第28話 日本海から大和への物流 <後編> 【アラカン社長の徒然草vol.37】

 「東大寺の北西、若草中学校のある小高い丘にひっそりと城跡碑が立つ。戦国時代の武将、松長久秀が大和支配の居城として築城した多聞城跡である。多聞城は天守閣の原型となる日本初の四階櫓を備えるなど、さまざまな先駆的技術や意匠が施された斬新な城だった。
 宣教師ルイス・フロイトが記した「日本史」には、多聞城について詳しく紹介されている。白亜に輝く壁と、黒い甍の城郭。多層の櫓があり、建物内部は金箔地の障壁画が飾られていた。「世界にこれほど立派なものありと思われず」とフロイスも驚嘆している。
 織田信長が築城した安土城は多聞城をモデルにしたと言われ、豊臣秀吉の大阪城にも多聞城の建築法が用いられた。」(奈良信用金庫発行「ならつう」2012springより)

 松長久秀は築城にあたって、なぜこの地を選んだのか。それは物流ルート確保の意味があったからです。琵琶湖から大和に到る河川交通の流れを追っていきましょう。

6.琵琶湖から巨椋池へ

多聞城跡 日本海に面した敦賀から峠を越えて琵琶湖畔の塩津、或いは大浦に運ばれた荷は船で大津に運ばれました。琵琶湖は日本最大の湖です。日本海側から畿内に運ばれる物資の量が増えるに従い、湖上交通に使われる船は大型化して行きました。江戸時代には米百石を積める「丸子船」が活躍し、昭和30年代まで現役で活躍しました。
 大津からは平底の川船に積み替えて瀬田川を下ります。瀬田川は7キロほど南に流れ下り、そこから西に向きを変え山間部を蛇行しながら京都府に入り宇治川と名を変えます。宇治で平地に達し、巨椋池(おぐらいけ)へと流れ込みました。巨椋池には北から桂川と鴨川が合流し、南から木津川が合流して巨大な湿地帯を形成していました。桂川の上流は保津川で、丹波の森林地帯から木材が運ばれてきます。鴨川を遡れば京都へ。木津川を遡れば大和、そして伊賀へ。巨椋池から流れ出る淀川を下れば大坂へと物資は運ばれて行きました。巨椋池は近畿における河川交通のターミナルでした。

7.巨椋池

多聞城跡の丘と佐保川に懸かる橋 巨椋池は巨大でした。京都市伏見区には中書島(ちゅうしょじま)や向島(むこうじま)という地名がありますが、これらは巨椋池に浮かぶ島でした。電車の駅で見ますと、北岸は近鉄京都線桃山御陵前から、南岸は伊勢田駅までの約6キロ。東岸は京阪宇治線六地蔵駅から、西岸は阪急京都線大山崎駅までの約11キロ。
 巨椋池は、河川から流れ込む土砂によって徐々に縮小が進み、豊臣秀吉の河川改修によって更に縮小。昭和8年から16年(1941)の干拓事業で残っていた8平方キロが農地に姿を変え、消滅しました。今日、近鉄京都線に乗りますと向島駅と小倉駅間の西側に正確に碁盤目状に区切られた田畑、点在する蓮畑が車窓から見えます。
 応神天皇がカニを召し上がった木幡村は、向島駅の東3キロ。現在はインゲン豆を伝えたとされる隠元和尚が開いた黄檗宗万福寺が建つあたりです。

8.木津へ

木津川(奈良街道の起点から国道24号線の橋を望む) 巨椋池から木津川を南に約15キロ遡ったところが木津。この間の川の流れは緩やかです。木津川の地名の由来となった木津(京都府木津川市木津町)は、その名の通り木の津(港)でした。8世紀に建設された平城京に使用する木材を丹波や琵琶湖方面から運ぶ時に使用されたのがその名の始まりのようです。木津の地は、古代から奈良盆地北部への物流拠点として重要な役割を果たしてきました。

9.木津から奈良へ

木津本町通りの街並み 木津から南、奈良に向かって一本の街道が延びています。かつて奈良街道と呼ばれた道です。木津の街は河原から奈良に向かう奈良街道沿い。この区間は「本町通り」と呼ばれ、約5百メートルにわたって続きます。
 町外れから緩やかな上り坂を南下すると約3キロで奈良豆比古(ならつひこ)神社。ここが峠です。ここから般若寺(はんにゃじ)までの約1キロは平坦です。そこから奈良坂とよばれる坂を約1キロ下ったところが東大寺転害門(てがいもん)。その西側が多聞城跡です。奈良豆比古神社も般若寺も奈良時代の創建と考えられていますので、この街道は古来位置を変えていないことが解ります。
 奈良豆比古神社には室町時代、或いはそれ以前の古式を残す翁舞が伝承され、国の重要無形文化財に指定されています。般若寺は楼門を始め鎌倉時代の建物が残り、その後度々災禍に遭うも再建されており、この街道が継続して賑わったことを裏付けています。

10.多聞城の立地

般若寺楼門(国宝) 日本海側から大和の入口、東大寺転害門までのルートを追ってきました。平城京の地図をご覧になると解りますが、東大寺は碁盤目状の平城京の北東部に突きだした部分に位置します。奈良盆地の北東端です。物資はここから平城京を始め奈良盆地一帯に運ばれていきました。或いは、奈良盆地の産物がルートを逆にたどって北に流れて行きました。
 転害門と多聞城跡との間にある東之阪町に佐保川最北の河川港があったと推測されます。佐保川は西に流れた後南に向きを変え、平城京の南門である羅城門西脇を南下し、中谷酒造のある大和郡山市番条町を経て大和川と合流。西流して大阪湾に流れ込みます。
 番条(ばんじょう)は奈良盆地北部最大の河川港。清酒発祥の地・正暦寺で醸された酒を積み出す港として整備されてきました。大阪湾の堺は中世には日本最大の貿易港として栄えました。松長久秀が築いた多聞城は、物流ターミナル・巨椋池から大和に繋がる物資輸送ルートの到達点に位置すると共に、大和川水系の物流拠点の起点でもあります。重要な物資輸送ルートを押さえる目的で多聞城の場所が選ばれたことが解るのです。
 因みに松長久秀と大和国の支配を争った筒井氏は、番条と佐保川を境に隣接する大和郡山市筒井町を拠点としていました。久秀が滅んだ後に筒井順慶が築く郡山城は番条の西北3キロの場所です。中世の城郭拠点の選定には物流が大きな要素になっていたことが解ります。

11.奈良盆地と物流

東大寺転害門(国宝) 奈良県田原本町にある唐古・鍵遺跡は、弥生時代を通じて栄えた環濠集落です。ここからは今日の行政区分で言うところの滋賀県、三重県や愛知県、岡山県の土器が発掘されています。滋賀県の土器はこのテーマで追ってきたルート、三重や愛知は木津川上流からのルート、岡山は瀬戸内海から大和川を遡るルートでもたらされたものと推測されます。古来、大和の地が栄えたのは物流の要(かなめ)であったことが主たる要因と考えられます。
 中谷家創業前の先祖は「鈴鹿」(すずか)という屋号で、奈良盆地で収穫された棉花を伊賀(三重県)や伊勢(三重県)に販売していました。番条の港から積み出し、奈良の東之阪町で荷揚げして陸路木津へ。木津から木津川を遡って伊賀へ。伊賀から鈴鹿川を下って伊勢へと輸送していたのです。
 今日このルートにほぼ沿う形でJR関西本線が走っています。物流が河川から鉄路に切り替わった時代の名残であることは言うまでもありません。

第28話終わり

写真1:多聞城跡
写真2:多聞城跡の丘と佐保川に懸かる橋
写真3:木津川(奈良街道の起点から国道24号線の橋を望む)
写真4:木津本町通りの街並み
写真5:般若寺楼門(国宝)
写真6:東大寺転害門(国宝)

2012年9月
  中谷酒造(株)代表取締役  中谷正人