「物部」は天皇の形容詞だった!<古代史の謎は血縁関係で解ける>第十五章 鏡を割った思想
【アラカン社長の徒然草vol.113】

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読者の皆様へ:
 筆者が書き貯めた古代史に関する文章を書籍に見立て、2017年8月より毎月一回、一章の割合で2019年2月まで連載します。
 本メルマガで既に発表した文章を元にこの連載に合わせて再構成し、内容を修正、補充したものです。
 本連載のバックナンバーはVOL.94までとは別にファイルします。
*記紀に記された日本の固有名詞について。
表音に使った漢字が両書で異なることがありますので、読者の便宜のため基本的にカタカナで表記します。
*天皇名
奈良時代後期から使用される漢字表記のおくり名を使います。
*西暦年
西暦年表示を標準としています。括弧内に半角数字のみ書いたものは西暦年を示します。人名の後に二つの数字をハイフンで結んだものは生年と没年を示します。
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 日本経済新聞2010年2月13日朝刊の文化面に次の記事が載りました。
 「81面以上の青銅鏡が副葬されていたことが判明し、初期ヤマト政権の威容を物語る資料として注目される桜井茶臼山古墳(奈良県桜井市、3世紀末〜4世紀初め)。謎の一つが、出土した鏡がすべて小さな破片だったことだ。権威の象徴だった鏡がなぜバラバラにされたのか。”お宝”を巡る盗掘者の意識の違いが理由ではないか、との見解が浮上している。(以下、本文略)」(奈良支局長 竹内義治 大阪社会部 川本太郎)

 鏡は埋葬時には割れていませんでした。それは、石室の朱が鏡の断面には付着していないことで解るとしています。誰が割ったのか。薄い小片のみで、厚みのある破片や大きな破片はありません。このことから、「盗掘者が故意に割った」上で、「銅地金として再利用する目的だった」可能性を指摘する福永伸哉・大阪大学大学院教授の見解を紹介し、記事の一応の結論としています。
 盗人に成り代わって考えてみましょう。そのまま持ち出した方が楽に決まっているのに、わざわざ割ったりするでしょうか。破片が飛び散るとすれば、そのロスも考えなければなりません。鏡は、何か特別な意図で割られ、その後進入した墓泥棒が「銅地金として再利用する目的」で持ち出したと考えるのが自然です。鏡を割った人と持ち出した人は別です。
 誰が何の目的で墓を暴き、鏡を割ったのか。これがこの章のテーマです。

写真1:桜井茶臼山古墳(墳丘長207m)

1.太陽の道

 小川光三氏が発見した「太陽の道」(「大和の原像 知られざる古代太陽の道」大和書房1973年)。北緯34度32分の緯線は、東から伊勢斎宮(さいぐう)跡、箸墓(はしはか)古墳を通って淡路島の伊勢の森までを結びますが、その線上には太陽神・アマテラスに関する神社、遺跡があるというものです。
 中心となるものは、箸墓古墳です。この墓は、奈良盆地に最初に造られた大前方後円墳です。造営の時期は3世紀の三分の二が過ぎた頃です。

 「太陽の道」を箸墓古墳から太陽の昇る東に向かって検証してみましょう。
 箸墓古墳 北緯34度32分20秒
 檜原神社 北緯34度32分22秒(箸墓から1.4km)
 室生寺  北緯34度32分16秒(箸墓から6.1km)
 長谷寺  北緯34度32分 9秒(箸墓から18.5km)
 斎宮跡  北緯34度32分28秒(箸墓から72.6km)

 先ず、檜原(ひばら)神社。元伊勢と呼ばれ、伊勢神宮が造られる前から続く太陽神祭祀の場とされるものです。現在に至るまで社殿はなく、藁縄(わらなわ)の張られた鳥居のみ。聖なる山・三輪山(みわやま)の麓で太陽を拝む場です。
 室生寺は、密教寺院として有名ですが、創建については明らかではありません。ただ、天武天皇の時代に始まったと言われています。天武天皇は、伊勢に斎宮を建設し太陽神の祭祀を始めました。
 長谷寺の創建も明らかではありませんが、寺伝ではやはり天武天皇の時代としています。
 斎宮は、太陽神アマテラスを祭る巫女・斎王の住まいであり、祭祀の為の施設です。
 緯度の1秒は31mです。箸墓古墳と最も差の大きい長谷寺でも340mの違いに過ぎません。しかも何れも広大な敷地ですから一致していると考えて良いでしょう。
 箸墓に葬られた人物は、太陽信仰と密接な繋がりを持っていたと考えられます。

写真2:箸墓古墳(墳丘長278m。左奥に三輪山)
写真3:檜原神社藁縄鳥居の内側の小さな三ツ鳥居
写真4:斎宮跡

2.邪馬台国の東遷

 箸墓古墳に葬られた人物を考察するにあたり、避けて通れない話題が魏書東夷伝倭人条(ぎしょとういでんわじんじょう。通称「魏志倭人伝」)に書かれた邪馬台国がどこにあったかという論争です。その決着がほぼ着いていることを知らないマスコミ関係者が多く、あたかも論争が続いているかのような報道がみられます。ヒミコは魏に絹織物を献上しており、その絹織物の出土情況からヒミコは北九州の女王であったと推定されます。森浩一(1928-2013)氏の著書「古代史の窓」(第一章2絹の東伝)から引用しましょう。

 「布目氏(引用者注:古代繊維の研究者である布目順郎)の名著に『絹の東伝』(小学館)がある。目次をみると、『絹を出した遺跡の分布から邪馬台国の所在地を探る』の項目がある。簡単にいえば、弥生時代にかぎると、絹の出土しているのは福岡、佐賀、長崎の三県に集中し、前方後円墳の時代、つまり四世紀とそれ以降になると奈良や京都にも出土しはじめる事実を東伝と表現された。布目氏の結論はいうまでもなかろう。倭人伝の絹の記事に対応できるのは、北部九州であり、ヤマタイ国もそのなかに求めるべきだということである。この事実は論破しにくいので、つい知らぬ顔になるのだろう。(中略)
 布目氏は絹の東伝の背後に、絹文化をもった人の集団の移動があったと考え、邪馬台国の東遷説を支持されている。
 絹の東伝に類似するのに、銅鏡愛好の風習の東伝がある。北部九州では弥生時代中〜後期に中国人が”王”とよんだ人を含め支配者層の人たちは葬られるときに銅鏡を副葬した。しかも前原市の三雲、井原、平原などの古墳では二十〜三十枚の銅鏡を副葬している。
 これにたいして、弥生時代の奈良県域では、弥生遺跡はたくさんあり、しかも大面積の発掘がおこなわれているのに、北部九州の弥生社会でのような銅鏡副葬の風習の形跡は皆無である。御所市名柄で、多紐細文鏡一面が出土しているが、これは東北アジアで流行したもので化粧道具としての鏡ではない。
 ところが近畿地方で前方後円墳の築造がはじまり、絹が使われだすとともに、ほとんどの古墳に銅鏡が副葬されはじめ、しかも二十〜三十枚の多数の銅鏡を副葬する風習もあらわれる。北部九州の文化が伝わったのは事実とするほかない。その背後に集団の移動を想定すると邪馬台国東遷を考えるのが説明しやすい。こうなると、”ヤマタイ国はどこですか”にたいして”いつの時代のヤマタイ国ですか”と問い返さなければならない。」

 佐賀県には吉野ヶ里遺跡があります。紀元1世紀に外堀ができ始め、2世紀にはほぼ現在残る規模(国営公園面積約50ha)になり、3世紀に最盛期を迎えます。その西には大和(やまと)の地名が残ります。ここが東遷前の邪馬台国とみて間違いないでしょう。邪馬台の発音は「やまと」と私は考えますので、邪馬台国をヤマト国と表記します。

写真5:吉野ヶ里遺跡

3.7世紀末の常識

 ヤマト国の女王ヒミコは日巫女(ひみこ)、即ち太陽の祭祀を行っていた者と考えられます。ヒミコの死後、ヤマト国は東に遠征の軍を派遣します。記紀に当てはめますと、北部九州を出発した船団を率いたのは初代神武(じんむ)天皇。神武天皇を導いたのが三本足の烏(からす)。三本足の烏は中国では古代から太陽の象徴とされ、それが日本に伝わったものです。実際に王朝を建てたのが崇神天皇(10代すじん)です。崇神は、ヤマト国の太陽神信仰を奈良盆地を中心とする東遷後のヤマト国に持ち込みました。
 箸墓が造営されたのは壬申の乱(672)の四百年前のことです。壬申の乱の時にもこの墓が誰のものか、当時の人々は知っていました。
 「箸墓とみてまず間違いのない古墳が、「紀」(引用者注:日本書紀)にもう一度出ている。しかも、扱いのランクがあがって「箸陵」として出ている。「紀」によると、壬申の乱(六七二年)のとき、戦の勝利を祈願するため、大海人皇子(のちの天武)側がイワレ彦(神武)の陵に馬や兵器を奉っているのと、三輪君高市麻呂らが上道方面で、箸陵のもとに戦っているのと、陵関係の記事が二つある。
 ぼくは前に、『想像が許されるならば、皇位争奪の争乱(壬申の乱)にさいして、いち早く始祖王の墓、および大和の王権にとって伝説のうえで由緒ある箸墓を手中におさめたり、戦勝の祈願をおこなうことは、皇位の正統性あるいはその地域にたいする支配の正統性を主張するうえで、重要な手段であったとみてよかろう』と述べたことがある。」(森浩一著「記紀の考古学」第3章箸墓伝説と纏向遺跡)
 不比等は、始祖王が北部九州から来たこと、ヤマト国は太陽神に仕える巫女(みこ)が治めていたこと、箸墓古墳が誰の墓であるかも知っていたはずです。

4.箸墓の主

 箸墓の主は誰か。出雲王朝を平定した始祖王は崇神です。素直に考えれば箸墓は、崇神天皇陵ということになります。ところが日本書紀では、ヤマトトトヒモモソ姫(以下、モモソ姫)を葬ったのが箸墓としています。モモソ姫とは何者なのでしょう。
 崇神は、山城(やましろ)のタケハニヤス彦の反乱を知ります。古事記では、崇神自身それに気付きますが、日本書紀ではモモソ姫がそれに気付き、おかげで崇神は反乱を平定することができました。予知能力、透視能力のある女性です。
 魏志倭人伝正始八年(247)の記事からヒミコは既に亡くなっており墓を造り終えていたことが解ります。ヤマト国の東遷の前ですから墓の所在地は北部九州です。箸墓はヒミコの再葬墓である可能性は否定できませんが、ヒミコの後を継いだ王であり太陽神の祭主でもある臺与(とよ。あるいは壹与)の墓である可能性が高そうです。そうであるならば、始祖王である崇神は女性だったことになります。古事記では崇神自身が反乱に気付いたのですからその点でも矛盾はありません。

写真6:箸墓古墳の宮内庁掲示(「倭迹迹日百襲姫」の記載)

5.蛇と鏡の分離

 モモソ姫は大物主の妻になります。大物主の正体は実は蛇でした。その姿に驚いて声を上げたので夫は怒って人の姿に戻り、山に飛び去ります。モモソ姫は箸で性器を突いて死にます。
 大物主は三輪山の神とされています。山の神のシンボルは蛇であり、箸は蛇を表します(吉野裕子著「山の神」)。モモソ姫は蛇と交わり、箸、即ち蛇と共に死に、蛇と共に葬られたのです。箸墓、即ち蛇の墓。山の神のシンボルの蛇を葬ったということになります。慌ててモモソ姫のくだりを作ったのでしょう、日本書紀にのみ盛り込まれました。古事記の完成は712年。日本書紀の完成は720年です。前章で述べましたが、この頃山の神の象徴である蛇が抹殺されたのです。
 山の神は蛇でした。そして鏡(カカミ)は蛇(カカ)の象徴でした。一方、鏡は太陽神の象徴でもありました。不比等は太陽神アマテラスを皇祖神とし、鏡を神器にしましたので蛇と鏡の関係を断つ必要がありました。そこで、中国思想の易・陰陽五行によって山の神の象徴を蛇から猪に変えました。そして山の神と結びついた太陽信仰を国の中心にもたらした崇神王朝の太陽神祭主の墓に蛇を葬ったのです。こうして鏡を媒介として結びついた山の神と太陽神は分離され、太陽神信仰は純化されたのです。

6.割った人

 崇神王朝は約140年間続きました。この間に築造された墳丘長200m以上の大古墳数が14。冒頭の桜井茶臼山古墳もこれに含まれます。崇神王朝の日本書紀の記述は信用できませんが初代神武から14代仲哀まで14人。これと一致します。記紀編纂にあたって、大古墳の数から天皇数を決めた可能性がありそうです。
 14の大古墳の内、12は奈良県内。大阪府藤井寺市に1、岸和田市に1。14全てが王の墓ではないかもしれません。王は、臺与のように女性もいたでしょうし、男王もいたかもしれません。記紀で崇神王朝をたどることはできません。
 さて、冒頭の問いに戻ります。茶臼山古墳の銅鏡は誰が割ったのか。私は藤原不比等と考えます。不比等は崇神王朝が残した大規模な墓を暴き、鏡を割ったと思えるのです。残念なことに箸墓はもとより宮内庁が皇室陵墓に指定しているものは発掘が許されません。

7.最後に

 2017年8月から連載を始め十五章、十九回。記紀を基にした古代史解明の旅は終了です。お付き合いありがとうございました。
 連載を終えるにあたり再度指摘しておくべきと考えたことがあります。それは、東遷後のヤマト国、即ち崇神王朝の記紀の記述が全く信用できないことです。初代神武天皇から欠史八代を挟んで実質上の初代である第10代崇神から14代仲哀(ちゅうあい)天皇までの150年弱。3世紀第3四半期から4世紀末までの期間です。記紀からこの王朝を追うことはできません。
 一方、その前の出雲王朝の神話は詳細かつ長く、出雲族が大和に入り、三輪山に大物主を祀ったことまで書いています。私は第十章8.本田善光で、「古代中国には一族の先祖の供養は同族の者に行わせなければ魂を鎮めることができないという考えがありました。(中略)日本でも奈良盆地東部にある三輪山の南東山裾に残る出雲庄という地名から、三輪山に鎮座する出雲王朝の祖先神大物主(大国主)を祀る為に、出雲王家の血を引く者が住む集落が残されたであろうことが推測できます。」と書きました。又、第六章3.藤原家の誕生で、「出雲王朝も太陽神を祀りました。ただ、神の名はニギハヤヒと呼んでいました。出雲王の末裔は、同じく太陽神を信仰する神武天皇に滅ぼされた後も祭祀継続を許されました。」と述べ、その祭祀の場所が枚岡神社(東大阪市出雲井町)であること、中臣氏が出雲王朝の王の後裔であろうことを指摘しました。祭祀継続のおかげで出雲王朝の記録が残り、記紀編纂にあたって神話時代に充てることができたのです。
 物部王朝は、前方後円墳という墳丘の形こそ受け継ぎましたがヤマト国の記録は受け継ぎませんでした。私は、ヤマト国を滅ぼした応神天皇がヤマト国の祭祀を残さなかったのが原因と推定しています。ヤマト国の王の魂を祀る大和神社(おおやまとじんじゃ)、ヤマト国の太陽神を祀る檜原神社(ひばらじんじゃ)、共に時間が経ってから祟りに気づいて、物部王朝が祭祀を始めたのです(第一章5.国譲りを参照ください)。
 8世紀、記紀の編纂にあたって記述されたヤマト国の歴史は創作されたものです。初代神武から欠史八代はもとより、第10代崇神から14代仲哀までの王(天皇)も多くの研究者が「伝説的存在」としています。ヤマト国の歴史は永遠に失われてしまいました。残念なことです。
 2019年2月5日が旧暦の元日。即ち、この日より亥年。私はアラカン(Around 還暦)を終え、還暦を迎えます。2009年8月に連載を始めたアラカン社長の徒然草も今回をもって終了。ご愛読ありがとうございました。今後は、もう一つの連載・大和の酒蔵便りにて、不定期に「知的好奇心に肉薄」する話を掲載する心づもりです。例えば先月号では15世紀の樽の普及について、その製造道具である正直(しょうじき)と共に述べています。今月号では「猪」と「豚」、二つの漢字について。ご愛読賜れば幸いです。

終わり

「物部」は天皇の形容詞だった!<古代史の謎は血縁関係で解ける>
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