「物部」は天皇の形容詞だった!<古代史の謎は血縁関係で解ける>第六章 物部の血と藤原不比等
【アラカン社長の徒然草vol.103】

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読者の皆様へ:
 筆者が書き貯めた古代史に関する文章を書籍に見立て、2017年8月より毎月一回、一章の割合で2018年11月まで連載します。
 本メルマガで既に発表した文章を元にこの連載に合わせて再構成し、内容を修正、補充したものです。
 本連載のバックナンバーはVOL.94までとは別にファイルします。
*記紀に記された日本の固有名詞について。
表音に使った漢字が両書で異なることがありますので、読者の便宜のため基本的にカタカナで表記します。
*天皇名
奈良時代後期から使用される漢字表記のおくり名を使います。
*西暦年
西暦年表示を標準としています。括弧内に半角数字のみ書いたものは西暦年を示します。人名の後に二つの数字をハイフンで結んだものは生年と没年を示します。
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 34代舒明天皇(593-641)から46代孝謙天皇(718-770)までの系図を以下に示します。濃厚な近親婚が繰り返されており、その理由は偉大なる物部の血を残すことにあると推測できます。
 物部氏の滅亡は587年。そのすぐ後に生まれた同父母兄妹である舒明天皇と皇極天皇は何れも蘇我の血が1/2、物部が1/4。その6世代後、物部氏滅亡から131年後に生まれた孝謙天皇にも物部の血は5/64、即ち約8%残ったのです。


注:蘇我倉山田石川麻呂は物部守屋の妹を妻とした蘇我馬子の孫であり、その二人の娘・姪娘と遠智娘は物部の血を1/8ひく可能性があるが確証がなくこの系図には反映させていない。

1.直系継承

 日本書紀は皇極天皇を「皇祖母尊」と呼び、皇極天皇を天照(アマテラス)大神に擬して特別な地位に置きます。そして孫の大田皇女と建皇子は「皇孫」とします。この二人の父親は天智天皇。即ち、天智天皇の子孫を皇祖神アマテラスに直結した神聖な系列に置く意図がうかがえます。皇極天皇-天智天皇の後、持統天皇-草壁皇子-文武天皇という直系継承の流れができました。これについては第八章 皇祖神アマテラスの創造にて再度述べます。
 蘇我氏でもなく物部氏でもない、その双方の血を受けた混血の血筋が意識され、それを代々受け継ぐべき血脈として、氏族から独立した「天皇家」というものが確立したと見ることができます。その天皇家に、蘇我氏に代わって血を入れるのが藤原不比等(ふひと。659-720)です。

2.藤原不比等の血

 天智天皇は、その妃・鏡姫王を中臣鎌足(なかとみのかまたり)に下賜し、鎌足は正妻とします。鏡姫王は、王が付いていることから明らかなように王女、即ち皇族です。皇族でない中臣鎌足が王女を下賜されており、特異な事情があったと推測されます。
 鏡姫王はやがて男児を生みます。それが藤原不比等です。
 系図の下の部分をご参照下さい。不比等は娘・宮子を文武天皇(42代もんむ)に嫁がせます。更に、生まれた子、後の聖武天皇(45代しょうむ)にも娘を嫁がせます。後の光明皇后です。二代続けて天皇に娘を嫁がせ、近親婚をさせているのです。不比等は自身の血を濃厚に天皇家に入れました。

3.藤原家の誕生

 藤原不比等とは何者なのでしょう。父は中臣鎌足。先ずは中臣氏の血筋を明らかにしましょう。
 私は中臣(なかとみ)氏は、2世紀末に奈良盆地に入り王朝を建てた出雲王朝の王の後裔と推測します。記紀によれば神武東征により出雲王朝の王・登美(とみ)ナガスネヒコがヤマト国の軍門に降ります。「なかとみ」の「とみ」は、「とみナガスネヒコ」の「とみ」と共通です。
 出雲王朝も太陽神を祀りました。ただ、神の名はニギハヤヒと呼んでいました。出雲王の末裔は、同じく太陽神を信仰する神武天皇に滅ぼされた後も祭祀継続を許されました。
 祭祀の場所は両者が争った戦場・草香(くさか。東大阪市日下町)の近く、枚岡(ひらおか)神社です。「くさか」の「くさ」は草薙(くさなぎ)の剣の「くさ」同様、猛々しいという意味です。「か」は太陽を意味します。そして枚岡神社の地名は東大阪市出雲井町です。私は出雲王朝が太陽神を祀る神聖な場所であったからこそ草香(日下)が戦場になったと考えています。
 今日、枚岡神社に祀る神は太陽神ニギハヤヒそのものではなく、祭祀を行う王族の祖先アメノコヤネです。中臣鎌足は、このアメノコヤネの祭祀を司る中臣家の主です。既に滅ぼされた王朝の末裔ですから地位が高い訳はありません。その鎌足に天智天皇が妃・鏡姫王を下賜したというのです。鎌足は死の間際に天智天皇から藤原の姓を賜ります。藤原氏の氏神はアメノコヤネで、枚岡神社から分祀して春日大社(奈良市春日野町)に祀っています。
 草香と春日の地名について、椎野禎文氏は著書「日本古代の神話的観想」の中で、「KUSAKAはKASUGAと母音交代と濁音化で変わっているが同じである。春日山の漢字表記は冬至に復活する太陽信仰に基づくのだろう。中臣氏が草香山山麓の枚岡神社から春日山麓に信仰の場を移した」としています。

写真1:枚岡神社拝殿
写真2:春日大社一之鳥居

4.影の天皇家

 藤原不比等は、天智天皇の子であったという説があります。鏡姫王は既に天智の子を孕(はら)んでおり、それを知った上で下賜したというのです。
 天智天皇の死後、壬申の乱(じんしんのらん)を経て天武の世になります。天武に気付かれず鏡姫王の子は無事成長し藤原不比等と名乗ります。天智は忠臣・中臣鎌足を使って自分の血を残すことに成功したことになります。そして中臣氏が不比等を当主に据えることで中臣家と天智天皇の血筋が合体し、生まれたのが藤原家という訳です。
 私は不比等が天智の子であるという説を信じます。その理由は何よりも娘を文武天皇、そしてその子の聖武天皇に嫁がせたことに尽きます。藤原家は天智天皇の血を受け継ぐ、いわば影の天皇家として、天皇家の血脈維持に寄与していると考えるのが素直です。天武亡き後、皇后を即位させ持統天皇としたのも、持統政権を支えたのも不比等でした。
 とするならば不比等に流れる物部の血は1/8。その娘・宮子と光明子(光明皇后)は1/16。この血を入れることにより聖武天皇3/32(9%)、孝謙天皇5/64(8%)と、物部の血は維持されたのです。
 不比等は41代持統天皇から44代元正天皇まで天皇を擁立するキングメーカーとして日本の政治を牛耳りました。その後も藤原氏は天智天皇の血を継ぐ者として特別な存在であり続けます。

写真3:天武・持統天皇陵(高市郡明日香村)
写真4:45代聖武天皇陵(奈良市法蓮町)

第6章 終わり

「物部」は天皇の形容詞だった!<古代史の謎は血縁関係で解ける>
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