第31話 鍛冶と菅田神社

投稿日:2012年11月30日

 『小野市史』によると、小野市内には天目一箇神をまつる神社がいくつかある。一つは小野市中番町字嶋の垣にある住吉神社であり、他は小野市菅田町字源太夫垣内にあるものである。

 『三木市金物史』の誌すところでは、式内社の菅田神社は、はじめ東条側の南岸の南垣内に建てられていたが、後世氏子が川の両岸に住むようになって、参詣をする便宜上、争いを生じ、ついに社殿を分散して祀るようになった。

 中番部落と久保木の部落は住吉神社と社名を変え、源太夫部落は菅田神社の名をとどめた。現社地に移転したのは鳥羽天皇の保安年間(引用者注:1120-1124年)という。

 菅田首の分族は大和国添上郡筒井郷(現在大和郡山市)と近江国蒲生郡桐原郷でも鍛冶をいとなんだ。そこでこの両郡はともに菅田神社を建立して今日にいたっている。

 二社とも菅田の社名を負うているのは、播磨国加茂郡(のちの加東郡)東条の菅田を発祥地としたからであると『三木金物史』はいう。(谷川健一著「青銅の神の足跡」)

1.天目一箇神(あまのまひとつのかみ)

下ツ道に立つ菅田神社鳥居

 この神は、日本書紀神代第九段に「作金者」(かなだくみ)、古語拾遺に「天目一箇神をして雑(くさぐさ)の刀斧及び鉄鐸(さなぎ)を作らしむ」とあり、鍛冶の神とされてきました。

 「目」が「一箇」。この神は片目です。「タタラの炎の色をホド穴から見るために、『十人のうち七、八人は目が不自由』になったといいます。

 『天目一箇神』に加護を願うのもうなづけるというものです」、「ヒョットコ(火男)の多くが片目である理由もそこに求めた。即ち鍛冶師は多く職業病として片目になるのであり、そこから鍛冶神としての天目一箇神が生まれたと考えたのである。」(柴田弘武著「鉄と俘囚の古代史」)

2.別所

菅田神社拝殿

 「菅田首の分族が大和と近江に居り、そこでも鍛冶をいとなんだとあるが、大和郡山市筒井町の南は額田部北町・南町で、額田(ぬかた)は吉野裕氏によれば土処田(ぬかた)で産鉄場を意味するので、鍛冶があってもおかしくない。

 しかも額田部北町には別所、額田部寺町にも別所、別所垣内の小字があるのである。」(柴田弘武著「鉄と俘囚の古代史」)

 柴田弘武氏によれば、別所(べっしょ)とは、大和朝廷に降った蝦夷(えぞ)の人々を移住させた場所のことで、全国に五百個所ほどあります。

 蝦夷では鉄をはじめとした鉱産資源が豊富で、大和朝廷の蝦夷「征伐」の目的は、奥州の鉄を始めとした鉱産資源の獲得と、技術者と労働者の確保にあったとしています。

 奥州の産鉄その他の鉱産・加工技術水準は大和朝廷に引けを取らないものだったのです。その為、ほとんどの別所では製鉄や鍛冶が行われ、その痕跡が残っていることを柴田氏は解明しています。

3.奥州の製刀技術

菅田神社本殿

 「日本刀の源流ともいうべき蕨手刀は、おもに後期古墳から発見されていて、その一九四発見例のうち、岩手五七、宮城三三、北海道三○、山形一八、関東・信越二七とその大多数を東北の地に見出すことからも(森浩一編『日本古代文化の探求=鉄』所載、石井昌国論文)、陸奥の製刀技術が少なくとも後期古墳時代にはすぐれた段階に達していたといえよう。

 このように見てくるならば、大和朝廷のいわゆる蝦夷「征伐」の目的がどこにあったかは、おのずから明らかとなってくるのではあるまいか。」(柴田弘武著「鉄と俘囚の古代史」)

4.大和の菅田

筒井順慶屋敷跡

 大和郡山市筒井町1440には菅田比売(すがたひめ)神社があり、その南3キロ、大和郡山市八条町619に菅田神社があります。菅田神社の南が天理市二階堂北菅田町と南菅田町、それに大和郡山市宮堂町です。

 宮堂は、中世は菅田宮堂と呼ばれていました。宮堂町の西隣が額田部(ぬかたべ)南町、そして「別所」の地名が残る額田部北町と額田部寺町です。

関連地図(筆者作成):
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 阜嵐健氏による延喜式神社の調査によれば、菅田神社の祭神は菅田比古(『神社要録』)、菅田首の祖神・天目一箇神(『神祇志料』)。「古く現社地の南約300mの地にあったも大永3年(1523)か、あるいはその直後に金福寺とともに現在地に移された。

 室町時代以降、金福寺の北側にあって、この寺の鎮守社であった。」、「江戸時代は八條天、一夜松天神と称す」。

 神社の由緒書には「昔、美しい女神が天理市二階堂の「菅田池」から現れ、大和郡山市八条町の神楽田の所でしばらく休んでから、そこから西の方へ行って鎮座しました。

 するとそこが一夜にして鬱蒼(うっそう)とした松林になったので、誰云うとなく、その土地を「一夜松」と呼び、今「一夜松天神」「八条天神社」とも呼ばれる現在の「菅田神社」が鎮座する」とあるそうです。

 天正16年(1588)、豊臣秀吉の刀狩によって兵農分離が行われ、各地の有力者は武士団に加わるか、武器を捨てて土地に残るかという決断に迫られました。

 それに伴って菅田村や額田部では刀剣の製作が行われなくなり、やがて農器具の製作もなくなり、鍛冶の神・天目一箇の信仰が失われたものと思われます。江戸時代、その祭神が天神(菅原道真)に変わってからも二軒の菅田家が祭祀の中心的な役割を果たしてきました。

5.菅田比売神社

菅田比売神社拝殿

 延長5年(927)にまとめられた延喜式神名帳には菅田神社と菅田比売神社が載っています。菅田神社の祭神は天目一箇(あまのまひとつ)と菅田比古。二神を併せて菅田一族の祖先神です。

 「比古」は「彦」、男神です。「比売」は「姫」、女神です。菅田比売神社は、菅田神社と対を成すものとして天目一箇と菅田姫、二神を併せて祀ったはずです。

 中谷酒造のある番条町の西隣が筒井町。戦国武将・筒井順慶の拠点です。順慶の屋敷跡の東隣に菅田比売神社があります。祭神は、伊豆能売(イヅノメ)という内容の不明な神としています。

 この神社は、江戸時代の終わり頃に筒井町の北はずれにあった信太宮を、ここにあった八幡宮の境内に移して菅田比売神社と名付けたものです。江戸時代には既に延喜式に記載された菅田比売神社はなくなっていたのです。

6.菅田比売神社の所在

菅田神社発祥地碑と菰池

 ではどこにあったのか。先ず、菅田神社の元の位置。移転する前は現社地の南、宮堂町北部にあったとする見方があります。「宮堂」という地名もそれを暗示しているのかもしれません。

 「神社空間」管理人のkokoro氏は「菅田池の女神」の中で、昔は菅田池がその南に大きく広がっており、池の北岸に菅田神社、南岸に菅田比売神社があったとして、北菅田町堂畑の春日神社が菅田比売神社ではなかったかとされています。

 春日神社の祭神は春日神(アメノコヤネ)とイチキシマ姫の二柱。江戸時代建立の灯籠には「春日」と「辨天」が刻まれており、何れにせよ女神を祀っていたことが解ります。魅力的な説です。

 ただ、地元では菅田神社は移転前、下ツ道(しもつみち)沿いの菰池(こもいけ。南菅田町)あたりにあったとしており、「菅田神社発祥地」の碑が立ちます。春日神社の南東300メートル。現社地から南南東に3キロです。

 私は、菅田比売神社は佐保川を挟んで隣り合う額田部北町か寺町にあったのではないかと考えています。

 「別所」という地名から見れば、延喜式がまとめられた平安時代には既に額田部は鍛冶場として栄えていた可能性が高く、そこに社名が記録される程の際立った神社がなかったとは考えにくいからです。鉄と火には神がつきものです。

 宮堂町の西隣が額田部南町、佐保川を挟んで額田部北町と額田部寺町です。宮堂町から額田部寺町までの距離はわずか1キロ。菅田と額田部は一体と言える狭い地域であり、川を挟んで菅田側に男神、額田部に女神という配置は自然な形のように思えます。

第31話終わり

写真1:下ツ道に立つ菅田神社鳥居
写真2:菅田神社拝殿
写真3:菅田神社本殿
写真4:筒井順慶屋敷跡
写真5:菅田比売神社拝殿
写真6:菅田神社発祥地碑と菰池