VOL.100 恐怖の牛肉ラーメン

投稿日:2004年10月11日

恐怖の牛肉ラーメン

 夏の終わり、家族旅行で新疆ウイグル自治区を訪れました。「きれいごとで済むような、男と女じゃないことなど、うすうす感じて、いたけれえど」(アリス「終止符」)にあるように、今回も「きれいごと」で済むとは思っていませんでしたが・・・。

1.新疆という土地

 シルクロードの交易が行われた地域ですから、ウイグル族の他、漢族、カザフ族、キルギス族、蒙古族など多くの民族が住んでいます。街には漢字があふれていますが、ウイグルの歌が流れ、それらヨーロッパ系民族の血が混じった人々が行き交います。

 ホテルの窓からウルムチの街を見下ろしました。中国の街ならゴミ貯めになっているアパートの屋上が、ここでは綺麗に掃除されています。違う文化や習慣を持った人々が暮らすことが一目瞭然です。

2.牛肉麺との出会い

 到着の翌朝、「一番繁盛している店」で「牛肉拉麺」を食べました。生地を一杯分ちぎり、両手で持って何度も伸ばして一定の細さになったら湯に放り込みます。

 直ぐに麺が浮いてきますのでそれをすくって椀に盛り、半濁の牛骨スープを掛け、煮た牛肉の細切れを載せて、最後にラー油を掛ければ出来上がり。スープの表面を真っ赤なラー油が覆い尽くしています。見てびっくり、食べてびっくり。「ビックリ激辛ラーメン」です。

 受け付けない息子の為に「ラー油抜き」をもう一杯頼みましたが、スープ自体が濃厚な化学調味料と強烈な山椒で、やはり食べるには真剣な努力が必要です。父親の沽券に関わるとばかり、2杯食べてしまった私がアホでした。

 ホテルに戻って早速下痢。油と香辛料がこの地の特色とは聞いていましたが、加えて化学調味料のトリプル攻撃。初日に洗礼を受けてしまいました。腹具合が収まったところでトルファンに向け出発です。

3.牛肉麺の復活

 炎を思わせる真っ赤な丘が東西に伸びています。山肌には一木一草もなく、大自然が作った幾つもの溝が刻まれています。その模様が立ち上る炎を思わせます。これが「西遊記」で日本人にも馴染みの火焔山です。その向こうには万年雪に山頂を覆われた天山山脈が青く霞んで見えます。

ベゼクリク千仏洞と渓谷

 車を降りると、立ちくらみしそうな強い太陽光と熱気に襲われます。日射しを遮るものは何もなく、生き物の兆しはこの道を通る車に乗る人間だけです。

 玄奘は、仏典を求めるインドへの旅でこの火焔山の南麓を西に向かいました。「豚や猿は連れて行けへんな」そんなことを考えていたら、腹痛の再開です。

4.牛肉麺の小休止

 天山の雪解け水が、火焔山とその東の丘の間に峡谷を作っています。峡谷の西側の断崖に洞を穿ち、仏像を作り始めたのは6世紀、麹氏高昌国の時代です。その後14世紀に至るまで作り続けられます。洞の中には極彩色の壁画が描かれました。ベゼクリク千仏洞です。

 14世紀末からイスラム教が主流になり、一転して仏像が破壊されました。壁画の顔の部分が傷つけられたのもこの時期のことでしょう。

 20世紀初頭、ドイツの探検隊が壁画を切り取って持ち帰り、戦禍で消失する目にも会いました。更に文化大革命の破壊を経ましたので、観光用に開放されている洞窟に見るべきものはありませんが、外観が整備されていますので、大自然の中に歴史的遺物が浮かび上がる景観の美を楽しむことができます。

5.牛肉麺の反抗

 我慢できない腹痛が襲ってきました。頭がくらくらするような熱気の中を公衆便所に向かって歩きます。ベゼクリクの崖の縁に作られた便所は穴が開いているだけです。崖の途中にできた便の堆積物の小山が真下に迫り、崖から立ち登る熱気に煽られた臭気が体中に染み通ります。

 黄色く水状になった「牛肉麺」が小山を伝って崖下に流れて行くのが見えます。一息つけました。水道はありませんから、女房に持たせたミネラルウォーターで手を洗い、待たせておいたタクシーに急ぎます。

6.牛肉麺のあがき

 ベゼクリクを流れる河は10キロ南の高昌城を潤していました。「城」は城壁に囲まれた都市を意味します。玄奘は旅の途中、高昌王・麹文泰(きくぶんたい)の招きで貞観2年(628年)、ここに滞在しています。

高昌城の廃墟と火焔山

 当時のシルクロードは、敦煌から北に向かい伊吾、そこから西に高昌を経て焉耆(えんき)に至るルートが主力でしたが、玉門関から西にロプノール湖を経て直接焉耆に抜ける漢代の道が再開されようとしていました。

 高昌は唐の意向に反して焉耆を攻撃しました。交易の利を丸食いしようとしたのでしょう。貞観14年、高昌は唐に滅ぼされました。唐の後、高昌はウイグル族が支配しましたが、13世紀末に蒙古との戦いに敗れ、街は放棄されました。

 高昌城の廃墟の北門を入って中央に進むと小高い台地があり、四方の壁を見渡せます。不揃いに城壁が崩れていますが、残っている最も高いところで10メートルくらい、底部の厚さも元は10メートルはあったことでしょう。

 砂漠の真ん中に浮かぶ巨大な城壁に囲まれた都市の偉容、城内の賑わい、市場、商人、ラクダ、行き交う人々、巨大な仏教寺院など想像力をかき立てられます。

 ここで再び腹痛です。トイレに行こうにも、ベゼクリク便所のトラウマから立ち直れません。我慢です。しかし今日の予定は、まだ一つ・・・。

7.牛肉麺の最後

 高昌の人々を葬ったアスターナ古墳群を最後にこの日の観光は終了。ホテルに戻るなりトイレに駆け込みました。ここで最後の「牛肉麺」を出し切りました。やはり最後に笑うのは私です。

 そろそろ夕食の時間です。昼食に食べたシシカバブ(羊の串焼)が気に入った息子に引かれ、ホテルの前の屋台で焼いているおっさんに、「不要辛的!(赤唐辛子はいりません)」と厳重に言い渡し、赤い粉にまみれていないものを3人で5串だけ食べました。

 「もう満足したやろ」と息子をなだめて、ホテルのレストランで中華料理です。ところが出てくるものがほとんど激辛、ビールで飲み下して何とか一日の食事を終えましたが、部屋に戻るなり再び下痢です。

8.帰りのバス

 翌日、ウルムチに向かうバス。トイレ休憩のあと、出発間もなく車内が騒がしくなりました。どうも一人が置き去りにされたようです。

 「普通、見殺しやろ」と私。牛肉麺との戦いに疲れて心が荒れています。

 「金が尽きたらこのまま野垂れ死にや」と畳み掛けますと、

 「だいたい、隣に座ってた人がなんで言うてやらへんねん」と息子が返します。

 バスがバックを始めました。ここは高速道路、おまけにサービスエリアから2キロは来ています。結局バックで逆走しておばはんを回収しました。

 「旅客を送り届けるというサービス精神はあるんや」と息子は感心することしきりです。

 ウルムチに戻って食べた昼食、それはイスラム教徒にとって禁断の広東料理でした(イスラム教徒は、豚は穢れたものと考えています)。広東料理にはほとんど辛いものはありません。

 蒸したての点心とラーメンに、家族三人がホッとしたのは言うまでもありません。そして私は、牛肉麺との苦闘に勝利した喜びに浸っていたのでした。

つづく