雄略天皇(21代ゆうりゃく)の後嗣・清寧(22代せいねい)は子を成すことなく亡くなり天皇の血は絶えるかと思われました。ところが想定外の外部から王朝の創始者・応神天皇(15代おうじん)の血を引く者が現れます。
20.清寧天皇没後
倭の五王対照表:
倭王 | 王朝と記録年 (西暦) |
天皇 | 記事 | 日本書紀 在位年数 |
筆者推定 在位 |
---|---|---|---|---|---|
讃 | 宋421,425,430 | 17代 履中 | 6 | 421-438 | |
珍 | 宋438 | 18代 反正 | 讃没,弟立つ | 5 | 438-443 |
済 | 宋443,451,460 | 19代 允恭 | 42 | 443-462 | |
興 | 宋462 | 20代 安康 | 済の子興立つ | 3 | 462-477 |
武 | 宋477,478, 南斉479, 梁502 |
21代 雄略 | 興没、弟立つ | 23 | 477-502 |
倭の五王対照表に戻りましょう。
右端の筆者推定在位年で雄略天皇の在位を西暦502年までとしています。中国の史書に書かれた477年から502年に基づけば最短在位期間は26年。日本書紀の在位23年という記事がそこそこ信頼に足りるとすれば、没年を最短の502年にするのが妥当と考えたからです。
それを基に清寧天皇が502年に即位して在位5年(日本書紀)とすれば、没年は506年。この506年は大きな節目の年です。
それはこの年のこととして古事記、日本書紀には次のように書かれているからです。
「武烈天皇(25代ぶれつ)没後、後継者はなく、応神天皇の五世孫・継体天皇(26代けいたい)を近江に迎えに行った。」
継体以降、日本書紀は在位年の操作は行っていないようですのでこの506年は正確であると私は考えています。
継体は翌年に即位したとも書かれています。清寧は22代です。清寧没の翌年に26代継体が即位したとすれば23代から25代の入る余地がなくなります。これをどう考えれば良いのでしょう。
21.王朝の並立
継体は507年に樟葉(くずは。大阪府枚方市)で即位してから大和に入るまで19年もかかり、大和に入ったのは526年です。その理由は何だったのでしょう。
本当は請われて平和裏に継承したのではなく血みどろの争いがあり、天皇即位を宣言したものの物部王朝と抗争が続き、526年にようやく和平が訪れたと考えれば辻つまがあいます。
即ち、507年から526年までは継体と物部王朝が並立していたのです。私は継体に始まる王朝を蘇我王朝と呼んでいます。
この間、日本書紀によれば顕宗天皇(23代けんそう)3年、仁賢天皇(24代にんけん)11年、武烈天皇(25代)8年、合計22年。日本書紀では仁賢も武烈も前天皇が亡くなった翌年に即位したことにしていますが、二つの王朝が並立し正統性を争っている時に空位期間を設けるはずもありません。
前天皇の没年に各々即位したとすれば足かけ20年になり、継体即位から大和に入るまでの19年間と一致します。
22.物部王朝の在位年
雄略天皇の没年を中国梁書の朝貢記録の502年と仮定した場合、日本書紀に書かれた後の天皇の在位年と辻つまが合うことが判明しました。ここで、これまでに明らかになった物部王朝の在位年を西暦で整理しておきましょう。
17代 履中天皇 421-438年
18代 反正天皇 438-443
19代 允恭天皇 443-462
20代 安康天皇 462-477
21代 雄略天皇 477-502
22代 清寧天皇 502-506(没後、後の継体天皇が王位を要求)
飯豊王女 506-507(履中天皇の娘。後述)
23代 顕宗天皇 507-509(507年、継体天皇即位宣言)
24代 仁賢天皇 509-519
25代 武烈天皇 519-526
(26代 継体天皇 526-531 後述)
23.継体の素性
物部も蘇我も元は秦氏の王族です。応神天皇率いる秦氏は朝鮮半島南東部から百済、九州を経由して大和に入り物部王朝を建てたのに対し、応神の皇子率いる秦氏は朝鮮半島南東部から越前に入り、近江にまで勢力を拡大していました。
その統領が継体です。継体は応神の五世孫(日本書紀)。即ち武烈と同じ第六世代として応神の血を引いていたのです(第69話「宇佐八幡」<中編>)。
継体は雄略の死後、清寧天皇が短期間で亡くなり、その後継者が絶えたのを見て、応神の血を引く正統な後継者として中央に進出を企てたのです。
対する物部王朝は後継者を探す必要に迫られました。暫定的に履中天皇の娘・飯豊王女(いいとよのひめみこ)が天皇の代わりを務めました。
24.オケとヲケ
市辺押磐皇子(いちのへのおしわのみこ)は雄略に殺されましたが、二人の子が発見されました。兄はオケ、弟はヲケ。上の系図をご参照下さい。飯豊王女の甥にあたります。
二人は父が殺された後、逃亡し身分を隠して潜伏していました。二人の母は百済王女。百済の血を7/8も引いていますが、それよりも応神の血を1/16引くことが重要でした。なぜなら対する継体天皇は応神の五世孫を名乗っているからです。
継体側が一切近親婚をしていない場合の応神の血の比率は1/2の5乗で1/32。おそらく両者に大差はなかったはずです。
507年、譲り合いの結果、弟ヲケが皇太子の兄に先んじて即位し顕宗天皇(23代けんそう)。在位三年で亡くなり、509年に兄オケが即位し仁賢天皇(24代にんけん)。
継体との抗争が続く中で皇太子の兄が即位を渋ったのは当然かもしれません。弟は戦死のはずです。記紀に仁賢の治世は良かったと書かれていますが実際は血みどろの戦いが続いていたことでしょう。
なぜなら継体は本拠を樟葉から筒城(つづき。京都府京田辺市)、弟国(おとくに。京都府長岡京市)と移しているからです。
物部側も仁賢天皇陵とみられる野中ボケ山古墳(藤井寺市青山3丁目。「ボケ」は天皇名「オケ」が変化したもの)の墳丘長は122mしかなく、築造に余裕がなかったことがうかがえます。
日本書紀によれば、仁賢の皇后・春日大娘(かすがのいらつめ)は雄略天皇の娘です。仁賢にとって雄略は父の仇。その娘を皇后にするでしょうか。古事記に春日大娘の出自は記載されておらず、実際には雄略と血縁関係がないどころか、王家の血は引いていないようです。
継体天皇との争いでは応神の血の比率が王朝の正統性の争点ですから偽装したものと考えられます。そして二人の間に生まれた武烈(25代ぶれつ)が物部王朝最後の天皇になります。
25.武烈天皇
古事記には書かれていませんが、日本書紀で武烈は暴君として描かれます。これは次期王朝を正当化する為に中国の史書が使う手。日本書紀は中国に倣って作られた史書ですから、当然と言えば当然です。
武烈没後、後継者はなく、継体天皇(26代けいたい)を近江から呼び寄せ次期天皇にしたと記紀に書かれていることは「20.清寧天皇没後」に述べた通りです。
事実は武烈在世中に継体との和平にこぎつけたはずです。両者協議の結果、仁賢の娘で武烈の妹・手白香皇女(たしらかのひめみこ)を継体に嫁がせることで宥和が図られました。
その間に生まれるのが後の欽明天皇(29代きんめい)です。526年、ようやく継体は大和に入ることができたのです。ここに名実ともに物部王朝は終わり、新しい王朝が始まります。
26.繰り返し
物部王朝は終わったものの王族が滅んだのではありません。記紀の記述で「物部」と書かれた勢力として残り、天皇擁立を巡って継体の血筋、即ち「蘇我」と争います。
「日本書紀は継体天皇の崩御を継体天皇25年(531年)にした根拠として『百済本記』(現存せず)に『日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳』(辛亥年(531年)に天皇、太子、皇子ともに亡くなった)と書かれていることを挙げています。
継体天皇は皇子と共に殺されたのでしょう。続く安閑、宣化二代の8年間は物部氏と血で血を争う抗争があったように思われます。和解の条件として蘇我と物部の血を半々に引く欽明天皇が選ばれ決着したと考えれば辻つまが合います。
欽明天皇の即位は539年です。」(第38話「蘇我王朝と物部の血」)
物部は応神の血は引くものの百済王家の血を濃厚に受け継いでいます。蘇我と物部、両者は混血による宥和を図ったのですが、天皇擁立を巡る血縁比率の争いが始まったのです。第二世代・欽明は1/2ずつで均衡。
やはり第三世代で問題が表面化します。この続きは第69話「宇佐八幡」<中編>をご覧下さい。
第71話終わり
写真:野中ボケ山古墳(藤井寺市青山3丁目)