VOL.127 火薬の発明から

投稿日:2007年1月12日

火薬の発明から

 火薬は中国で発明されました。火薬の主原料の硝石は中国では紀元前から用いられていましたが、木炭と硫黄を一定の割合で混ぜて強い燃焼性を示す火薬というものができたのは、3世紀とも7世紀とも言われます。

やがて宋の時代(10世紀から13世紀)、武器に使用されるようになります。これが三大発明の一つに数えられる所以(ゆえん)です。

 火薬を使った武器は爆発物から銃、そして大砲へと徐々に発展を遂げて行きますが、発祥の地・中国では17世紀の清の時代を迎えて火砲の進歩が止まります。

 一方、ヨーロッパでは国家間の争いや海外植民地の拡大が続き、急速な進歩を遂げます。19世紀、アヘン戦争を仕掛けられた清はその圧倒的な格差を思い知ることになります。

1.蒙古襲来

 1274年、元軍が博多湾に上陸します。モンゴルは世界帝国を築く過程で、中国で使われていた最新の火薬兵器を取り入れました。鎌倉武士の度肝を抜いたのは鉄製の容器に火薬を詰めて爆発させる、今で言えば手投げ弾のようなものでした。

 大音響と共に、破片が飛び散り周囲の兵が倒れます。蒙古襲来絵詞に「てつはう」と書かれたこの兵器、今の仮名表記にしますと「てっぽう」、即ち「鉄砲」です。又、元軍は火薬の入った爆発物を弓を使って飛ばす火箭(ひや)も用いました。

2.朝鮮出兵

初期の大砲(模型

 蒙古襲来から三百年経ちました。1592年、戦国時代を勝ち抜いた豊臣秀吉は朝鮮に攻め入ります。中国は明の時代を迎えています。

 これに先立つこと50年、1543年に種子島に伝わった火縄銃も「鉄砲」と呼ばれ、日本で大量生産されて戦の様相を一変させます。鉄砲を持った兵士の集団が、密集して連続で発砲することにより高速で近づく騎馬軍団をなぎ倒します。

 この新戦法が定着し、全国で何万丁という鉄砲が使われました。当時、日本は世界一の鉄砲保有国でした。

 戦国の世で鍛えられた鉄砲隊を中心とする日本の戦法に朝鮮軍はかないません。ところが、李舜臣の率いる朝鮮水軍は大砲で武装していたのです。大砲を持たない日本の水軍を次々と撃破します。

 朝鮮救援に駆けつけた明の援軍も大砲を持っていました。日本軍が占領していた平壌はあっさり陥落、日本軍は敗走します。

3.明末の攻防

 1625年、清の太祖ヌルハチ率いる満州族の軍勢は山海関の手前にある寧遠城を攻めます。中国の北の守りは長城です。山海関は長城の東の端、明の都北京に近い要衝です。

 明軍はポルトガル製の大砲(紅夷大砲)を福建から運んで寧遠城に据え付けました。打ち出される弾の速度と破壊力は従来の物を遙かに超える驚異的なものでした。ヌルハチは、大砲の弾に倒れます。

 しかしながら明側の一団が大砲を手みやげに清側に寝返り、結局寧遠は陥落します。

4.太平天国の乱

 明が李自成の反乱軍に滅ぼされた後、清軍を先導して山海関を越えた明の武将呉三桂はその功績により雲南を与えられました。しかし結局は清によって滅ぼされます。この紛争が三藩の乱と呼ばれるものです。

 1678年、その最期を湖南省で迎えました。岳州(今の岳陽市)には呉三桂軍の大砲が残されました。

 174年後の1852年、太平天国軍が岳州を占領、呉三桂が残した大砲を引っ張り出して使います。こんなものでも役に立つ程、兵器の進歩は止まっていたのです。

5.アヘン戦争

 1840年、阿片と呼ばれる麻薬を売り込む英国が、それを禁じようとする清に戦争を仕掛けます。アヘン戦争の始まりです。第一次も第二次もアヘン戦争では何れも艦隊による砲撃に加え、海兵隊が上陸して陸戦で決着が着きました。

 海兵隊は、艦隊に乗船して敵前上陸を行う最強の部隊です。艦砲射撃の威力と共に、陸で質量共に上回っていた英国軍は簡単に勝利します。

1859年6月25日午後、第二次アヘン戦争で結ばれた天津条約批准書交換にやってきた英国艦隊と清軍との戦闘が始まりました。

 天津郊外、白河(現海河)河口の陣地に据え付けられた清軍の大砲が艦隊に向けて火を噴きます。戦闘は、翌日まで続きました。

 16隻の英国艦隊の内、4隻が撃沈、2隻が拿捕され、残りは上海へ向かって敗走しました。清軍が勝ったとはいえ、固定された陸の砲台と艦隊との至近距離の戦いとしては戦果が乏しいと言わざるを得ません。

6.情報力

 中国は、四千年の歴史を誇る世界で最も豊かな地域でした。歴代王朝はもとより、清でも「匹敵する国など他にあろうはずがない」という大国意識が支配していました。

 その根底には中国以外の世界を「文明のない遅れた辺境」と見下す根強い中華思想があり、国外の情報収集も怠りがちでした。

 「辺境」では、植民地獲得と交易の富を求める争いが続いてきました。スペイン、ポルトガルからオランダの優勢期、英仏抗争を経て、19世紀は英国の黄金時代になっています。

 更に、英国では18世紀末に産業革命が起こり工業化社会が始まっています。技術革新の速度が高まり、船舶も大型化、武器も飛躍的に進歩して行きます。

 ただ、清にはこれらの情況が解ってさえいれば対処する国力はあったのです。武器を購入することもできたはずです。清は武力格差以前に、情報を収集しようとする意欲と収集力で敗れていたのです。

7.経済の戦い

 火薬が武器に使われるようになって千年近い月日が経ちました。二度の世界大戦を経て、武力で富を求める時代が終わりました。世界中の人々が経済活動を通して豊かさを求める、経済中心の世の中になったのです。

 経済の戦いでは情報が最も重要な鍵を握ります。情報を収集し、情報で武装して戦います。その主体は国家のみならず、企業や個人に広がりました。

この戦いを支えるコンピュータなど情報処理、情報伝達における重要な発明は、米国で成されました。これらが将来、火薬に匹敵する世界発明として評価されるものか、興味が湧くところです。

つづく

写真:初期の大砲(模型)