「物部」は天皇の形容詞だった!<古代史の謎は血縁関係で解ける>第三章 蘇我王朝と物部の血
【アラカン社長の徒然草vol.100】

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読者の皆様へ:
 筆者が書き貯めた古代史に関する文章を書籍に見立て、2017年8月より毎月一回、一章の割合で2018年11月まで連載します。
 本メルマガで既に発表した文章を元にこの連載に合わせて再構成し、内容を修正、補充したものです。
 本連載のバックナンバーはVOL.94までとは別にファイルします。
*記紀に記された日本の固有名詞について。
表音に使った漢字が両書で異なることがありますので、読者の便宜のため基本的にカタカナで表記します。
*天皇名
奈良時代後期から使用される漢字表記のおくり名を使います。
*西暦年
西暦年表示を標準としています。括弧内に半角数字のみ書いたものは西暦年を示します。人名の後に二つの数字をハイフンで結んだものは生年と没年を示します。
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 2013年5月4日、テレビで昼のニュースを見ていますとこの日、藤ノ木古墳の石室特別公開をしているそうです。この古墳は豪華な鞍が出土したことで有名です。連休中で会社は休み。焼きそばを作って食べた後、家内と見に行くことにしました。
 埋葬は6世紀第4四半期と推定されています。この時期は後期古墳時代の終わりに近く、それほど大きな古墳が造られなくなった時代です。直径50mの円墳ですがこの規模とてかなりの地位の人物が埋葬されたことでしょう。被葬者は二人。
 日本書紀の記述と照らし合わせて、北側の被葬者を穴穂部皇子(あなほべのみこ)、南側は宅部皇子(やかべのみこ)とする学者が多いようです。用明天皇2年(587)6月、蘇我馬子は物部氏に近かった穴穂部皇子と宅部皇子を殺し、翌月物部守屋を殺して物部氏を没落させます。
 夫婦ならいざしらず、男二人を同じ棺に入れるなど通常あり得ません。南側の被葬者は男女判別に役立つ腰骨も頭蓋骨も溶けてしまっており、判断は下せません。残っている足首とかかとの骨を計ったところ、北側の男性より大きかったので「男性である確立は極めて高い」ということになり、こんな珍説が主流を占めることになったのです。
 私は被葬者を推定するにあたり蘇我と物部の混血比率を用いることを思いつきました。これにより殺された者と殺された理由が浮かび上がってきます。この手法で蘇我王朝を追ってみましょう。

写真1:藤ノ木古墳
写真2:同古墳出土の鞍(レプリカ)
写真3:同古墳棺の説明パネル

1.継体天皇の次世代

 継体天皇は蘇我王朝の始祖ですから蘇我の血が100%です。次の世代は、継体天皇の三人の皇子が次々と天皇を継承します。その内、安閑天皇(27代あんかん)と宣化天皇(28代せんか)の母は尾張連草香の娘。即ち地方豪族の娘なので物部の血は零。この二人の天皇は蘇我と物部の対比で考える場合、蘇我の血は100%と考えて良いでしょう。
 欽明天皇(29代)は、母が物部王朝の仁賢天皇の娘ですから、蘇我と物部の比率は50%ずつです。
 日本書紀は継体天皇の崩御を継体天皇25年(531)にした根拠として『百済本記』(現存せず)に「日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳」(辛亥年(531)に天皇、太子、皇子ともに亡くなった)と書かれていることを挙げています。継体天皇は皇子と共に殺されたのでしょう。続く安閑、宣化二代の8年間は物部氏と血で血を争う抗争があったように思われます。和解の条件として蘇我と物部の血を半々に引く欽明天皇が選ばれ決着したと考えれば辻つまが合います。欽明天皇の即位は539年です。

2.八幡神

 欽明天皇が即位し、血の比率の均衡の上に平和が訪れました。その欽明天皇が571年に崩御。緊張が一気に高まりました。どうすれば平和裏に収められるか。その手段として八幡神を使うことにしたと私は考えます。八幡神とは応神天皇のことです。
 物部も蘇我も応神天皇の子孫です。八幡神は物部と蘇我に共通する祖先神ですから中立な立場で次期天皇を決めてくれるはずです。その方法は占い。占いの結果を神託として示せば拘束力を生じます。応神天皇が率いた秦氏は中国人であり高度な占い術も持っていました。そこで北部九州は宇佐の地に神廟を建て、八幡神を祀りました。宇佐は応神天皇の東征船団の出発地であったものと私は考えています。宇佐神宮の社伝によれば八幡神は欽明天皇32年(571)に「初めて宇佐の地にご示顕になった」とします。欽明天皇崩御の年です。これが宇佐八幡宮の始まりです。
 占いの結果、蘇我と物部の血が半分ずつ入った敏達(びだつ)を次期30代天皇に立てるべしとの神託が出たのでしょう。占いとは言っても便法として使ったのみで、結果は決まっていたのかもしれません。
 敏達天皇(30代)の父・欽明天皇は、蘇我と物部のハーフ。母・石姫皇女は、継体天皇の皇子・宣化天皇(28代せんか)と仁賢天皇(物部)の娘の間に生まれており、やはりハーフ。従って、敏達天皇もハーフ。蘇我・物部の権力争いの中で、バランスを取ったと考えられます。欽明天皇即位から敏達天皇崩御まで46年間、均衡が保たれます。

 余談ですが、その後八幡神は継体天皇縁(ゆかり)の地にも祀られます。石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう。京都府八幡市八幡高坊30)です。継体天皇は越前から大和に入る前に樟葉(くずは)に入り、507年に樟葉で即位します。石清水八幡宮が建つ男山は樟葉の裏山です。貞観2年(860)に清和天皇により創建され、その後歴代の天皇、上皇、法皇の度重なる参詣が行われる、皇室にとって大変重要な神社になります。石清水八幡は、清和天皇の血筋である清和源氏の氏神でもあり、戦(いくさ)の神としても信仰を集めます。

 

写真4:宮内庁が指定する29代欽明天皇陵(明日香村平田)
写真5:見瀬丸山古墳(橿原市見瀬町・五条野町・大軽町。欽明天皇墓、もしくは蘇我稲目墓と推定)
写真6:石清水八幡南総門
写真7:石清水八幡南総門から見る本社
写真8:石清水八幡本社
写真9:宇佐神宮宇佐鳥居と西大門

3.三世代目

 三世代目は、敏達を皮切りに欽明天皇の四子が次々と天皇を担います。
 用明天皇(31代ようめい)は585年に即位します。母は、蘇我堅塩媛で蘇我100%。従って、用明天皇の蘇我の血は3/4。ここで蘇我にバランスが傾きました。反撃の機会を狙っていたであろう物部側に対し、蘇我側から決定的な打撃が加えられます。587年、天皇の死のあと、穴穂部皇子(あなほべのみこ)、物部守屋などが殺され、物部氏は没落します。因みに聖徳太子は用明天皇の子です。この穴穂部皇子が葬られたのが本章冒頭の藤ノ木古墳です。
 穴穂部皇子の母は、蘇我小姉君で蘇我100%。従って、蘇我の血はやはり3/4。ところが皇位を狙う為に物部守屋と結んだと書かれています。物部の起死回生策とすれば穴穂部皇子に娘を嫁がせることを考えたはずです。子ができれば物部の血は5/8に回復するからです。日本書紀には書かれていませんが、物部の娘を夫人にしていたのでしょう。藤ノ木古墳の南側の被葬者は足首と手首に玉(たま)飾りを付けていたことが解っています。穴穂部皇子夫婦が葬られたものと私は考えます。
 崇峻天皇(32代すしゅん)は穴穂部皇子の同父母兄弟です。穴穂部皇子は物部に近かった為、殺されたと推測されるところ、崇峻天皇も物部に近かったのか、592年に暗殺されます。崇峻は生年も記紀に記録されておらず、又暗殺当日に葬られるという異様さ。先代旧事本記では夫人の布都(ふつ)姫は物部守屋の妹と書かれています(「布都」は物部氏ゆかりの石上神宮に祀る神と同名)。そうであれば、布都姫との間に子ができれば物部の血は5/8に高まります。それが皇位を狙えば蘇我家にとって脅威です。おそらく布都姫も同時に殺されたことでしょう。
 推古天皇(33代すいこ。在位593-629)は用明天皇の同母兄妹。従って、蘇我の血は3/4。36年に及ぶ長期政権で蘇我王朝は安定します。ただこの間に次の世代の皇位継承者が死に絶えたらしく、一世代飛んで五世代目に継承されます。

写真10:32代崇峻天皇陵(桜井市倉橋金福寺跡)
写真11:赤坂天王山古墳(崇峻天皇陵の北東1.7km。実際の崇峻天皇陵と推定)

4.五世代目

 敏達天皇の子・押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)は異母兄妹の糠手姫と近親婚を行い、その間に生まれた三兄弟が即位します。
 その前に四世代目、押坂彦人大兄の考察。父・敏達天皇は、蘇我と物部のハーフです。母は、息長真手王の娘・広姫。息長氏は継体天皇の本拠と考えられる滋賀県に縁があり、「王」が付くところから蘇我系皇族と推測します。従って、蘇我の血は3/4、物部は1/4です。
 そして五世代目。舒明天皇(34代じょめい。在位629-641)の母は、糠手姫皇女。皇女の父は敏達天皇、母は伊勢大鹿首小熊という地方豪族の娘。敏達天皇はハーフですから皇女は蘇我1/4、物部1/4。従って、舒明天皇は蘇我1/2、物部1/4。皇極天皇(35代こうぎょく。在位642-645。重祚して37代斉明天皇)、孝徳天皇(36代こうとく。在位645-654)も同母姉弟なので同じです。
 舒明天皇と皇極天皇は結婚しますが、同父母兄妹間の結婚は先進国・中国では儒教的倫理観から忌避されていました。先進国の仲間入りをしようと初めて国の正史・日本書紀の編纂を進め、おまけに先進国の言語・漢文で書いているのに、天皇が同父母兄妹で結婚したと書けば後進国であることを宣伝しているようなものです。そこでその事実を隠す為に日本書紀では皇極天皇と孝徳天皇姉弟を一世代下げて六世代目にしています。こうすることにより舒明・皇極夫妻は叔父・姪の関係になります。なぜこのような事が解るかと言えば、日本書紀の8年前に完成した古事記には舒明天皇の同母妹弟として中津王(皇極天皇)と多良王(孝徳天皇とみられる)が記載されているからです。
五世代目の血は蘇我1/2、物部1/4。三世代目に比べ蘇我の比率が下がっていますが、物部没落の後ですから、物部の脅威は去っています。代わりに蘇我本家と王家の争いが始まります。

5.乙巳の変

 蘇我と物部の妥協の結果、両者混血の血筋を王家(天皇家)としましたが王家に権力はなく、蘇我本家と物部本家が権力を巡って争っていました。物部が滅んだ後、蘇我本家は王家を擁立し続けましたが、物部の血が入らない純血の蘇我本家の地位が更に高まりました。例えば日本書紀の皇極天皇即位(642年)の記事は次の通りです。「皇后即天皇位、以蘇我臣蝦夷為大臣如故。大臣児入鹿自執国政、威勝於父。」(舒明天皇の皇后が天皇に即位し、蘇我蝦夷を従前通り大臣に任じた。大臣の児・入鹿は自ら国政を執り行い、その威は父・蝦夷に勝った)。そういった場合、王家の者にかえって物部の血をひいていることを強く意識させることになります。
 皇極天皇4年(645)6月、乙巳の変(いっしのへん)と呼ばれる事件が起こり、蘇我蝦夷、蘇我入鹿など蘇我本家が滅ぼされます。ここに蘇我王朝は終わりを告げ、今日に続く天皇家の時代になります。
 乙巳の変の切り込み隊長を務めた中大兄皇子(後の天智天皇)は、同父母兄妹の舒明・皇極天皇の間の子で六世代目。血の比率は変わらず蘇我1/2、物部1/4です。

写真12:石舞台(明日香村。蘇我馬子墓と推定)

6.濃厚な近親婚

 蘇我入鹿を斬った中大兄皇子はもとより皇極天皇の脳裏には蘇我本家から独立した王家(天皇家)の概念が明確にあったはずです。王家を特徴付ける最大の要素は物部の血をひいていることでした。
 4.五世代目の系図をご参照下さい。舒明、皇極、孝德の三兄弟は異母兄妹(押坂彦人と糠手姫)の近親婚で生まれました。
 舒明と皇極が同父母兄妹間で近親婚をしたのは物部の血の濃さを維持する為だったに違いありません。それ以外に物部の血を濃く持つ王位継承者はいませんでした。
 更に舒明と皇極の同父母弟・孝徳天皇は、舒明と皇極の間に生まれた間人皇女(はしひとのひめみこ)を皇后にします。ここまで濃厚な近親婚が続くのは尋常ではありません。
 おまけに天智天皇の兄弟である天武天皇は天智の4人の娘を妻にします。やはり物部の血を明確に意識していたのです。

7.白村江の戦い

 660年の百済滅亡後、百済復興を目指して朝鮮半島に出兵する決断をしたのは皇極天皇が重祚(ちょうそ。重ねて天皇に即位すること)した斉明天皇(37代さいめい。在位655-661)、実行した時点の最高権力者は中大兄皇子(後の天智天皇)でした。物部王朝は百済王族と濃厚な姻戚関係にありました。中大兄皇子は物部の血を強く意識するが故に国運を賭けて出兵したのです。
 物部は偉大でした。「鉄は国家なり」。秦氏の持つ技術で鉄製農具を普及させて生産性を上げ、日本の国力を一気に高めました。大仙陵古墳(仁徳天皇陵とされているが、築造時期からみて履中天皇陵か)といった世界最大の墓も造りました。中大兄皇子は、偉大な物部の血を引くからこそ物部王朝の正統な後継者であり、先進国・中国に対抗できる立派な日本国を造る指導者たり得ると考えていたに違いありません。天皇家には蘇我と物部の血が何れも受け継がれています。

第三章 終わり