第68話 カギ括弧付きの中華思想

投稿日:2016年7月08日

2016年6月25日付日本経済新聞朝刊

 2016年6月24日、前日行われた英国国民投票の結果が判明し、英国はEU離脱を選択したことが明らかになりました。

 「入り組んだ争点を二者択一に集約した今回の国民投票を煎じ詰めると、2つの論点が浮かび上がる。移民と主権だ。」(日本経済新聞2016年6月25日朝刊)

 私はたまたま十五年前に読んだ中華思想に関する文書を読み返していました。それは中国研究者・竹内実(1923-2013)氏が蒼蒼第100号(2001年8月10日発行)記念に寄せた文章で、中華思想の本質を見極めると共に、その本質から見れば他の国や地域にも同様の考えが生まれ得るということが書かれています。そういった広い意味での「中華思想」でEU、そして英国の離脱を見てみましょう。

1.中華思想とは何か

蒼蒼第100号

 中国について学べば必ず行き当たるのが中華思想という概念です。「中華」とは世界の中心にある栄えた場所、或いはそこに住む民族という意味で、中華思想をおおざっぱに捉えればそれを対外的に誇る思想とでも言えましょう。

 ただ中華民族という実態があって中華思想が生まれたものか、中華思想を共有するから中華民族という概念ができたものか意見が分かれるところですし、必ずしも中国人自身が中華思想というものを意識している訳ではありません。

 長年中国研究に携わった竹内氏は中国を大国と認めた上で、それを特徴づける三つの点、即ち人口が多く、国土が広く、歴史が古いことを基に簡潔に中華思想の本質を見極めました。

 即ち、中華思想とは「中国人にとって『われわれはまん中にいる』と『われわれは繁栄している』と自画自賛すること」に尽きます。それを周辺から見た者が中華思想と名付けたに過ぎません。

2.中華思想と共産主義

 現代中国は社会主義国ですが、竹内氏は社会主義(共産主義)は中華思想と矛盾しないとも指摘します。

 近代に入って人口問題の解決に迫られた時、その火事場に「社会主義」という消防車がかけつけてくれただけのことで、別に社会主義でなくても良かったし、文化大革命による下放(1968-1978)、1980年に始まる外資導入も人口問題の解決手段であったとします。

 実際古代から伝わる伝統への回帰、愛国的であること、民族的であることは共産党員であることと矛盾していないとも。

3.中華思想の復興

 竹内氏は「中華思想の復興とは、中華思想が強く意識され、主張される状況を想定している」とした上、2001年からの10年間を「中華思想復興の時代」或いは「中華復興の時代」と予想しました。その理由は次の通りです。

 (世界で1990年代に流行した)「『グローバリゼーション』はもっぱら経済面の現象ではあるが、思想面においてもみられるようになるだろう。

 しかしそれは逆に『ナショナリズム』に栄養を補給するのであって、『グローバリズム』が普及するほど『ナショナリズム』は台頭するのだ。」。

 竹内氏の予想は的中しました。中国は「グローバリゼーション」により世界の工場となり、「『われわれはまん中にいる』と『われわれは繁栄している』と自画自賛すること」が盛んになり、2008年の北京オリンピック、2010年の上海万博を経て今日も南シナ海での緊張など「中華復興の時代」は続いています。中華思想は中国における「ナショナリズム」でもあります。

 歴史を見れば中華思想にも、「グローバリズム」にも、それが盛んになる時代もあれば衰える時代もあります。今の中国はその二つが共に盛り上がりを見せている時代です。

4.日本の「中華思想」

 中華思想の本質が「『われわれはまん中にいる』と『われわれは繁栄している』と自画自賛すること」であれば、我々日本人にも「中華思想」が生まれるはずです。

 徳川幕府を開いた徳川家康は、幕府が長く続くよう儒学の中でも特に主君への忠義を重んじる朱子学を幕府の公式学問に定めました。朱子学は宋の時代に生まれた、中国を「華」(文明国)、回りを「夷」(野蛮な人々)とする中華思想の体系です。

 中国の王朝交代を革命と言います。新しい王朝の皇帝は、前の皇帝に徳がなかったから天命が革(あらた)まったとして、自己の正当化を図ります。徳川は、その「徳」の字が示すように武力で建てた幕府を正当化し、徳のある君主として武士の忠義を受けようとしたのです。

 一方、朱子学には覇者という概念もあります。武力、権謀を用いて国を治める悪い王のことです。朱子学が広まるにつれ、武力で政権を取った徳川ではなく、出雲の国譲り神話以来万世一系の天皇こそが徳のある君主ではないかと考える者が出てきます。

 皮肉なことにその研究を深め、広めたのが水戸徳川家。その学問を水戸学と言います。水戸学では実際には武力で王朝が交代する中国の皇帝は覇者であり、万世一系の天皇を君主に頂く日本こそが「華」(文明国)と考えるようになりました。

 幕末を迎え、この日本式中華思想で「大和心(やまとごころ)」、「尊皇攘夷」と言って倒幕に動きましたが、小さな島国には「まん中」という実態はなく、「空疎なスローガン」(上掲文章竹内氏の表現)に終わりました。

5.近代の超克

 日本におけるもう一つの例を挙げましょう。竹内氏は上掲の文章の中で「近代の超克」についても書いています。

 近代の超克とは、「ヨーロッパ文明、英米の文化をありがたがること、これをお手本とすること、をやめようということだった。」、「西洋中心であった『世界史』にたいし、いまや日本が積極的に関与し、世界史は今後、これによって展開される」(昭和16年から翌年にかけて三回にわたって「中央公論」に掲載された座談会内容)、というものでした。

 昭和15年(1940)6月、ドイツの電撃作戦の前に陸軍大国フランスがたった一ヶ月の戦闘で降伏しています。昭和16年12月には日本海軍がハワイの真珠湾攻撃に成功しています。そしてその頃、ドイツの哲学者シュペングラーの著書「西洋の没落」の日本語訳が出版されました。

 同書でシュペングラーは、文明は生命体として生まれ栄え、ついで生命を終えるものとしました。「シュペングラーが一般的な『文明の法則』としてのべたことを、日本のインテリはヨーロッパ文明の衰微凋落の予言としてよみ、フランスというヨーロッパ最高の文化の代表的存在がドイツのナチズムに敗れたことによって、『ヨーロッパ近代』という価値は、はかなくも消滅したとうけとったのである。」

 「近代の超克」は僅か3年余り後の昭和20年8月に敗戦を迎えて終わります。

 このように中国以外の国や地域に生まれる「中華思想」は実態が伴うことは希で、中国のように長続きすることはありません。ただ欧州においては実態を伴う「中華思想」が生まれ、長続きする可能性があります。ローマ帝国という実績がありますし、「人口が多く、国土が広く、歴史が古い」からです。

6.英国の「中華思想」

英国航空機(上海浦東空港)

 中華思想の本質が「『われわれはまん中にいる』と『われわれは繁栄している』と自画自賛すること」であれば、英国にも「中華思想」が生まれるはずです。今回のEU離脱を巡る議論の中でもかつての大英帝国の栄光を背景にした意見が出ました。英国の「中華思想」です。

 確かに七つの海を支配した大英帝国は18世紀から20世紀にかけて世界に君臨しました。ただその最盛期は第四次英蘭戦争(1780)でオランダ勢力を駆逐したころ、同時期に産業革命が英国で始まりますが、それから第一次世界大戦(1914-1918)までの135年間に過ぎません。それから既に百年が経過しています。

 現在、英国の首都ロンドンは世界金融の中心都市の一つですがEUあっての中心です。EUの盟主ドイツであれば欧州大陸の中央に位置し、ローマ帝国、フランク王国、神聖ローマ帝国という歴史を自国になぞらえドイツ式中華思想が実態を持ち得ることは容易に理解できますが、英国民が今日抱く「中華思想」にどの程度の実態があるのでしょう。

7.ドイツの「中華思想」

 ドイツが抱くなら、その「中華思想」には現実味があります。私はドイツの「中華思想」がEUに結実していると考えています。ドイツは欧州大陸の中央に位置するのみならずドイツ系の人口も多く、何より統合を実現する経済力があります。

 EUのヨーロッパ統合は明らかに「グローバリズム」の一環です。冷戦終結後、急速に高まった経済の「グローバリゼーション」はEUを舞台にドイツの「中華思想」を高揚させました。ここで竹内氏の文章を再度引用しましょう。

 「『グローバリゼーション』はもっぱら経済面の現象ではあるが、思想面においてもみられるようになるだろう。しかしそれは逆に『ナショナリズム』に栄養を補給するのであって、『グローバリズム』が普及するほど『ナショナリズム』は台頭するのだ。」。

 中国において「ナショナリズム」は中華思想と一体ですが、EUにおいては阻害要因です。

 歴史を見れば「グローバリズム」は盛んになる時代もあれば衰える時代もあります。「中華思想」も同じです。英国のEU離脱は「グローバリズム」、そしてドイツの「中華思想」にどこまで水を差すものか。

 歴史上、全ての大国は武力によって形成されました。今更言うまでもありませんが、話し合いによる統合を目指すEUは、人類史上初めての試みです。一筋縄で行かないことは織り込み済みのはずです。

第68話終わり

写真1:2016年6月25日付日本経済新聞朝刊
写真2:蒼蒼第100号
写真3:英国航空機(上海浦東空港)