各地にあった日本人町はやがて消滅します。日本の貿易自体は窓口を長崎出島に限定されたものの、規模が急激に拡大していきます。

 一方、中国でも海禁と呼ばれる鎖国政策が採られました。始まりは明の1371年、倭寇(日本の海賊・貿易業者)取り締まりの為でした。1567年から緩和されます。末は朱印船貿易の時代に当たります。

 清朝の復興を目指す一派を封じる為に海禁策を採りましたが、1684年から1757年まで緩和されました。タイで鄭昭が活躍したのがこの時期です。1842年、アヘン戦争後結ばれた南京条約により海禁策は終わります。

注2:日本に水田稲作をもたらした渡来人、即ち弥生人の移動にも関係があると言われて います。時代は下りますが、日本の(越前・越中・越後)との関係も考えられます。

つづく