第44話 貨幣経済の始まりと平清盛

投稿日:2014年2月21日

 私は昼食時にNHKを付けっぱなしにする習慣があり、朝ドラの再放送を横目で見ます。現在放送中の「ごちそうさん」にせよ、2012年放送の「梅ちゃん先生」にせよ、制作者が戦前はエアコン(クーラー)が普及していなかったことを知らないことに驚かされます。

 前者では、真夏というのに設計事務所の窓を閉め切って三つ揃いのスーツ、或いはベストを着用しています。後者では終戦の8月15日に軍需工場の窓は全閉で、軍人も冬服を着込んでいました。焼け野原のバラックは窓も戸も全閉でした。

 私は昭和34年の生まれですからクーラーが普及する前の時代を知っています。夏は窓や戸は全開で、風通しが一番の暑さ対策でした。服装も近場なら男性の大人も子供も肌着一枚でした。

「経営者・平清盛の失敗」表紙

 文明の利器が普及すると、それ以前のことは忘れられがちです。今日当たり前のように使っている貨幣。これはどのようにして日本に普及したのか。

 我々が学校で学ぶ歴史は政治史に重点が置かれていることもあり、忘れられたまま置き去りにされてきました。この謎に果敢に挑み、解明した好著をみつけました。山田真哉著「経営者・平清盛の失敗」(講談社)です。

1.通貨普及の基盤

宋銭(育鵬社「中学社会 新しい日本の歴史」より)

 日本の貨幣経済の始まりで使われたのは日本で鋳造された銭ではありません。隣国中国の宋王朝が鋳造した硬貨・宋銭(そうせん)でした。

 貨幣は、発行者への信任がなければ誰も使おうとしません。なぜなら貨幣の価値よりも原料価値が低いからです。例えば今日流通する100円玉は白銅でできていますが、白銅としての価値は約25円です。紙幣ならば更に明確です。

 紙幣は額面金額そのものが全て信任で成り立っています。今日我々は日本銀行が発行する貨幣を使用していますが、それは日本国への信任の基に流通しているのです。平安時代の日本人にとって、隣国が発行した銅製の貨幣に銅以上の価値を見出すことは困難であることは自明です。

 ならば何故宋銭が普及したのか。山田氏は貨幣としての価値ではなく、単に銅としての価値で流通したことに思い当たります。

2.末法思想

 平安時代後期、釈迦の教えが行われなくなる末法の時代が1052年から始まると信じられていました。末法思想の流行です。死後の安楽を得る為に、仏教の経典を腐食しにくい銅製の筒に入れて埋めることが大流行しました。

 この銅製の筒を経筒(きょうづつ)と言いますが、発掘された経筒の成分を分析すると、1150年頃を境に国産銅から中国産に切り替わったことが判明しました。宋銭は、経筒の原料として大量に輸入が始まったのです。

 宋銭は、貨幣としての価値ではなく原料としての銅の価値で流通しました。その証拠に一文銭のみが輸入され、二文銭や十文銭は輸入されませんでした。誰も宋銭を貨幣としては見ていなかったのです。

3.通貨としての流通

平清盛像(育鵬社「中学社会 新しい日本の歴史」より)

 平安時代後期、通貨の代わりに使われたのは絹(織布)と米でした。これらに比べて貨幣は交換の利便性が高く、持ち運びも便利です。既に宋銭は大量に出回っています。

 それが銅としての価値しか持たないものだったとしても経筒を作る人が大量に居れば、決済を宋銭で受けても支障はありません。1160年頃から宋銭は貨幣としても使われるようになりました。

 それに目を付けたのが平清盛です。1170年、大輪田泊(現在の神戸港)を作り、宋船を直接畿内に入れ、日宋貿易を独占します。それまで宋船は博多港に入り、そこに拠点を構える宋商人の手を経て荷が日本国内に流通するのが主でした。

 宋銭の輸入を独占することにより平家は中央銀行の役割を果たすことになったのです。貨幣経済はどんどん拡がって行きます。平家は輸入した分だけ宋銭を使えるのですから、巨万の富が転がり込むことになりました。

4.銭の病

 「百練抄」という書物の治承三年六月に「銭の病」の流行が書かれています。西暦で1179年のことです。山田氏はこれを高利貸しによる多額債務者問題であったことを解明します。当時の金利は1年4ヶ月で100%でした。

 大量の多額債務者の発生は、返済の為の銭が必要ですので銭不足を引き起こします。宋銭の輸入が追いつかず銭の価値が上がり、デフレが訪れたのです。中央銀行である平家は莫大な利益を得ます。一方で銭を持たぬ者の不満は限度一杯まで高まりました。

5.気候変動

 1180年、西日本で干ばつにより飢饉が起こります。翌年は養和の大飢饉が発生します。こうなると食糧を持っている者が有利です。銭で買おうにも売ってはくれません。僅かに出てくる余剰穀物も価格が高騰します。

 デフレが一転しハイパーインフレが始まりました。銭に物を言わせていた平家ですが、銭では誰も動かなくなってしまいました。

 それまで貯まっていた平家への不満が爆発します。各地で反乱が起き、1185年、平家は壇ノ浦で滅亡します。

 「驕る平家は久しからず」という言葉は、平家が貴族化して奢侈に走り、政治を疎かにしたので滅んだという意味ではありません。平家は気候変動によって滅んだのです。

 平家滅亡の原因となった急激な気候変動が収まると経済活動は順調に戻り、宋銭の流通は続きます。平家の盛衰を見てきた鎌倉幕府にとって貨幣経済は諸刃の剣に映りました。しかし貨幣の便利さに勝つことはできません。1226年、幕府は宋銭使用を正式に認めます。

第44話終わり

写真1:「経営者・平清盛の失敗」表紙
写真2:宋銭(育鵬社「中学社会 新しい日本の歴史」より)
写真3:平清盛像(育鵬社「中学社会 新しい日本の歴史」より)