第20話 昭和の正月

投稿日:2011年12月02日

 今年放送されたNHKの連続テレビ小説「おひさま」の昭和21年元旦のシーンにはビックリさせられました。

 蕎麦屋の店主一家が、座敷ではなく店内で、祝いの酒も飲まず、餅の代わりに竹輪の入った雑煮(ぞうに)と称する物を、「おめでとう」の言葉を交わして一斉に飲むのです。お節(せち)料理はありません。

 明治維新以降、国家神道の確立と共に初詣が始まり、正月を一年の中で最も盛んに祝う習慣が国民の間に広まり定着しました。終戦直後の物のない時代とは言え、習慣が消えてしまうことはありません。出来る限りのことをして祝ったはずです。

 考えてみれば、戦後は核家族化が進み伝統が途絶える環境にありました。ホテルで正月を過ごす家庭も増えました。ここ十年間でお節料理を作る家庭がめっきり減ったとも聞きます。

 脚本家はもとより制作スタッフに伝統的な正月の過ごし方を知る人がいないのではないか、ということに思い当たりました。昭和の正月を書き記すことにしましょう。

1.大晦日(おおみそか)

 主人は歳神様(としがみさま)を迎えるため、門や玄関に竹や松、藁(わら)でできた正月飾りを設置します。鏡餅(ががみもち)を床の間と神棚に飾ります。

 女房はお節料理を作ります。お節料理は四段の重箱に詰めるのが標準です。中谷家では戦前の重箱を今も使っています。

 一ノ重は口取りと言って黒豆やごまめ、数の子、紅白蒲鉾などが入ります。ごまめは「田作り」とも言い、肥料にする干鰯(ほしか)の小さいものを空炒りして醤油と砂糖をからめたものです。

 二ノ重は酢の物。ニンジンと大根の紅白なますは必須。酢ごぼう、酢レンコン。戦前でも魚の入手が容易な地域では魚やエビ、タコの酢の物が入りました。

 三ノ重は焼き物。長野県以東は鮭、以西はブリが主役。鮭もブリもたっぷり塩をしたもので、冬は気温が低く腐りませんので冷蔵輸送がない戦前でも内陸まで流通しました。今日では、ハムやチキン、ローストビーフなどが加わります。

 四ノ重は煮物。くわい、ゴボウ、レンコン、ニンジン、干し椎茸など野菜の煮物が主たるものですが、加えて昆布巻き、高野豆腐、こんにゃく、エビ。それに関西では棒鱈(ぼうだら)が入ります。

 終戦直後で物がないとは言っても、松本は農業地帯の安曇野が後背地です。各種野菜、豆、干し椎茸、高野豆腐、こんにゃく、それに干鰯くらいは手に入ったはずです。

2.元旦

中谷家のおせち料理

 正月三が日は、お節料理と餅を入れた雑煮を食べます。女房は大晦日に作った料理を重箱に補充するのみで、基本的に食事作りから解放されます。戦前はプロパンガスはまだ実用化されておらず、都市ガスが一部の家庭に普及しただけです。

 ほとんどの家庭では、朝はかまどの火おこしから始まりましたので、食事の支度(したく)は大変でした。三が日は女性が休める貴重な休日でした。

 正月の祝いの主宰者は主人です。早起きして雑煮を作り、歳神様が宿る鏡餅と神棚、祖先を祀る仏壇に供えます。

 いよいよお祝いを始めます。朝寝坊は許されません。鏡餅が床の間に供えられた座敷に家族がそろい、盃を各人に配ります。形ばかりであっても子どもにも配ります。

 主人が酒を注ぎ、正月を祝う言葉と共に乾杯します。酒は一年で最も晴れやかな正月の祝いには欠かせないものです。

 日本人の主食は米です。季節の祭りや祝いは米の豊穣につながっていました。この米で造られる酒こそ正月の祝いにふさわしいものです。かつて酒といえば日本酒を意味しました。

 日本酒は毎年秋に米が収穫される頃から造り始め、気温が上がり始める春に一年分を造り終えます。その出荷は、同年の秋から翌年の夏までの一年間です。

 昭和21年元旦に飲む酒はその前の冬に造られたものであり、戦時中といえども統制経済の下、計画通りに酒は造られました。松本は空襲を免れ造り酒屋は健在でした。正月を祝う程度の量は充分あったはずです。

 乾杯の後、お節料理に箸が付けられ、酒を酌み交わします。

3.雑煮

中谷家の正月飾り

 「明けましてお目出度うございます」の言葉と共に雑煮を食べ始めるということは決してありません。先ずはお節料理をいただきます。酔いも回ったところで、今流に言うと「シメ」として最後に雑煮を食べます。

 酒を飲まない人であっても雑煮を要求すれば、それ以上お節料理は食べないことを意味します。

 餅は、煮て柔らかくなるまで時間がかかります。女房は、酒宴の頃合いを見計らって鍋に餅を入れます。中谷家では餅を煮る代わりに焼いて椀に入れ、その上に汁をはります。簡易雑煮です。

 ドラマでは、餅が手に入らなかったから竹輪を入れたと言っていました。

 ドラマの主人公が育った家は、安曇野扇状地の上部。なだらかな傾斜が続く畑作地帯です。ここでは世界恐慌で養蚕が下火になった後、蚕(かいこ)の餌は不要ですから桑(くわ)に代えて蕎麦(そば)や麦を栽培していました。

 しかし、扇状地の下部は用水路の引かれた水田地帯です。江戸時代から米が栽培されており、そこから梓川を挟んで松本市街に至る広い一帯は水田です。当然のことながら餅の原料は、糯米(もちごめ)であり、水田で栽培します。

 昭和20年は冷夏ではなく、秋に米は正常に収穫できました。正月は一年で最も大切なハレの日です。餅にする糯米が手に入らないという情況は考えにくいものがあります。収穫から二ヶ月で米は一体どこに行ってしまったのでしょう。

4.竹輪

 竹輪の原料は、畑で取れるものではありません。新鮮な白身魚のすり身が原料です。戦前は冷蔵設備が普及していませんから、魚を捕って直ぐに加工します。松本に最も近い日本海の冬は荒れますが、果たして漁に出たものか。

 日本海に限らず漁に出ようにも漁船は戦時中に徴用され数が減っていた上に、燃料はありません。手こぎ船で捕れるわずかな魚は貴重な蛋白源で、そのまま食べるように思えます。

 進駐軍の物資の中にも竹輪は含まれていなかったはずです。米国には竹輪を食べる習慣がありません。

 仮に竹輪が昭和20年暮れにあったとしましょう。今日のようにトラック輸送が普及する前ですから物資輸送の主力は鉄道です。終戦後の鉄道輸送混乱のさ中、主食の米さえ産地から東京といった大消費地に充分な量を運べません。

 東京では飢餓が始まっています。優先的に運ぶほど竹輪は松本市民にとって重要な食品だったのでしょうか。

 私は昭和50年代に松山に住んだことがあります。賄いの老婦人が作ってくれた味噌汁には竹輪が入っていました。それは、海に面して漁港があり、水産加工場が集積する立地と伝統の上にできた松山或いは愛媛県ならではの習慣と思われます。

 餅がなくとも蕎麦屋なら蕎麦がき(蕎麦粉を練った団子)や小麦粉の団子を入れるはずです。作り話と言えばそれまでですが、「終戦直後の松本で竹輪汁」という発想はどこから来たものか。謎が残りました。

第20話終わり

写真上:中谷家のおせち料理
写真下:中谷家の正月飾り