VOL.143 天津の成り立ち <前編>

投稿日:2008年5月16日

天津の成り立ち <前編>

 中国4直轄市(北京市、上海市、天津市、重慶市)の一つでありながら影の薄い天津。

 北京なら首都としての明確なアイデンティティーがありますが、一般の天津人は自分達の街を一言で説明することができませんでした。

 天津の名の由来を「明の初期、燕王が軍を率いてここで渡河して首都南京を落とし、永楽帝に即位したので天子の港という意味で天津です」と紹介し、明代にできた歴史の浅い特色のない街と考えていました。

 観光と言えば「天塔」というテレビ塔が一番でした。他の大都市にも同等のテレビ塔がありますが、観光名所になっているところなど天津以外にはありません。天后宮(てんごうきゅう)のある古文化街も新しく作られたものです。

 多くの天津人は自分達の街の歴史に興味を持ちませんでした。それが1998年に始まる発掘調査で一変します。

1.林黙信仰

天津城の天后宮山門(1936年撮影。元明清天妃宮遺址博物館展示より)

 宋建国の年、建隆元(960)年に福建省に生まれた林黙(りんもく)という女性が神として崇められ、死後も航海の安全を守る神として祀られました。その廟が天后宮です。

 宋の時代、石炭火力の利用が始まり陶磁器、金属製品、その他工業製品が豊かに生産されました。又、鉄製農具の普及で農業生産性が高まり、更に農地開拓も進みました。

 商品作物の栽培も増え、それらを加工する工業も盛んになりました。そうしますと物流が盛んになり海上輸送が増えました。林黙信仰はこういう時代背景で盛んになっていきました。

2.天津の始まり

 女真族の建てた金が強大になり宋は華北を失います。金の首都は燕京、今の北京です。物資の豊かな江南(揚子江下流域)から燕京への海上輸送拠点として、今の天津あたりの集落が港町として発展を始めます。

 当時の地名は直沽(ちょくこ)。日本では体面を意識した時に「沽券に関わる」と表現しますが、沽券とは売買の証文のこと。「沽」は売買を意味しますので、交易の拠点であったことを物語っています。

3.直沽の発展

再建された現在の天后宮(入場券より)

 金、南宋の両国を滅ぼして中国を統一した元も都を大都、今の北京に置きました。モンゴル国境に近い北方の、乾燥して貧しいこの場所が史上初めて全中国の首都になったのです。

 巨大化した大都の物資需要は穀物だけでも燕京時代とは比較にならないほど膨大でした。江南から運ぼうにも大運河は金代に廃れています。元は運河を整備すると共に海上輸送に力を入れました。

 既に宋代に羅針盤が発明されています。アジアは大航海時代を迎えたのです。

 木造船の時代、海岸に住む船喰虫から船を守る為に港は海から少し川を遡ったところに設けます。天津一帯は三つの河川が上流で合流するため氾濫が多く、台地状になっている左岸べりが主要港になりました。

 大直沽です。大直沽から更に約6キロ遡った大運河と交わる地点も栄えました。小直沽です。

4.天后

 各王朝は海上交通が盛んになるにつれ民間で人気の高い林黙を保護支援するようになりました。宋朝は「婦人」、「妃」の位を与えました。元朝、明朝は「天妃」、清朝は「天后」といった具合で、廟を建ててその位にふさわしい祭祀を行いました。

 元は海上輸送の重要性に鑑み、積出港の杭州はじめ主要港の寧波、福州、泉州などに林黙を祀る廟「天妃宮」を建てました。天津は大直沽と小直沽の二カ所です。前者は海港、後者は運河港という区別があったのかもしれません。

つづく

写真上:水上公園から天塔を望む
写真中;天津城の天后宮山門(1936年撮影。元明清天妃宮遺址博物館展示より)
写真下:再建された現在の天后宮(入場券より)