VOL.111 「約2万円」の感動

投稿日:2005年9月09日

「約2万円」の感動

 国内線が到着する上海虹橋空港のバス乗り場は、陽炎が立つほどの熱気です。大阪から飛んでくる女房と子供を迎えに、国際線の浦東空港まで行くバス停を探します。夏休み恒例の家族旅行の始まりです。

1.空港バス

 バスにたどり着くとシャツの下を汗が流れ落ちます。10時25分発、気温は既に35度を超えています。

 高速道路を通るにもかかわらず定員以上に詰め込みます。二人のおっさんはドアステップに座り込み、別の一人は通路に立ち、子連れの母親は子供と相席にさせられました。中国の子供は、一人っ子政策の影響でわがままですから、結局母親が立つことになりました。

 携帯電話のオーケストラの始まりです。一人が途切れたかと思うと、間もなく別の人が話し始めます。隣のおっさんは電話が好きで、耳を覆いたくなるほどの大声の持ち主であることがわかりましたが、手遅れです。

 三重奏になったり、四重奏になったり、多少変化しながら到着までの1時間、途切れることなく続きました。

2.リニアモーターカー

 「早い!、無茶苦茶早い!」430キロは、私の人生の中で地上で味わった最高の速度です。ここまで早いと、お茶がこぼれる程の揺れも許されてしまいます。

 息子と一緒に運転席をのぞき込みました。運転士は女性で、足を組んでハイヒールの靴をつま先に引っかけてぶらぶらさせて横を向いています。隣には客室乗務員がパイプ椅子を持ち込んで座っています。

 運転士は、おしゃべりとハイヒール揺すりの合間に、時々うちわであおいでくつろいでいます。モニター画面も、たまには見ている気配があります。発車から到着までの8分間は完全自動運転でした。

 恐るべし!、中国では超高速鉄道の完全無人運転に挑戦中です。運転席の様子はしっかりとカメラに収めました。

3.地下鉄の選択

 リニアは片道50元(約700円)、一般の中国人にとっては結構高いものになります。おまけに浦東空港と市内を結ぶ予定が、「諸般の事情」という名目の建設コスト問題により途中の龍陽路駅止まりですので、ガラ空きです。

 龍陽路駅から市内まで、タクシーで行くか、地下鉄に乗り換えるか。せっかくですから中国の公共交通機関を女房子供に体験させることにしました。翌日の杭州行きの切符を買う為に上海駅に向かいます。

 地下鉄料金は、たったの3元です。人民広場で地下鉄2号線から1号線に乗り換えです。

4.地下鉄車内

 「デジカメが、ないッ!」

 一瞬血の気が引き、体温が何度か下がったようです。頭が痺れたような感覚、指は空虚にポケットを探ります。ポケットからカメラの紐が出ていたのでしょう、おまけに外国人と一目でわかる荷物の多い三人連れ、スリにとっては「飛んで火に入る夏の虫」です。

 経済的な損失はもとより、中に入っていたリニア運転席の写真は余りにも残念です。完全無人運転であれば、低コストと安全運行を両立させるべく日夜努力を重ねるJR各社やそれを指導監督する国土交通省の指針にも影響を与える可能性があったはずです。

 無論、家族旅行の写真を残せないことも重大な問題です。頭がボーとして、正常に働きません。無いと解っているポケットの中を探り、あるはずのない鞄の中を探します。ショックが大きすぎて暫く立ち直れません。

5.上海駅

 魂の抜け殻のようになって、地下の連絡通路を切符売場を探しながら歩きます。頭が動き始めました。これ以上の損失を出さない為に、先ずは人混みから離れなければなりません。近くの階段を上がって地上に出ました。

 蒸し返る熱気、気温は40度を超えているようです。ビルの照り返しがまぶしく、暑く、汗が噴き出し、不快です。

 周りを見回します。切符を売るビルがみつかりました。熱気の中に浮き上がって見えます。道路を渡って、ビルに入ると14もカウンターがあります。当日券の窓口、10日先までの切符や行き先によって分かれています。

 全てのカウンターに行列ができています。どの窓口で買えるのでしょう。尋ねて、行列に並んで、15分で買うことができました。幸運です。

6.脱出

 駅の回りではタクシーは止まってくれません。駅の人混みから離れるには歩くしかありません。観光用のカジュアルな服装は、女房のトランクの中。私は前日、仕事で北京に居ましたのでまだスーツを着ています。

 汗は袖の中に満ち、スーツが腕に張り付きます。手提げ鞄の中には着替えからパソコンまで、出張道具一式が入っていますのでどっしりと重く、握力の限界が近づきます。朝からの移動で疲れた体が消耗していきます。

 大きな交差点に着きました。向かいに百貨店が見えました。選択の余地はありません。目はその入口の一点を目指し、路を横切り、ふらふらと中に入りました。

7.百貨店

 強烈なエアコンに、生気が蘇ります。入口で訊ねると4階にデジタルカメラを売っているそうです。気力を振り絞ってエスカレーターで上がり、迷いながらも売り場にたどり着きました。ソニーなど日本の1.5倍の価格が付いた商品が並んでいます。

 アホらしいので、当座をしのぐだけの最低機能商品を買うことにしました。頭がボーッとして、中国では常識の「値切る」という意識が欠落し、最も安いアイテムの「現品限り」を言い値のまま買いました。1,480元。約2万円の出費です。

8.霊隠寺

 翌日、杭州で一番有名な霊隠寺に着きました。創建は4世紀、現存の建物は清代のものとしていますが、実は1955年に観光資源として新築されたものです。入山料35元、そして寺の参観料が30元、併せて65元(約千円)は驚きの水準です。

 元はとっくに取り返した上に、ドル箱になっているのでしょう、新たな棟を次々と増築しています。エキストラ役の僧侶が読経を行ったり、本物の寺院を実感させるリアリティーには敬服です。

 唯一古い物は宋代の4本の石塔、それに寺の外の崖に彫られた石仏です。塔を撮ろうとしてカメラを構えましたが何も見えません。

 「ファインダーが無い!」

 カメラの6つの面を仔細に確認しましたが、みつかりません。その時初めてこのカメラが見たこともないブランドであることに気が付きました。百貨店の値札には間違いなく「Kodak」と書いてありました。体中の力が抜けて行くのを感じました。

「約2万円」の西湖の夕暮れ

 二日後帰国するなり、カメラの画像を読み込みました。画像は全てピンボケです。カメラは直ぐに作動しなくなりました。ただ、二十数枚の中で唯一、使えそうなものがありました。西湖の夕暮れを写したものです。読者の皆様と一枚「約2万円」の感動を分かち合えれば幸いです。

つづく

写真上:霊隠寺チケット
写真下:「約2万円」の西湖の夕暮れ