第10話 幕末と英国と龍馬 <転編>いろは丸事件

投稿日:2010年10月08日

 坂本龍馬がブームです。戦後、龍馬が有名になった端緒は、司馬遼太郎が書いた小説「竜馬がゆく」です。1962年からサンケイ新聞夕刊に連載され、評判になりました。「竜馬」は幕末に実在した「坂本龍馬」を題材に、司馬氏が創作した人物です。

 さて、実際の坂本龍馬はどうであったのか。今回は三回目、<転編>です。

 本文中の文章の引用は、特段断らない限り、加治将一著「龍馬の黒幕」からのものです。

10.倒幕の構図

 慶応2年(1866年)6月(旧暦)、イギリス公使ハリー・パークスの一行が鹿児島を訪問、薩英関係を深めます。パークスは、薩摩藩と英国との連絡窓口として寺島宗則を江戸に置くことを希望しました。

 「パークスは薩摩に向かう途中、下関に寄る。高杉晋作と博文が駆けつけ、薩摩からの帰りがけにもう一度寄って、長州藩主毛利敬親との面会を希望している」英国は、薩摩、長州への肩入れの姿勢を明確にしたと言えるでしょう。

 「このころからパークスは幕府を見限っていたようだが、アーネスト・メーソン・サトウの日記には幕臣、勝海舟が頻繁に登場しはじめる。」加治氏は、「英国のエージェントとして動く勝海舟。」としています。

 幕府はフランスを頼ろうとしていました。1867年1月、遣日フランス軍使節団が到着し幕府を支援し始めます。薩長と英国、対する幕府とフランスという構図が明らかになってきました。

 この間、慶応2年(1866)7月20日(旧暦)将軍徳川家茂の薨去、12月5日(旧暦)徳川慶喜の将軍就職、同月25日(旧暦)孝明天皇の崩御。翌慶応3年(1867)1月(旧暦)、祐宮睦仁親王(明治天皇)の践祚と推移します。

11.いろは丸事件

鞆の浦

 いろは丸(160トン)は、亀山社中が運用を請け負うことを条件に勤王派の大洲藩が購入した中古の蒸気船です。

 いろは丸は海運に従事し始めましたが、何ヶ月かして亀山社中は海援隊に改称し、海援隊は土佐藩の長崎の出先機関に「暗に属す」とされました。この変更の意味は、慶応3年(1867)4月(旧暦)、改称後の初航海で明らかになります。

 紀州藩がグラバーから買って運用していた明光丸(887トン)と衝突し沈没するのです。

 一度衝突したあと、もう一度衝突して致命的損傷を受けるという不自然さ。おまけに坂本龍馬を含む乗員は全員無事で、明光丸に乗り移って鞆の浦(広島県福山市)に上陸しています。沈没するほどの衝突で死者はもちろん、負傷者がでないはずはありません。

 いろは丸購入にあたった大洲藩の国島六左衛門はなぜか慶応2年(1866)12月(旧暦)に割腹自殺しています。

鞆の古い街並

 交渉は、「暗に属す」土佐藩が表に現れ、紀州藩との間で行われました。

 海援隊側の主張は、いろは丸はオランダ商人ボードインから4万2千5百両で購入し、積み荷には最新式のミニエー銃400丁が含まれており、その価格は3万9千両であるとするものです。

 「船を沈めたその償いは、金を取らずに国をとる」

 交渉中に龍馬が流したとされる戯れ歌です。紀州藩は徳川御三家です。これをきっかけに薩長が倒幕に動けばおおごとです。英国に攻撃されれば紀州藩は壊滅します。

 4年前の薩英戦争では、英国海軍の砲撃で鹿児島の街が灰燼に帰しています。紀州藩にとってこれほどの脅威はありません。8万3千両を紀州藩が損害賠償金として払うことで決着します。

12.新事実の発見と真相

いろは丸展示館(福山市鞆町)

 沈没した船体は1987年頃に発見され、数度の水中調査が行われました。結果は、小銃が発見されなかったどころか、船はほぼ空荷だったことが判明しました。

 今年2010年4月に報道されたように、契約書が新たに発見されました。売買は慶応2年(1866)8月(旧暦)。売り主はポルトガル領事。金額は1万両。既に支払いが済んでいたことも明らかになりました。

 1万両の中古船に8万3千両。いろは丸事件は、坂本龍馬が仕組んだ海援隊と土佐藩による大がかりな詐欺恐喝事件だったのです。

 一度目の「衝突」は狂言。言いがかりをつけて明光丸に乗り込みます。二度目の「衝突」は接触。明光丸の船側に証拠となる傷さえ付ければ良いのです。自ら船底に穴を開けて徐々に浸水、曳航中に沈没したと私は推測します。

龍馬の隠れ家(いろは丸展示館展示品)

 綿密な計画の上で実行したに違いありません。船の価格を操作する為に、購入契約書の偽造、長崎奉行所への虚偽の届出が必要です。

 積荷を偽装する為に、船荷目録の虚偽記載が行われたはずです。船荷目録は、賠償金算定の基礎になります。英語では"Manifest"。欧米では、海上保険も発達しており厳密に記述されるべきものでした。

 積地で船会社が積荷毎にその数量を明記し、到着港で示す交易上の中核書類です。果たして記載された荷は綿、大豆、砂糖など。それに「用物箱」。交渉にあたった土佐藩は、この中身が400丁のミニエー銃であり、その価格は3万9千両であると主張しました。

 ミニエー銃は一丁15~18両です。400丁であれば6千両か7千両。弾薬が含まれていたとしても3万9千両は桁違いです。マリリン・モンローの使用済みパンティーでも付いていたなら話は別ですが、時代が合いません。現代流に言えば、民事介入暴力の手口です。

 海上で待ち伏せしたはずですから航海日誌は間違いなく偽造です。有利な証言を引き出すよう明光丸の船員の買収が行われたとすれば、龍馬の神戸海軍操練所時代の人脈が役立ったことでしょう。

いろは丸に使用された滑車(いろは丸展示館展示品)

 いろは丸購入を仲介した龍馬と五代友厚は、亀山社中が運用を請け負うということで強引に購入させたようです。運用の実績は龍馬の言ったようには上がりません。購入にあたった国島六左衛門は責任を感じて自殺したものと推測されます。

 亀山社中は長州に武器を供給するトンネル会社としてグラバーによって設立されたものです。いろは丸の用船はグラバーとは関係がありません。龍馬は、亀山社中を使って、巧妙に立ち回っていたのです。しかし龍馬には資金がありません。

 逆に亀山社中も龍馬も借金はあったようです。大洲藩の国島を抱き込んで、或いは脅かして船を手に入れたものの、運用実績が上がりません。いよいよ金策に窮し、国島の自殺が引き金になって、思いついたのが海難事故を装った巨額詐欺恐喝。龍馬の実像が浮かび上がってきます。

第10話<転編>終わり

写真1:鞆の浦
写真2:鞆の古い街並
写真3:いろは丸展示館(福山市鞆町)
写真4:龍馬の隠れ家(いろは丸展示館展示品)
写真5:いろは丸に使用された滑車(いろは丸展示館展示品)