VOL.112 宋代の古建築

投稿日:2005年10月15日

宋代の古建築

 中国では王朝交替時の動乱や唐代の宗教弾圧による破壊、更に近年の文化大革命で宗教建築物が破壊されたことから、木造の古い建物はほとんど存在しません。ところが浙江省には千年近く前の宋代のものが二つも残っているというのです。

 一つは杭州の六和塔、もう一つは寧波(にんぽー)の保国寺大雄宝殿です。それらが現在まで残ったのは破壊を免れ、修復工事などの幸運に恵まれたこともありますが、基本的に良い素材と高い技術で頑強に建てられたことが大きな要因です。

 宋という豊かな時代の背景と共に紹介致しましょう。

1.宋王朝

 現代中国の文化や生活習慣の主たる基礎は、宋の時代に出来上がったと言われています。宋は、唐滅亡後の五代十国と呼ばれる分裂状態の中から西暦960年に建国、中国をほぼ統一します。

 北方を遼に支配され、次いで金に圧迫され一旦は滅びますが、都を黄河中流域の開封から華中の臨安(後の杭州)に移して再興します。遷都以前を北宋、以降を南宋と呼びます。宋は元に滅ぼされる1279年まで約三百年続きました。

2.その時代

 石炭火力が用いられるようになり、商工業が飛躍的に発展しました。宋の時代に英国に先駆けて産業革命が起きなかったのは謎とされているくらいです。世界の三大発明は何れも中国で成されましたが、その内、火薬と羅針盤は宋代でした。

 羅針盤の発明は、外洋航海を安全なものにしました。船舶も大型化しました。絹のみならず、鉄製品、銅銭、磁器が大量に輸出されて行きました。

 更に宋では、15世紀のグーテンベルクの活版印刷に先駆けて木版印刷が普及し、多くの書物が印刷され、知識や技術が急速に伝播し、普及しました。

3.日本への波及

 宋で大量生産され、日本に輸入された鉄は農具に加工され、農業革命をもたらします。新田が開墾され耕地が増えました。農業生産性が高まり、余剰米ができました。二毛作が始まり、麦の生産が増えました。

 楮(こうぞ。和紙の原料)、藍(あい。染料の原料)、荏胡麻(えごま。油の原料)などの商品作物が盛んに栽培されました。茶の栽培も始まりました。余剰米を原料に酒が商品として作られるようになりました。

 大豆を原料に味噌が作られ、普及していきます。各種手工業製品が大量に作られ、以前とは比べものにならない量の物資が流通するようになりました。

 これらの流通を支えたのが宋から輸入された銅銭です。日本でも貨幣経済が始まったのです。南宋の終わり、即ち鎌倉時代の日本でも現代に続く生活文化の基礎ができていきました。それは、室町時代に更に太い流れになって現代に繋がって行きます。

4.南船北馬(なんせんほくば)

 馬で運べる物資の量は限られています。日本でもそうですが、古来物資は基本的に船で運ばれました。中谷酒造のある番条(ばんじょう)という集落は、室町時代に正暦寺で造られた酒を堺の港に運ぶ為に整備された河川港です。

 大和と堺、後には大坂は、大和川や大和川と淀川を結ぶ水路で結ばれていました。それは、鉄道輸送が普及する大正時代まで続いたのです。

 水路が各集落に張り巡らされた華中では、物資は隅々まで大量に運べました。物流の太さの違いは、経済規模の格差に繋がります。宋代以降、江南は圧倒的な経済力を持つに至りました。

 大きな街は、大きな水路に面しており、特に大きな街が江蘇省の蘇州や浙江省の杭州です。杭州は華北の北京まで物資を運ぶ大運河の起点でもあり、海に近く、宋代以降の発展は著しいものがありました。

5.六和塔

 杭州の街の南は銭塘江という大河です。V字型に大きく切れ込んだ杭州湾に流れ込む為、満潮時には海水の逆流が起きます。特に中秋の名月の頃、怒涛の大逆流が起きることで有名です。銭塘江は船の往来が盛んで物資輸送の大動脈です。

 銭塘江北岸の丘の上に最初に塔が建てられたのは開宝3(970)年のことです。五胡十六国時代の呉越国の銭王が、安全航行のため逆流が鎮まるように願ったのです。現在残るのは、南宋時代の隆興元(1163)年に再建したものです。

 とは言っても残るのは、塔の中心の木造骨格部分だけです。明代の大改修を経て、清代の光緒26(1900)年に今の13層の塔が完成しました。創建時に比べ格段に太い塔になりました。

 内部は7階になっており、宋代の構造を見ることができます。最上階に立って銭塘江を見下ろしました。川面には多くの内航船の往来が見えます。850年間変わらぬ位置から見える同じ景色に違いありません。ただ現在は、目の前に自動車と鉄道用の二階建ての巨大な橋が懸かり、対岸に現代建築群が見えます。

6.仏教の聖地

 寧波は遣唐使の時代以来、日本に馴染みの深い港町です。杭州から東に杭州湾の南岸を約140キロ、快速列車で2時間弱です。

 寧波には、仏舎利(ぶっしゃり。釈迦の遺骨)が現存するという阿育(アショカ)王寺、それに臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元という鎌倉仏教の二巨人が修行した天童寺があります。当時は景徳禅寺と呼ばれていました。

 この二寺は、観光客はもとより日本の仏教関係者も多数訪れますが、国家管理された宗教施設は真の信仰の場にはなり得ません。建物は古い物でも清代、多くは現代に建てられたものです。

7.保国寺

保国寺チケット

 宋代の建物が残るこの寺は寧波市北区の山中にあります。現在、宗教活動には使用されておらず、国の保護建築物として公開されています。山門をくぐって石段を上がって行きます。訪れる人はまばらです。 

 後漢代の創建と言うのは、中国仏教の草創期にあたりますので、その真偽は別にしても、唐代には存在したようです。会昌5(845)年の廃仏令で破壊され、広明元(880)年に再建されたとしています。

 現在残る建物は、北宋の大中祥符6(1013)年に建てられた大雄宝殿です。真ん中の3間だけがこの時のもの。その両側は清代に増築されました。庇を突き出す現在の外観は、清代のものです。

 中に入ると、正面の大きな仏壇に仏像はありません。文革時代、仏像を破棄することで建物の破壊を免れたのでしょうか。仏壇の右側の柱には継ぎが入り、清代の補修の跡かと思われます。天井を見上げると、円形のドーム状に造られています。

 日本では見たことのない構造です。この天井にはクモの巣も張らず、特別な効果があるとしています。中国で初めて見た千年前の木組みに、感動がじわりと広がりました。

つづく

写真上:六和塔チケット
写真下:保国寺チケット