第59話 「明治維新という過ち」より 【アラカン社長の徒然草vol.73】

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「明治維新という過ち」(毎日ワンズ刊) 井沢元彦氏は、「逆説の日本史17江戸成熟編」の中で幕末の日本では、上は徳川家から下は庶民に至るまで、天皇一神教が信じられており、それがいわゆる明治維新、即ち討幕と明治政府成立の基礎であったことをその経緯と共に解明しています。私はその内容を第56話「幕末の思想」(2015年5月)で解説しました。
 その明治維新。「明治維新という過ち」(毎日ワンズ刊)によれば、「明治維新」とは昭和になってから、「昭和維新」を唱える極右勢力によって一般化した言葉であるばかりか、我々が学校で教わった内容は新政府によって作られた虚構であったというのです。著者の原田伊織氏は昭和21年生。大阪外大を出て広告、編集制作の世界で活躍してきた方です。武士階級賛美と徳川幕藩体制の擁護が過ぎる点を除いて、私は同書にすっかりはまってしまいました。以下引用は、特に断らない限り全て同書からのものです。

1.勤王の志士

 天皇中心の近代国家建設を目指し幕末に活躍する若き勤王の志士達。それを弾圧する幕府。こういった構図は作り話でした。
 「勤王志士=長州テロリストと直訳していただくと間違いはない。(中略)文久年間に入ると、京には『天誅』という名の殺戮の嵐が吹き荒れた。そのリーダー格が、桂小五郎(木戸孝允)、吉田松陰とその徒党、高杉晋作、久坂玄瑞、井上聞多(馨)、寺島忠三郎、吉田稔麿、木島又兵衛、赤根武人、中村九郎、杉山松助といった、長州藩そのものが厄介者としていた主として若手の激情家たちである。」
 テロの対象は、「彦根藩ゆかりの者、京都町奉行所与力とその配下、商人、公家の家臣(あまりに多数。これらは公家に対する脅し)、学者、仲間内でハクをつけるための無差別殺人」です。
 「やり口は非常に凄惨で、首と胴体、手首などをバラバラにし、それぞれ別々に公家の屋敷に届けたり、門前に掲げたり、上洛していた一橋慶喜が宿泊する東本願寺の門前に捨てたり、投げ入れたりした。」
 「儒学者池内大学の場合は、(中略)首が難波橋に晒されたのである。更に、耳を切り取り、当時『伝奏』を務めていた正親町三条愛実、権大納言中山忠能の邸に、辞職を求める脅迫文を付けて投げ入れたのである。」
 「町奉行所出入り・賀川肇の場合は、(中略)腕を切って、やはり公家の邸に投げ入れ、首は将軍後見職一橋慶喜の宿所に、攘夷期日を早く決めよという脅迫文と共に投げ入れられた。」
 「与力配下の目明かしの肛門から竹を突き通し、脳まで貫いて絶命させた上で、そのままの姿で市中に晒したりした。」
 「長州藩という藩は珍しい藩で、(中略)藩主の力が弱い。毛利家藩主のことを『そうせい候』と渾名して呼ぶが、何を上申されても藩主は、『そうせい』としかいわない。」文久三(1863)年、桂小五郎ら過激派が藩の実権を握ります。彼らは「攘夷」を主張するのみです。外国船を追い払った後はどうするのでしょう。新しい社会体制の具体案はありません。「攘夷」は「尊皇」とセットで語られますが、日本人が天皇一神教を信じていた当時、「尊皇」は当たり前で、勤王の志士が使う「尊皇」は「テロ活動のための単なる『大義名分』に過ぎ」ませんでした。

2.水戸学

 勤王の志士の思想背景は水戸学でした。「天誅」と称し、天の代行者として自己の殺戮を正当化しました。
 「水戸学は理念が展開していくのが歴史だと決めつけているから、そこから外れる要素が出てくると、歴史そのものを修正しようとする。そこで観念的な精神の高揚が生まれ、天誅という名のテロリズムへ走ることにつながる。」(作家中村彰彦氏の発言)
 「『水戸学』とは、実は『学』というような代物ではなかった。空虚な観念論を積み重ね、それに反する『生身の人間の史実』を否定し、己の気分を高揚させて自己満足に浸るためだけの”檄文”程度のものと考えて差し支えない。この気分によって水戸藩自身が四分五裂、幕末には互いに粛正を繰り返すという悲惨な状況を呈したのである。愚かというには余りにも愚劣な藩であった。」
 「テロリストの多くは、『会津』を正しく『あいづ』と読めなかった。天下の親藩の名さえも読めず、それがどこにあるかも分からぬ者が多くいたのだ。彼らは、そういう知的レベルの集団であった。」

3.吉田松陰

松陰神社鳥居 吉田松陰は、「維新の志士を多数輩出した松下村塾の主宰者にして、維新の精神的支柱となった偉大な思想家、教育者であり、正義を貫き『安政の大獄』の犠牲となった悲劇の主人公」と教えられました。これは全くの虚構でした。
 松下村塾は、松蔭の叔父が主宰する私塾でした。「師が何かを講義して教育するという場ではなく、よくいって仲間が集まって談論風発、『尊皇攘夷』論で大いに盛り上がるという場であったようだ。」
 「松蔭とは単なる、乱暴者の多い長州人の中でも特に過激な若者の一人に過ぎない。若造といえばいいだろうか。今風にいえば、東京から遠く離れた地方都市の悪ガキといったところで、何度注意しても暴走族を止めないのでしょっ引かれただけの男子である。ただ、仲間うちでは智恵のまわるところがあって、リーダーを気取っていた。といっても、思想家、教育者などとはほど遠く、それは明治が成立してから山県有朋などがでっち上げた虚像である。長州藩自身がこの男にはほとほと手を焼き、遂には士籍を剥奪、家禄を没収している。つまり、武士の資格がないとみられたはみ出し者であった。」安政の大獄においても、井伊直弼が松蔭の処刑について長州藩に意向を尋ねたところ、「斬首やむなし」だったのです。安政六(1859)年のことです。
 松蔭を神格化したのは日本陸軍の祖・山県有朋。松蔭は、「北海道を開拓し、カムチャッカからオホーツク一帯を占拠し、琉球を日本領とし、朝鮮を属国とし、満州、台湾、フィリピンを領有すべき」と主張しましたので、昭和の国策に利用されました。松陰神社(東京都世田谷区若林4-35-1)の社殿は昭和3年に建てられたものです。

4.奇兵隊

松陰神社拝殿 文久三(1863)年、高杉晋作が創設した奇兵隊。武士のみならず庶民が加わった点で、近代に繋がる画期的な戦闘部隊と教わりました。その実態は次の通りです。
 「『ならず者』集団に近かった。百姓は勿論含まれてはいたが、犯罪者、元犯罪者など、要は『宗門人別改帳』から外れた暴れ者(戸籍のないヤクザのようなもの)が多かったのである。(中略)犯罪を行う者が多発し、高杉は、『盗みを為す者は殺す』という触れを出している。(中略)テロリストと奇兵隊が同類であることが理解できるだろう。そして、山県有朋が会津戦争に向けて率いていた長州第一軍の主力が、奇兵隊である。この奇兵隊が会津で繰り広げた蛮行については、後述する。」
 その蛮行ですが、「女と金品を求めて村々を荒らし回った」のです。「八歳の幼女から老婆までを陵辱の対象とし、事が済めば殺し、或いは裸にして投げ捨て」ました。「会津に処女なし」という言葉が生まれました。「西軍の兵は戦死した藩士の衣服を剥ぎ取り、男根を切り取ってそれを死体の口に咥えさせて興じたという。更には、少年たちの睾丸を抜くということもやった。」

5.孝明天皇暗殺

吉田松陰墓 薩摩藩は慶応二(1866)年1月に長州藩と同盟を結び、倒幕に向け動き始めます。これに先立ち英国は、慶応元(1865)年に五代友厚など19名を武器商人グラバーの手配で英国に留学させています。長州からも文久三(1863)年に井上馨、伊藤博文など5名を受け容れています。実は、薩摩・長州による倒幕の筋書きは英国によって書かれたものでした。1866年4月26日付、ハモンド外務次官よりパークス駐日公使への書簡には、「日本において、体制の変化がおきるとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」と書かれています。最新のものを含む武器と弾薬はグラバーから薩摩藩へ、薩摩藩経由で長州藩に供給されました。
 孝明「天皇が、討幕を、また天皇親政を考えたことは微塵もない。政治は幕府に委任しているし、そうあるべきものというのが、この天皇の一貫した考え方であった。その意味で、『尊皇佐幕』の筆頭に位置づけるべき方であろう。そうなると、この天皇がおわす限り長州・薩摩は武力討幕ができなくなる。討幕という目的の最大の障壁が孝明天皇、その人であったのだ。ここに我が国テロ史上でも、もっとも恐ろしい暗殺が発生することになる。」
 慶応二(1866)年末、孝明天皇崩御。その約1年後、「王政復古の大号令」を発するに至る「クーデター」が起こされます。
 「クーデター後の最初の”閣議”ともいうべきこの三職会議は揉めに揉めた。(中略)十五歳の明治天皇と公卿以外の大名の出席者は、尾張藩徳川慶勝、福井藩松平慶永(春嶽)、土佐藩山内豊信(容堂)、薩摩藩島津忠義、広島藩浅野茂勲の五名である。(中略)揉めた図式の軸は、土佐藩山内容堂と岩倉具視の対立である。山内容堂が『尊皇佐幕派』であることは、先に述べた。岩倉具視は、長州・薩摩の頭に立つ『討幕派』である。こういう立場、スタンスの違いだけでなく、実はこの時点で『岩倉具視が孝明天皇を毒殺した』という噂が広く流布されていたのである。」
 「クーデターの首謀者は、表向きは岩倉具視だが、実質的な首謀者は大久保利通である。まだ満十五歳になられたばかりの明治天皇を手中に収め、慶応三(1867)年暮れに決行された。十二月八日夜、岩倉具視が自邸に薩摩・土佐・安芸(広島)・尾張・越前(福井)五藩の代表を集め、『王政復古』の断行を宣言し、五藩の協力を求めた。明けて十二月九日、(中略)薩摩をはじめとする五藩の藩兵が御所九門を封鎖、公家の参内を阻止した上で岩倉具視が参内、明治天皇を臨席させ『王政復古の大号令』を発した。つまり、これは、幼い天皇を人質とした軍事クーデターであったのだ。」
 孝明天皇暗殺は我々が学んだ教科書には書かれていませんが、原田氏はこの可能性が高いことを示唆しています。

6.クーデターの失敗

 「王政復古の大号令」が出た後、「西郷の、いざとなれば玉座を血で汚しても短刀一本でケリをつけろという、昭和の極右勢力にまでつながる問答無用の事の進め方」のおかげで三職会議で幕府解体を決議します。「西郷」とは薩摩藩のリーダー・西郷隆盛のことです。
 しかし長州・薩摩以外は公武合体を主張しており、土佐藩を中心とする佐幕派(公武合体派)は長州・薩摩に対して御所から軍を引くことを要求します。
 朝廷は「徳川政権への大政委任の継続を承認し」、徳川幕藩体制が維持されることになりました。即ち、長州・薩摩による「王政復古」のクーデターは失敗に終わったのです。

7.赤報隊

 クーデターの失敗を受けて西郷は何をしたか。それがテロ集団・赤報隊の結成です。赤報隊の任務は、「旗本・御家人を中心とする幕臣や佐幕派諸藩を挑発することである。挑発といえばまだ聞こえはいいが、あからさまにいえば、放火・略奪・強姦・強殺である。」
 「毎夜のように、鉄砲までもった無頼の徒が徒党を組んで江戸の商家へ押し入るのである。日本橋の公儀御用達播磨屋、蔵前の札差伊勢屋、本郷の老舗高崎屋といった大店が次々とやられ、家人や近隣の住民が惨殺されたりした。そして必ず三田の薩摩藩邸に逃げ込む。江戸の市民は、このテロ集団を『薩摩御用盗』と呼んで恐れた。夜の江戸市中からは人が消えたという。」
 「江戸だけでなく野州(下野)、相模、甲州といった周辺地域にまでテロの標的を拡大していったのである。」
 「遂に慶応三(1867)年十二月二十二日夜、庄内藩屯所を銃撃するに至った。翌二十三日には、再び庄内藩士が銃撃を受ける。この二十三日には、江戸城二の丸で放火が発生しており、これも赤報隊の仕業だとされる。」
 庄内藩は江戸市中取締に任ぜられており、庄内藩へのテロ攻撃は取締に対する直接的な挑戦を示すものです。12月25日、幕府軍は薩摩藩に下手人の引き渡しを要求しますが、拒否された為、薩摩藩邸を焼き打ちします。これが戊辰戦争のきっかけとなりました。西郷は挑発に成功したのです。

8.時代の流れ

 著者の原田氏は会津武士に肩入れします。会津武士には守るべき家訓十五箇条がありました。武士の子弟教育では什の掟(じゅうのおきて)を唱和させ、最後を「ならぬことはならぬものです」で締めくくりました。こうして武士の道徳律を身につけた武士階級の者であれば、残虐行為は行わない。長州兵に代表される庶民の兵であったからこそ残虐行為を行ったと指摘します。
 会津武士は、子弟教育の「ならぬことはならぬものです」の基礎の上に家訓を刷り込まれました。その家訓には「上下の分を乱すべからず」、「婦人女子の言、一切聞くべからず」というものが含まれています。武士のみが守るべきとされるこういった家訓こそが士農工商の身分制を固定化するものであり、家制度を維持する基となるものでした。
 武士階級は銭を卑しいものと見なしました。それを扱う商人も卑しいものでした。会津の高級武士は商売に通じるとして算術は学ばず、子弟が使いで買い物するにあたっても銭に触れぬよう、財布ごと渡して代金を抜き取ってもらったそうです。武士は家訓と共に滅ぶ運命にあったのです。
 私は第50話「『中国化する日本』より」(2014年8月)の中で著者・與那覇氏の考えを次のようにまとめました。
 「士農工商の身分制は廃止され、科挙制度と競争社会も導入されました。科挙は『高等文官試験』という名称です。福沢諭吉はその著書『学問のすすめ』の中で『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』と書いて人間平等を説いたと我々の世代は学びましたが、これは間違い。『機会均等で誰もが高等文官試験を受験できるのだからしっかり学んで試験に受かり、成功者になれ』が趣旨でした。
 高等文官試験に合格した人は、中央官僚になるのみならず地方にも知事として派遣されました。天皇を頂点とした中国型の中央集権国家が確立しました。」
 如何に江戸の社会は素晴らしいものが満ちあふれていたとしても「中国化」という歴史の大きな流れには逆らえなかった、それが「明治維新」というものの正体に違いありません。

第59話終わり

写真1:「明治維新という過ち」(毎日ワンズ刊)
写真2:松陰神社鳥居
写真3:松陰神社拝殿
写真4:吉田松陰墓

2015年10月
  中谷酒造(株)代表取締役  中谷正人