第70話 大和川の舟運<前編>

投稿日:2016年12月03日

 鉄道、そしてトラック輸送が普及する前の物資輸送は水運が中核を担いました。国土交通省「河川伝統技術データベース舟運」は、日本中の河川が物資輸送に利用されていたことを示しています。

http://www.mlit.go.jp/river/pamphlet_jirei/kasen/rekishibunka/
kasengijutsu07-11.html

 日本海側の小浜から京都まで鯖を人が徒歩で運んだという「鯖街道」は幻想に過ぎないことを私は指摘したことがあります(若社長の中国日記VOL.146「河川と内陸輸送」)。

 峠越えの78kmの道のりを休み無く時速4kmで20時間歩き続けたとすれば、運べる量は一人当たり10kgが限度です。塩鯖一尾が2kgとして5尾。これでは商売になりません。塩鯖は樽詰めにして北川⇒荷車で峠越え⇒石田川⇒琵琶湖の丸子船⇒荷車で逢坂山の峠越え、もしくは瀬田川で京都に運ばれたのです。

 中谷酒造のある大和郡山市は15万石の城下町。郡山は奈良盆地最大の都市でした。城下で消費される物資の少なからぬ部分(注)が大和川の支流である佐保川の水運で運ばれ、藩の産物が出荷されて行きました。

 その河川港が中谷酒造のある番条(ばんじょう)であったことなど記憶の彼方です。二回に分けて盆地の雨水を集めて大阪湾に流れる大和川の水運を追います。

 注:郡山城下の物資輸送は北10kmの木津(京都府木津川市)の港も利用していた。木津川舟運は上流の伊賀盆地(三重県伊賀市)を結び、下流は巨椋池(おぐらいけ)で京・大坂を結ぶ淀川舟運と繋がった。中谷家の先祖はこのルートで綿花を伊賀に売った。

1.奈良盆地の位置

奈良日日新聞(2016年8月16日第1面)

 先ず読者の皆さんにおおざっぱな地理をつかんでいただきましょう。

 奈良日日新聞(2016年8月16日第1面)記事に使用された地図をご参照下さい。奈良盆地全域の河川と古代道路を示しています。この地図の南北は30km、東西は14km。

 地図のまん中の「太子道」の「太」の字のあたりで河川が集まり大和川になり、西に流れて大阪湾に注ぎます。地図の左端から大阪湾まで20kmです。

 郡山城は赤い線で表された下ツ道の北端の西1km、平城京南端の線(九条大路)の南側にあります。奈良の旧市街地は平城京北東の出っ張り部分にあります。

 藤原京と平城京を結ぶ下ツ道、中ツ道、上ツ道の三道は平城京遷都に先立って7世紀に建設されたもので、その半分以上は1300年後の今も使用されています。

2.奈良盆地の舟運

大和川舟運地図(中谷正人作成)

 次はその拡大図。筆者が作成した大和川舟運地図をご参照下さい。河川を6万分の1の縮尺でトレースしたものです。距離感の目安ですが、地図の右側を縦に走る近鉄橿原線の郡山駅から田原本(たわらもと)駅までちょうど10kmです。

 ●印は上記国土交通省「伝統技術データベース舟運」に記された江戸時代のターミナル港を示したものです。港のことを「浜」と呼んでいました。

 大坂から大和川を遡上して来た荷は図の左端・亀の瀬で魚梁船(やなぶね)という内陸用の船に積み替えられ、図の中央の河合町(かわいちょう)を通り各支流河川に分かれて更に上流に運ばれました。

 河合町の名称は、北、東、南から川が合流するからに他なりません。河合町には川合浜があったことが確定していますので●印を付けました。対岸の御幸ヶ瀬(みゆきがせ)にも●印を付けましたが、これについては「4.大和川運上図」にて述べます。

 佐保川(さほがわ)最上流の港は中谷酒造のある番条。初瀬川(はせがわ)は嘉幡(かばた)、寺川は今里、飛鳥川(あすかがわ)は松本まで。曽我川については「6.江戸時代後期」にて述べます。

3.少ない資料

 ほんの百年ほど前、鉄道輸送に取って代わられるまで盛んに利用された魚梁船ですが、琵琶湖の湖水交通同様すっかり忘れ去られてしまいました。

 荷継問屋(につぎどんや。荷の輸送を手配する業者)は鉄道に仕事を奪われ絶えています。残された資料は極めて少なく、天理市南六条・森志郎文書「享保三年正月〜七月勘定目録」(「森家勘定目録抜粋」として以下に筆者が整理)で享保3年(1718年)1〜7月に限って浜毎の総数が解る程度。荷の種類、輸送経路、数量などおおまかな輪郭をつかむことさえ不可能です。

 荷の出し手、受け手側の商家の記録で追おうにも紙が貴重だった時代のこと、取引が記された紙は一定期間が過ぎると再生紙原料に回され残っていません。中谷家も大坂に酒を積み出していたのですが何も残っていません。偶然残った断片的な記録や資料、付帯状況などで推測するしかないのです。

森家勘定目録抜粋:
享保3年(1718年)1-7月 単位:駄(135kg)。1駄未満は四捨五入

大坂から亀の瀬に入った量
峠問屋扱い 17,428
藤井問屋扱い10,406
前年繰越   3,964
 計    31,798

亀の瀬と各浜間の輸送量(入は着荷、出は積荷)
今里 入 13,297 出 1,296
天神 入 5,684 出 584(筆者注:嘉幡)
川合 入 3,296 出 416
松本 入 1,052 出  5
筒井 入 1,194 出  46(筆者注:番条)
直付道渡し6,176 出 184(筆者注:上記5浜以外)
魚梁馬払 1,100 出  65(筆者注:馬での輸送分)
 計 入 31,798 出 2,595
(筆者注:魚梁舟の積載量は7駄余。荷が最も少ない松本浜へも毎日運行していたと推測できる。)

4.大和川運上図

大和川運上図(江戸時代)

 今里浜のように絵図が残っている希なケースもありますが、当時の様子が解る付帯資料もほとんどありません。数少ない資料の一つ「大和川運上図」をご参照下さい。

 木の幹のように見えるのが大和川。根元が大阪湾、即ち西です。幹の中程に■が三つ書かれています。二つは大和川を挟んで向かい合う岸辺。ここが魚梁舟の出発港で各々荷継問屋がありました。

 北岸が峠問屋、南岸が藤井問屋です。前記「森家勘定目録抜粋」で解るように、大坂から運ばれた荷は全てこの何れかの問屋を経由しました。川から少し離れた三つめの■には「船支配人安村喜右衛門」と書かれており、魚梁舟の運航を支配した安村の屋敷であることが解ります。

 図には大和川流域の地名が細かく書き込まれています。■は浜の目印で、上流側に所在地が書かれています。番条村(佐保川)、下永村(初瀬川)、今里村(寺川)、松本村(飛鳥川)です。扇の要の川合は、この絵が描かれた時期には対岸の笠目村の御幸ヶ瀬に浜があったようです。

 嘉幡の代わりに下永村と書かれていますが、昔は嘉幡村と下永村にまたがって天神村があり、そこに浜がありました。森家勘定目録には「天神」と書かれています。

 因みに嘉幡には菅田神社(すがたじんじゃ)伝承地があります。本来、菅田神社は天目一箇神(あまのまひとつのかみ)という製鉄神を祀る社ですが1523年頃に北北西1kmに移転し、いつのまにか天神を祀る神社に宗旨替えしました。

5.番条浜の位置

大和郡山市遺跡地図より

 番条が港であったことはすっかり忘れられていました。書かれた資料のみならず浜の位置の手掛かりさえないものと私はあきらめていたのですが、「大和川運上図」のお陰で知ることができました。

 この図で「番条村」は川の西側に書かれています。そこも番条には違いないのですが集落は川の東側です。そこで大和郡山市遺跡地図(2000年、市教育委員会作成)を見てみました。

 すると、番条の集落側から佐保川に架かる寿橋(ことぶきばし)を渡った西岸50メートルに「船津遺跡」と書かれているではありませんか。子供の頃から見慣れた盛り土で高くなった場所の意味がようやく分かりました。ここに倉庫その他の浜施設があったのです。

 現在の地名は丹後庄町(たんごのしょうちょう)字船津(ふなづ)で丹後庄に属しますが、番条の人が所有しています。丹後庄集落は水害を避ける為、江戸時代に番条の西側に移転してきたものです。

 森家勘定目録には「筒井」と書かれています。この目録は「筒井」と記す江戸時代唯一の資料ですが、なぜ「筒井」なのか。筒井集落は番条の南西1km。戦国武将筒井順慶の館があったところです。

 大和郡山市遺跡地図では番条環濠集落全域を「番条城跡」としていますが、中谷酒造は筒井順慶の砦(番条北城)跡に建っています。筒井氏の支配する港という意味で「筒井浜」。1615年(慶長20年)に筒井氏が滅亡した後もそう呼ばれ続けたのかもしれません。

6.江戸時代後期

大和川緒川やな舟溯行地図(江戸後期)

 魚梁舟の運航域が解るもう一つの地図、「大和川緒川やな舟溯行地図」をご参照下さい。「大和川運上図」が江戸前期から中期と考えられるのに対し、この図は右上欄外に「江戸後期」と鉛筆で書かれています。地図の上が北です。

寿橋から見る船津全景

 右下、法貴寺村の横に「やな舟此所まで参候 瀧より五里」と書かれています。即ち、初瀬川舟運の終点が嘉幡ではなく更に上流の法貴寺だったこと、魚梁舟の出発点にある滝(後編「9.亀の瀬の難所」にて述べます)からの距離が五里であることが解ります。

 西隣の寺川は今里村が終点。その手前の伴堂村(現磯城郡三宅町大字伴堂)には引き込み水路があり浜があったことが解ります。

 その西の飛鳥川は松本村まで、曽我川は大網村まで舟が来ていたことが解ります。

船津東側水路

 佐保川(この地図では奈良川。江戸時代、この区間は奈良川と呼んだ)は八条村で途切れており番条村まで描かれていません。

 中途半端な位置に書かれた「滝より三里半余」の記述は初瀬川との合流点の額田部(ぬかたべ)村板屋ヶ瀬浜を指しているようです。額田部には荷継問屋をしていた家が残ります。

 この図から江戸後期に確認できる法貴寺、伴堂、大網、額田部(板屋ヶ瀬)の四つの浜は、筆者が作成した大和川舟運地図に▲で示しました。

第70話<後編>に続く

写真1:奈良日日新聞(2016年8月16日第1面)
写真2:大和川舟運地図(中谷正人作成)
写真3:大和川運上図(江戸時代)
写真4:大和郡山市遺跡地図より
写真5:大和川緒川やな舟溯行地図(江戸後期)
写真6:寿橋から見る船津全景
写真7:船津東側水路