第72話 昭和40年代の酒造りと今

投稿日:2017年6月15日

 今年、2017年3月22日、大阪能率協会会員の皆様16名を弊社に迎え酒蔵見学会を行いました。参加者の中に萬成博(まんなりひろし)関西学院大学名誉教授が居られ、昔まとめられた次の論文を頂戴しました。

関西学院大学社会学部紀要第15号抜刷(昭和42年12月15日発行)

酒造りの労働の組織 - 産業社会学的研究 –

 はじめに

 第一章 在来蔵における杜氏と蔵人     牧 正英

 第二章 酒造業における技術革新と労働組織 萬成 博

 第三章 酒造り出稼ぎの実態        清野雅美

http://www.kwansei.ac.jp/s_sociology/kiyou/15/15_ch05.pdf

 昭和42年(1967年)といえば日本は戦後の高度経済成長の真っ最中。「器具の合理化、機械化」が加速していました。当時の様子を知ると共に現代の酒造りとの対比を試みたいと思います。

1.「はじめに」より

 「わが国の酒造業は、日本が産業革命を経過する前(1890年代)までは、最大の工業であった。明治7年(1874)の『府県物産表』によれば、各種工業部門の生産額のなかで、酒類、醤油および味噌などの醸造業を中心とする食料品工業が、全工業生産額の42%であり、酒造業は全工業生産額のなかで16%強に達していた。」。

 産業革命の進展に伴って酒造業の比率は下がり、「近代産業一般における技術革新の影響」を受け、昭和42年時点で「酒造りの技術や労働の組織も重大な変容をとげつつあ」りました。

2.伝統的な杜氏と蔵人の役割(第一章より)

 従来、「酒の醸造は、夏には米作に従事し、冬には酒蔵で働く杜氏と蔵人によって構成される独特な集団によって営まれる」ものでした。「蔵人」(くらびと)とは、杜氏以外の酒造りに携わる職人のことです。

 「酒の醸造の全部の責任者は、杜氏にある。酒造経営者は、酒の醸造の一切を杜氏にまかせ、醸造工程はすべて杜氏によって管理され、杜氏の技術と勘が、酒質の良否を決定している。

 杜氏は酒造りの技術者であり、製造の全責任を負うばかりでなく、酒造りの労務者は杜氏が雇用し、徒弟的に訓練をあたえ、酒造りの各役職に任命する。」(引用者注:「雇用」は「採用」の意味であり給料は酒蔵側で払う)。

3.昭和の技術革新・第一段階

 論文の調査対象は、次の2社、5蔵です。

伊丹三共酒造(伊丹市。ブランドは「老松」)
 老松蔵   江戸時代築 木造一部二階 醸造石数 2,500石( 450KL)

小西酒造(西ノ宮市。ブランドは「白雪」)
 新生蔵   戦後築   木造一部二階 醸造石数 4,500石( 810KL)
 内蔵    戦後築   木造一部二階 醸造石数 4,500石( 810KL)
 寿蔵    戦後築   鉄筋三階   醸造石数 9,000石(1,620KL)
 富士山二号 戦後築   鉄筋三階   醸造石数23,000石(4,140KL)

 上から順に、老松蔵、新生蔵、内蔵は、技術革新の遅れた「在来蔵」です。

 「最も人力を必要とする原料輸送の工程では、(中略)従来の人力運搬に依存し、又醪の管理の工程では、同じく外気温の調整に依存していた。」(引用者注:「醪」(もろみ)とは発酵液のこと)。今日では常識の、醪を冷却して発酵速度を調整する設備が入っていません。

 一方で「酒の輸送にポンプ、火入れに蛇管を用いるなど新しい機械使用が」始まりました。ポンプが導入されるまで、酒の移動は20Lほど入る手桶に汲んで肩に担いでいたのです。

 火入れとは60℃の低温殺菌のことでそれまでは酒を釜で煮ていたのですが、蛇管(じゃかん。金属製の管を螺旋状に巻いたもの)を熱湯の入った釜もしくは桶に沈め、蛇管の中にポンプで送り込んだ清酒を通すことで加熱するようになりました。

 原酒タンクと蛇管、火入れ後の貯蔵タンクをホースで繋いでポンプのスイッチを押せば酒温を確認するのみ。火入れは一人の作業になったのです。

原酒タンク⇒ポンプ⇒蛇管(釜・桶←ボイラで加熱)⇒貯蔵タンク

 発酵と貯蔵に使う容器は杉材の桶から琺瑯(ホーロー)タンクに代わりました。琺瑯タンクは貯蔵中の酒質変化が少なく、密封性もあり貯蔵期間中の欠減なく、何よりも洗浄が楽になりました。

4.昭和の技術革新・第二段階

 寿蔵、富士山二号は機械化が進んだ新しい工場です。

 原料(米)輸送はエレベーター、エアーパイプを使用していました。

 「蒸には連続蒸米機が(中略)釜にとって代わりました。」、「富士山二号では、原料処理の工程は、連続タンクによって洗米し、連続蒸米機および連続放冷機によって、精米を処理して、コンベヤーで麹室に送り込んでしまう。この全行程は、6ないし7個のバルブの操作によって達成され、人力労働は存しない。」。

 自動製麹機(せいきくき)が導入されました。「麹造りの主任たる大師とその補助労働者である室の子は、自動製麹装置の導入によって、その仕事はなくなった。」(引用者注:「大師」(だいし)は麹作りの責任者の役職名。「室」(むろ)は麹を作る部屋、即ち麹室(こうじむろ)のこと)。

 麹作りは朝、米が蒸し上がって冷まし、麹菌の胞子を振り掛けてから麹ができるまで二昼夜、約50時間の工程です。工程最後の十時間、従来の手作りでは仮眠をしながら朝まで作業がありました。

 自動製麹機(せいきくき)の導入により夜間作業はなくなり、20時就寝で朝まで眠れるようになりました。寿蔵の自動製麹機で作られた麹は在来蔵の新生蔵、内蔵にも供給されましたので、小西酒造では麹作りはほぼ自動化されていました。

5.最新鋭の富士山二号蔵 

 富士山二号は昭和38年に操業を開始しました。それまでの在来蔵では蒸米の冷却や発酵温度管理の容易な気温が低い時期、即ち晩秋から春までだけ醸造を行っていました。

 これを「寒造り」(かんづくり)と言います。一方、同蔵では機械化が進み、冷凍設備を完備し、四季を通じて清酒を生産できるようになったのです。当時、「酒」といえば清酒の時代。清酒需要は右肩上がりで大量生産する必要があり、清酒は質よりも量が求められていました。

富士山二号の職制

 「酒造工場における杜氏の地位はなくなった。富士山二号では、杜氏の役割は、技師と工場職長の二つに分解してしまった。しかも醸造の責任および人事管理の責任は、技師の手にうつり、職長は技師を補佐する筆頭の係長であり、発酵係の責任者にすぎなくなった。」。

6.製造効率の向上

 「酒造規模1,000石の場合の労働者数は、麹師を除き、少なくとも10人程度であった。これは貞享年間(1684〜7)の『童蒙酒造記』にみられる労働者数であるが、この10人〜16人程度の労働者編成が、醸造工程の機械化以前にみられた構成である。」(引用者注:「石」は180L。1,000石は180KL)。

 醸造工程の機械化により一人当たりの製造石数は急増します。醸造工程の機械化以前の標準的な醸造規模である1,000石蔵において労務者数16名で醸造日数150日とした場合、1日一人あたりの醸造石数は、0.4石です。それが昭和42年時点で最も機械化が遅れた老松蔵でも1.1石、自動製麹に変わった新生蔵、内蔵、寿蔵では1.5〜1.6石、四季醸造になった最新の富士山二号では2.7石です。

労務者数と製造効率(第二章第1表 酒造場の新旧の技術体系より抜粋):

製造石数 労務者数 醸造日数 1日1人当たり製造石数
老松蔵 2,500石 15人 150日(秋~春) 1.1石
新生蔵 4,500石 19人 150日(秋~春) 1.6石
内蔵 4,500石 19人 150日(秋~春) 1.6石
寿蔵 9,500石 44人 150日(秋~春) 1.5石
富士山二号 23,000石 28人 300日(四季) 2.7石

(引用者注:第1表の醸造日数の誤印字を発見し80日→150日と修正)

(以下、筆者による追記)

天津中谷酒造 4,500石 10人 210日(秋~春) 2.1石
中谷酒造 500石 4人 150日(秋~春) 0.8石

7.現代の中小酒蔵との対比

甑と放冷機(中谷酒造)

 参考として現代の天津中谷酒造(中国天津市)及び中谷酒造(大和郡山市)の数値を追記しました。

 天津中谷酒造は中規模酒蔵の一例です。1日一人当たりの製造石数が2.1石と、比較的高効率に見えます。その最大の理由は論文が書かれた後に機械化された作業があるからです。それは醪(もろみ)の搾り作業です。

従来は醪を15Lほど入る袋に分けて汲んで入れ、たくさんの袋を槽(ふね)と呼ばれる頑丈な箱に並べて上から蓋をして圧力を掛けて搾り、翌朝袋から粕を取り出す作業を人手で行っていました。

放冷機、蒸米輸送ホースと送風機(天津中谷酒造)

 昭和40年代半ば以降、藪田式(やぶたしき)と呼ばれる自動圧搾機の使用が始まりました。醪はポンプで圧搾機に送り込み、空気圧で搾ります。粕取りも圧搾板と濾過板に被せた布の表面に付いた酒粕をヘラで落とすだけで済みます。今日の大手清酒メーカーの製造効率も藪田式圧搾機導入により大幅に向上しているはずです。

 一方、天津中谷酒造では純米大吟醸や純米吟醸といった高級酒を少なからず造りますので、品質の為に敢えて労力を掛けている作業もあります。それは蒸米と麹作りです。

 麹にする米は吸水前に水分含有量を計測し、吸水試験を行った上で洗米後の水分含有量を一定にします。連続蒸米機は蒸し上がりにムラが出るので使いません。従来通り甑(こしき)と呼ばれる円筒形の容器に米を入れて定時間、一定の圧力で蒸します。

藪田式圧搾機(中谷酒造)

 これにより蒸し上がり後の麹米(こうじまい)の水分含有量が一定になり、麹の生育速度が誤差の範囲に収まります。麹菌の生育は水分含有量によって大きく左右されるからです。

 全自動の製麹機(せいきくき)は使わず、麹の生育環境を時間経過毎に設定でき、経過を記録できる半自動「ハクヨー式」製麹機を使います。全自動にはできない精密な管理、再現性のある突破精型麹(つきはぜがたこうじ。吟醸酒に使う、菌糸が米粒の表面から中心に向かって突き刺すように生育した麹)作りが可能になります。

圧搾機の布洗浄(中谷酒造)

 中谷酒造は小規模酒蔵の一例です。1日一人あたりの製造石数が0.8と少ないのは、基本的に製造石数が少なく効率が悪いこともありますが、天津中谷酒造同様の蒸米と麹作り作業を行うのみならず質の高い酒を精密に造るため、多くの手数を掛けていることが理由です。中小酒蔵では今日でも杜氏は酒造りの全責任を負います。

8.酒造りを支えた出稼ぎ労働

 デカンショ、デカンショで
 半年暮らす、ヨイヨイ。
 あとの半年、寝て暮らす、
 ヨーイ、ヨーイ、デッカンショ。

 「この歌は、古きよき時代の学生たち、とは言わないまでも、あの心楽しきコンパなどを経験している学生たちにとって、なつかしい歌であろう。それについていろいろな由緒が語られているが、丹波篠山がその発祥の地であるということはよく知られている。

 (中略)丹波の雪深い山村から毎年秋になると灘五郷の酒造地帯へ出稼ぎに出ていった農家の次、三男たちの生活を歌ったものであったということである。」。

 酒造りは雪国の人々の冬場の出稼ぎ労働によって支えられてきました。雪国の農村では夏は田畑を耕し農業を営みましたが、冬には仕事がなく、現金収入を得るために出稼ぎに出たのです。第三章には農民の声が載せられています。

 「わずかに聞けたのは『家内はおばあさんが年とっているし心配だから出稼ぎをやめてくれと言う。おばあさんがことし病気して、金がいったので、今年だけきた。来年は無理だろう。土方でもやらな仕方がない。出稼ぎしないと小遣いがない。米代、14、5万じゃやっていけない。しまつすればやれないことはないが、子供があれがほしい、これがほしいというので出稼ぎにきている』と述べるボソボソ声だけであった。」。

 日本が戦後の高度経済成長を迎えると、「労働力需要が飛躍的に増大した。そのため、農村から相対的な余剰労働力ばかりでなく、あとつぎ(長男)や戸主などの農業の基幹的労働力までもが常用労働者や出稼ぎ『労働者』などの形で流出するようになる。

 それとともに、それまで酒造業の基幹的な労働力であった職人的技能労働者、上人・道具回し・釜屋・酛廻りなどの労働力が不足するようになり、全国的に、酒造労働力の老令化の傾向がつよめられていった。」(引用者注:上人(じょうびと)とは蔵人を熟練度合いによって上中下に分けた場合の一番熟練した層のこと、道具回しとは道具の世話係、釜屋は蒸米の責任者、酛廻りは酵母の培養液である酒母(しゅぼ)作り主任・酛屋(もとや)とその部下)。

9.現在の労働力構成

 筆者が子供の頃、即ち論文が書かれた時代は中谷酒造でも毎年秋になると杜氏に率いられた蔵人が十名余りやってきて酒造りが終わる春に帰って行きました。

 その後、放冷機や自動圧搾機など機械化が進み、私が大学生の頃(1980年頃)は数名に減っていました。二十年余り前、私が経営を行うようになって杜氏を年間雇用にし、それ以外は地元で補助員を雇う形態が定着しました。

 四季醸造を行う蔵では昭和42年時点で労働者の年間雇用が普及していました。今日、大手メーカーは年間雇用が当たり前です。

 現在、秋から春までの寒い時期だけ醸造する在来蔵では杜氏を筆頭とする出稼ぎ労働者と年間雇用者、地元の季節雇用が混在しています。

 中谷酒造がそうなのですが、年間雇用者とは言っても本来は瓶詰めなど製品分野の従業員や営業マンが作業密度が高い時期、時間のみ補助的に従事する例も多々見られます。

 一部の蔵では杜氏だけが出稼ぎ労働です。規模の小さい酒蔵ではオーナーである社長や跡継ぎの子女自身が杜氏となって酒造りの中核を担い、年間雇用者や季節雇用者が補助する形態も多く見られます。何れにせよ、出稼ぎ労働者のみで酒造りを行う蔵は極めて少数です。

 論文が書かれた昭和42年から半世紀。時代の流れを実感します。

第72話終わり

写真1:甑と放冷機(中谷酒造)
写真2:放冷機、蒸米輸送ホースと送風機(天津中谷酒造)
写真3:藪田式圧搾機(中谷酒造)
写真4:圧搾機の布洗浄(中谷酒造)