第70話 大和川の舟運<後編>【アラカン社長の徒然草vol.88】

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 前編では大和川流域の浜(港)の位置を確定させました。後編では舟運の歴史、酒の輸送、運ばれた物、そして鉄道に取って代わられるまでを追います。

7.舟運の歴史

佐保川と番条集落 大和川の舟運は少なくとも弥生時代から続いてきました。唐古・鍵遺跡(からこかぎいせき。磯城郡田原本町)からは今の岡山県と大阪の河内から運ばれた土器が多く出土しています。愛知、三重、滋賀の土器も見られ、それらは木津川で運ばれたものと考えられます。舟運が一段と活発化するのは鎌倉時代です。
 「灌漑の技術が進歩すると、稲作と畑作の二毛作を行う地域が広がりました。鉄製の農具や牛馬を使った耕作、草木の灰などを肥料とする技術も広まり、茶や藍、麻、桑など、多くの作物が栽培されるようになりました。農村では、農具や生活に必要な鉄製品をつくる鍛冶屋や、染め物を行う職人があらわれました。人々が集まる寺社のまわりなどには決められた日に定期市が立ち、地元の特産品や都から運ばれた織物、工芸品などが売られました。」(育鵬社刊「中学社会新しい日本の歴史」)
 貨幣経済が普及し、商業が発達し、物資を運ぶために舟運が発展したのです。

8.酒の輸送

大和川舟運地図(中谷正人作成) 鎌倉時代は余剰米ができ、その米を使って産業としての酒造りが始まりました。それまで酒は祭りなどハレの日の飲み物でした。それが金を払って買う、商品になったのです。酒は飲みたい人が飲みたいときに飲む嗜好品になりました。
 清酒発祥の地と呼ばれる正暦寺(しょうりゃくじ)の酒は菩提仙川(ぼだいせんがわ)を下り、佐保川の番条(ばんじょう)で船積みされて堺港まで運ばれました。秀吉の朝鮮出兵にもこの酒を持っていった記録があります。輸送経路については、特段の記録がないことを私は断言したように書いていますが、樽詰めされた酒は重くこれ以外の輸送経路を合理的に説明することは不可能です。
 傍証もあります。正暦寺は興福寺の配下にあり、清酒販売で得た利益の一部を「壺銭」(つぼぜに)として興福寺に納めていました。興福寺にとってこの収入は馬鹿にならないもので、物流ルートを確保する必要があったと考えられ、番条は興福寺から派遣された僧兵に支配されていました。又、今日に至るまで番条側の堤防が高く、洪水から守られています。こういった権利は何百年も受け継がれ、簡単に変えることはできません。
 酒は重量物ですから造り酒屋は消費地のそば、もしくは舟運が使える場所にありました。江戸時代、江戸という巨大な消費都市が造られると酒は大坂から樽廻船で江戸に運ばれました。川舟で大阪湾に運びやすい池田、伊丹に造り酒屋の集積が起き、規模も大型化しました。後には大阪湾に面した灘が日本最大の生産地になりました。

9.亀の瀬の難所

亀の瀬(左手前・峠問屋の浜跡、中央国道25号線下・藤井問屋の浜跡、両浜の間・滝跡、上部中央JR大和路線踏切・藤井問屋跡) 河合町から大和川を下りますと王寺を抜けたあたり、亀の瀬の難所に差し掛かります。亀の瀬は岩がむき出しになった所で一箇所段差(滝)があり、舟は通過が困難でした。一旦荷を陸揚げして積み替えることが多かったようです。
 江戸時代の初め、1610年(慶長15年)。竜田藩主・片桐且元(かたぎりかつもと)が亀の瀬の南岸に近い部分を穿って舟を通れるようにしました。その工事を契機に竜田明神(三郷町)の神人の安村喜右衛門が奈良盆地の舟運を支配するようになります。ところがその後江戸時代を通じて亀の瀬を境に通船区分がなされ、大坂側は剣先舟(けんざきぶね)、大和側は魚梁舟(やなぶね)が運行されました。亀の瀬で積み替えを行いますので、片桐且元の開削工事の成果が十分生かされなかったとも言えます。
 どちらの舟も船長が船幅の十倍ほどある細長い平底の帆掛け船です。但し帆は布ではなく、筵(むしろ)でした。剣先舟は巾2m、全長が20m弱で約2t積み。魚梁舟は水量の少ない上流まで運行できるよう小型で巾1.5m、全長15mほど、約1tの荷が積めました。
 剣先舟は亀の瀬のすぐ西側の南北両岸の二つの浜(港)を利用し、それぞれに荷継問屋(につぎどんや)がありました。剣先舟で大坂から来た荷が南岸の藤井問屋を経由する場合は同じ浜で魚梁舟に積み替えました。北岸の峠問屋を経由する場合、北岸近くには滝が残っていますので、降ろした荷は滝をやり過ごすために100mほど岸に沿って陸送してから魚梁舟に積みました。即ち、北岸には滝を挟んで剣先舟と魚梁舟の浜が別々にあったのです。

10.間違えた通説

下ツ道と番条集落 私は藤井問屋では同じ浜で剣先舟から魚梁舟に荷を積み替えたと書きました。ところが藤井問屋は積み替えは行わず、剣先舟が降ろした荷を牛馬で運ぶ専門問屋とする説が一般には信じられています。
 その理由は1937年に肥後和夫氏が出した「片桐且元による滝の開削は失敗した」とする珍説を信じているからです。即ち滝が通行できない以上、滝を越えた上流に魚梁舟用の浜がない藤井問屋は陸送しかできないというのです。
 舟運に関する資料は余りにも少なく、研究者も少数です。そのため80年も前の誤った研究成果がまかり通ってしまいます。
 開削が成功したからこそ片桐家は安村喜右衛門に利権を売ったと考えるのが素直です。延宝7年(1679)3月11日に片桐氏家来が奈良奉行所に宛てた「覚」には開削が明記されています。「和州平群郡立野龍田本宮」摺物(すりもの。版画のこと)に「亀瀬ノタキ慶長十四年切落」と書かれています。又、剣先舟が通行区分を侵して亀の瀬の上流に入った記録もあります(「三郷町史」上巻)。(筆者注:開削部分は新亀の瀬橋の東100mの南岸。昭和6〜7年の地滑りで埋まり、現在はその上を国道25号線の護岸が覆う)
 以下に<前編>の「森家勘定目録抜粋」を再度掲載します。藤井問屋扱い数量10,406駄に対して馬払は1,100駄に過ぎません。この馬払とて峠問屋扱い分も含むはずです。亀の瀬の開削は成功しており、藤井問屋は同じ浜で積み替えを行ったのです。

森家勘定目録抜粋:
享保3年(1718年)1-7月 単位:駄(135kg)。1駄未満は四捨五入

大坂から亀の瀬に入った量
峠問屋扱い 17,428
藤井問屋扱い10,406
前年繰越   3,964
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 計    31,798

亀の瀬と各浜間の輸送量(入は着荷、出は積荷)
今里 入 13,297 出 1,296
天神 入 5,684 出 584(筆者注:嘉幡)
川合 入 3,296 出 416
松本 入 1,052 出  5
筒井 入 1,194 出  46(筆者注:番条)
直付道渡し6,176 出 184(筆者注:上記5浜以外)
魚梁馬払 1,100 出  65(筆者注:馬での輸送分)
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 計 入 31,798 出 2,595
(筆者注:魚梁舟の積載量は7駄余。荷が最も少ない松本浜へも毎日運行していたと推測できる。)

11.運ばれた物

昭和時代の身欠鰊の箱(留萌市末広町2丁目 高田商店製造) 江戸時代、大坂方面から綿花栽培の肥料として使う油粕(あぶらかす)や干鰯(ほしか)、塩、海産物などが運ばれました。
 その海産物ですが郡山の城下に魚屋が集まった魚町(うおまち)の地名が残るのは当然として、盆地南東部の桜井にも魚市場跡が残ります。桜井は法貴寺浜の南東5km。月に六度の市(六斎市)が立ちました。北前船で北海道から大坂に運ばれた棒鱈(ぼうだら)、身欠鰊(みがきにしん)、大阪湾近辺で採れた塩鰯(しおいわし)、塩鯖(しおさば)、刺し鯖(小ぶりの鯖を開きにして竹串を刺し強い塩をしたあと干したもの)、干したジャコ、スルメ、鮮魚であれば鱧(はも)やエイといった奈良県民に馴染みの深い魚、それに昆布など海藻の乾物が法貴寺浜を経由して運ばれたはずです。桜井に集まった物資は伊勢街道で大宇陀(おおうだ)や菟田野(うたの)など更に内陸に運ばれました。
 中谷酒造創業者・又治郎(またじろう)の従兄弟は桜井から後妻をもらい、その娘が明治時代に大阪天満(てんま)で乾物商を営みましたので桜井と大坂の海産物を通した繋がりを私は感じています。
 奈良盆地からは米、小麦、雑穀、綿花、菜種油、素麺が大坂方面に積み出されました。王寺町で肥料屋をしていた谷(たに)家に当時の文書がまとまって残りましたので、大坂からの肥料で作られた農産物が主として大和から出荷されたと思われがちです。記録の有無は別にして大和が主産地で大坂が消費地と判明している麻布(奈良さらし)、筆や墨、薬、酒なども相当数含まれていたはずです。奈良さらしは全国ブランドの高級品。筆や墨は奈良の特産。大坂には大和出身の薬屋が多く、大坂は大和の酒の主たる消費地でした。
 どちらかと言えば大和からは付加価値の高い商品が多く出荷されていました。それがいち早く鉄道網が整備されることに繋がります。

12.舟運の終焉

JR郡山駅ホームの古い石組 現代人が鉄道に抱くイメージは旅客輸送ですが、本来鉄道は陸の運河として敷設され発展しました。シベリア鉄道、米国の大陸横断鉄道と聞けばそのイメージが涌いてくることでしょう。日本でも明治時代になると鉄道が敷かれ、舟運に取って代わります。
 1892年(明治25年)、国鉄関西本線(現JR大和路線)の奈良-湊町(みなとまち。現JR難波駅)が開通し、郡山と大阪が鉄道で繋がりました。番条の浜はその役割を終え、最も早く廃れました。
 1898年(明治31年)、盆地東部を南北に縦断する奈良鉄道(現JR桜井線)が敷かれ、関西本線経由で湊町、即ち大阪まで繋がります。川の上流の物資は下ツ道沿いにある番条、嘉幡、今里、それに中ツ道の西800mの法貴寺浜との間を荷車で輸送していたものが、これによって圧倒的な量が迅速に運べるようになりました。
1918年(大正7年)、大和鉄道(現近鉄田原本線)の田原本-新王寺間が開通しました。新王寺駅は関西本線の王寺駅に隣接しており湊町、即ち大阪と繋がりました。
 最後は旅客輸送を主体とする大阪電気軌道(現近鉄橿原線)が盆地中央を南北に結びます。1921年(大正10年)に西大寺-郡山間が開通。その二年後には盆地南部の橿原神宮まで開通しました。こうして大和川流域の多くの地域は2km以内に鉄道が走るようになり舟運はその役割を終えました。
 昭和に入ってオート三輪が普及し始め、戦後はトラック輸送が主流になり鉄道の物資輸送の役割は低下しました。今日、JR貨物を除くほとんどの鉄道は旅客輸送に特化しています。

第70話終わり

写真1:佐保川と番条集落
写真2:大和川舟運地図(中谷正人作成)
写真3:亀の瀬(左手前・峠問屋の浜跡、中央国道25号線下・藤井問屋の浜跡、両浜の間・滝跡、上部中央JR大和路線踏切・藤井問屋跡)
写真4:下ツ道と番条集落
写真5:昭和時代の身欠鰊の箱(留萌市末広町2丁目 高田商店製造)
写真6:JR郡山駅ホームの古い石組

2017年1月
  中谷酒造(株)代表取締役  中谷正人