第23話 物部氏と善光寺 【アラカン社長の徒然草vol.31】

 『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。この仏像は、仏教の受容を巡っての崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座いたしました。皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。創建以来十数回の火災に遭いましたが、その度ごとに、民衆の如来様をお慕いする心によって復興され、護持されてまいりました。(信州善光寺公式サイト)

1.物部守屋

 「善光寺本堂で手を合わせることは、内々陣左手に鎮座する阿弥陀如来に祈りをささげることとともに、内々陣中央に峙立する守屋柱に宿る物部守屋の霊を鎮魂することに通じる。
 また戒壇めぐりを行うことは、守屋柱を一周し、錠前、すなわち鎮魂の法具の独鈷によって守屋柱に宿る守屋の霊を封ずることに通じる。いいかえれば毎年、七百万人もの人々が守屋の霊魂を現在もねんごろに鎮め続けていることになる。」(宮元健次著「善光寺の謎」)
 実は善光寺は物部守屋鎮魂の為に建てられた寺だったというのです。物部氏は、丁未(ていび)の乱(587年)で蘇我氏に滅ぼされます。最後の当主が守屋。守屋の霊魂は祟ったらしく、鎮魂のために特別な施設が必要とされたのでしょう。本堂一番奥の内々陣と呼ばれる祭壇の中心は守屋の霊魂が宿る守屋柱です。その左側に本尊、右側に本田善光家族像があります。現代の参拝者の多くはその事実を知らず、ただ阿弥陀如来の御利益を求めているのが実態です。

2.最古の仏像

 善光寺の本尊は日本最古の仏像とされています。日本書紀では、百済の聖明王が欽明天皇に贈ったものを蘇我氏が向原(むくはら)の家(現在の明日香村豊浦)を寺にして祀っていたところ、物部氏が570年に仏像を難波の堀江に捨て、寺を焼いたとしています。
 現在、明日香村豊浦にある向原寺(こうげんじ)の前身は豊浦寺(とようらじ)という尼寺でした。向原寺境内の発掘調査で出土した瓦から豊浦寺は7世紀第二四半期に建設されたことが判明しています。その下の層には掘立柱建物跡があり、出土する土器から7世紀初頭の建物跡であることも解っています。これは推古天皇が飛鳥最初の宮として築いた豊浦宮と推定されています。
 とするならば、日本書紀が寺を焼いたと記す570年には、豊浦寺も豊浦宮も存在していません。では蘇我氏の家が建っていたのでしょうか。
 「倭王は、土地と人とを領有・支配する一般氏族と異なり、農耕神に仕える祭主であり、その宮は神事の場であった。祭主が死去すれば、次の倭王は穢れなき土地と宮を求め、そこに遷る。高句麗・百済・新羅、また倭の氏族においても例をみない、歴代遷都の慣行が、倭において厳守されていた。」(季刊明日香風119「再考・飛鳥仏教」九州大学名誉教授・田村圓澄)
 豊浦は甘樫丘(あまかしのおか)の北西隣接地であり、丘と飛鳥川にはさまれた狭い地域です。仮に豊浦宮に先だって蘇我氏の家があったとしても焼かれた建物は縁起が悪く、その跡地や近辺を宮殿にするはずはありません。
 即ち、蘇我氏の家があったとしてもそれは焼かれなかったのです。物部氏は仏教の受容をめぐって蘇我氏と争ったかもしれませんが、寺を焼くこともなければ仏像を捨てることもなかったということになります。

3.江戸時代の発見

 明和9(1772)年、向原寺に隣接する難波池(なんばいけ)から金銅の観音菩薩像頭部が発見されました。その像は身体部分、台座、光背が補われ、同寺に祀られています。
 この仏像について奈良国立博物館名誉館員・鈴木喜博氏は、次のように記します。
 「目鼻立ちの構成は飛鳥後期の小金銅仏(七世紀末八世紀前半)の造形感覚をなお十分に留めており」、「仏教伝来当時の百済仏ではなく、飛鳥時代後期、いわゆる白鳳期の一作と考えられるのである。」(季刊明日香風119「三十六年ぶりに戻った向原寺(旧豊浦寺)の金銅観音菩薩像について」)

 普通、仏像の首を折って池に投げ捨てるなどという罰当たりなことはしません。おまけに発見された地が「向原」で、しかも「難波」池というのは出来過ぎです。普通、「難波」といえば大阪の地名を思い浮かべます。日本書紀に記された「難波の堀江」がこの池のこととすれば、日本書紀に書かれた事件のあった570年と、700年から710年頃とみられる仏像制作年との差をどう解釈すれば良いのでしょう。
 日本書紀が完成するのは720年。時の権力者は藤原不比等。藤原氏の都合に合わせて「日本書紀」という歴史を創造し、創造した歴史に合わせて現実の痕跡をねつ造していったものと私は考えます。仏像が製作された年代は日本書紀の構想を練り、編纂していた時期にピタリと重なります。豊浦寺境内の池に出来合いの仏像を投げ入れ、「難波池」と命名したのでしょう。後世の人に物部氏の愚かさを実感させ、仏像を持ち出した罪を物部氏に着せるのが目的と考えられます。

4.歴史の創造

 日本書紀で創造された歴史の実例をもう一つ挙げましょう。
 香取神宮(千葉県香取市)に祀るフツヌシ神です。タケミカヅチ神と共に葦原中国(あしはらなかつくに)に天降り、大国主(おおくにぬし)に国を譲らせた神です。考古学上の成果と照らし合わせてみますと、これらの神を束ねる太陽神アマテラスを信仰する勢力が3世紀後半に出雲地方にあった大国主の勢力を征服しれたことを示しています。
 このフツヌシ神は712年完成の古事記には記載がありません。即ち、古事記完成以降、日本書紀完成までの8年間に考案された神であることを示します。鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)にはタケミカヅチ神を祀り、利根川をはさんで近接する香取神宮にはフツヌシ神を祀りました。藤原不比等は、古事記ならびに日本書紀に記載された内容を現実のものにする為に、白鳳時代末期から奈良時代初期、即ち700年頃から720年頃に神社を造営して行ったと推定されます。

5.善光寺の位置

 勝者タケミカヅチを祀る鹿島神宮は常陸国(ひたちのくに)にあります。即ち日が昇る地です。日が沈む西には敗者大国主の長男であるタケミナカタを祀る諏訪大社があり、守屋山を御神体としています。そしてこの守屋山の真北に善光寺があります。これらの位置関係は、宮元健次氏が先に引用した著書「善光寺の謎」で指摘されています。
 鹿島神宮の緯度は35度57分56秒。守屋山は長野県諏訪市と伊那市の境、緯度は35度58分03秒。その差7秒は217メートル。誤差の範囲です。
 ところで、古事記と日本書紀の内容はかなり重複しています。両書編纂にあたっては構想段階からかなりの年数がかかったことは想像に難くありません。古事記の完成は712年。構想は遅くとも白鳳時代の7世紀終わり頃から練り始められたはずです。その構想の下に善光寺、諏訪大社、鹿島神宮はセットで建設されたものと私は考えています。善光寺の創建は、出土した瓦から7世紀末から8世紀初期であると推定されています。
 最初に引用した「善光寺縁起」では本田善光は仏像を「はじめは今の長野県飯田市でお祀り」したといい、元善光寺(飯田市座光寺)がその場所とされています。藤原不比等は当初この地に善光寺を建設するつもりだったのかもしれません。宮元健次氏にならって緯度を比較してみますと、敗者大国主を祀る出雲大社と元善光寺の南に見える神之峰が同じ緯度です。神之峰はひときわ目立つ山で、テレビ各局の中継局が設置されています。この山を「守屋山」と名付けようとしていたのかもしれません。

6.善光の謎

 我々が善光寺で拝見するのは本尊の写しである前立(まえだち)本尊です。本尊の阿弥陀如来像は秘仏とされ、公開されていません。しかしながら、前立本尊を見る限り仏教伝来の頃の日本で最も古い仏像の一つであろうことが推測できます。創建以降、現代に至るまで厚い信仰を集めた所以です。この像を「難波の堀江」で拾って運んだのが本田善光とされています。先に日本書紀の記述がねつ造であり、仏像は捨てられなかったことは述べました。仏像はおそらく豊浦寺に祀られていたものを善光寺の為に持ち出したと思われますが、それを運んだとされる本田善光も創作なのでしょうか。
 日本の隣国百済は660年に滅びます。百済最後の王は義慈(599年生、660年没)。その王子が善光です。善光は人質として来日し、693年(696年説もあり)に日本で生涯を終えました。亡くなった年と善光寺創建時期が近接しているのは気に懸かります。この善光が物部守屋の鎮魂を託されたのでしょうか。物部氏と百済の関係も気に掛かるところです。
 人名を寺の名に使う特異性。仏塔がなく、本堂が全てと言ってもよい特殊な伽藍配置。そして無宗派。善光寺は鎮魂を目的とした特別な施設であることを思い知らされます。記録に残るだけでも11回焼け、その都度再建されてきました。極楽浄土へ導いて下さる本尊への信仰が再建をかなえたことは事実ですが、一方で守屋鎮魂の施設は必ず存在し続けなければならなかったという背景も軽んずべきではないように思えます。

第23話終わり

写真1:善光寺山門
写真2:向原寺
写真3:難波池(向原寺隣接地)
写真4:豊浦宮掘立柱抜き跡(左奥)と石敷(向原寺境内)
写真5:善光寺山門より臨む本堂
写真6:善光寺本堂東面

2012年3月
  中谷酒造(株)代表取締役  中谷正人